第十話
符浦栞と共に教室に入ると、騒がしかった室内が少しばかり静まりかえった。坂本杏すらもどこか視線が冷たい気がする。二人して並んで登校して来たからだろうか。そんなこと気にするな、小学生か! と大声で突っ込みたいが、そんな勇気、俺にはない。
ホームルームでは由香里先生が「栞は、桜庭と杏と同じ係に入ること」と告げた以外、特にいつもと変わりはない。「えぇ!」と坂本杏が驚きの声を上げているが、日常茶飯事なので突っ込み所ではなかった。おそらく「転校してきながら、何の係もさせないという訳にはいかない。しかし、どの係をやらせるか」と考えて、白羽の矢が立ったのが、一緒の家に住んでいる俺だっただけのことだろう。
一限――数学が始まるまでの短い時間、符浦栞はクラスメイト達の質問攻めにあっているらしい。言うまでもなく、いつも何かに突っ込んでいく坂本杏も、野次馬根性の塊とも言うべき女子高生の集まりに加わっている。「何かされなかった?」失礼な、俺を何だと思っている。
隣では中田が退屈そうに、数学のページをパラパラと捲っている。授業前の予習だろうか。珍しい、今日は大雨が降り、落雷も降り注ぐかもしれない。
「……そういえば、中田。昨日は何で呼び出されたんだ?」
数学の担任である望先生に呼び出され、学校へ戻っていく哀愁漂う背中が思い出された。あの望先生が呼び出すのだ。よほどのことをやらかしたに違いない。
「うぅん、あれなぁ……まぁ、アレだよ」
「どれだよ」
「気にすんな」
いつもと違いはっきりとしない物言いだった。よほど怒られたのだろうか。死んだ魚の目と揶揄される望先生と言っても、噂通り、怒れば鬼すらも畏怖するというのは本当なのかもしれない。少しばかり気になるところだが、朝のホームルームが終わり、一限が始まるまでの時間はそう長くなかった。
噂をすれば、望先生がやって来る。朝と同様に、もたつく足に弱り切った目。やはり疲れは取れていないように思われる。皆、心配そうに顔を見合わせる。教卓に立つ姿もかなり躊躇いがあるように感じられた。何年教師をやっているかは知らないが、それなりに長いはず。いまさら緊張なんて抱かないだろう。
教師がそんな調子でも、始まりを告げるチャイムは鳴り響く。「起立、気をつけ、礼」の声かけもいつも通り。ただ一人だけ――教師だけがびくりと驚いたように肩を震わせる。
――やはりおかしい。
体調が悪い。それ以上の何かを感じる。脳裏に “世界の敵” という言葉が浮かんだ。まさかな、そんなはずはないとすぐに否定する。理由はない。
「……えぇ、では……」
望先生の数学の授業は、前回内容の軽い復習から始まる。その際、前の授業で指名した生徒に簡単な質問をし、答えさせるという方法を取っていた。前もって指定されているので対策も取りやすく、変な緊張感に見舞われることもない。質問は本当に簡単なのでかなり良い手法だと自分は思っている。
しかし、望先生は話を続けない。手にチョークだけを持ち、何もせずただ立っている。
「先生、指名していたのは中田君ですよ」
と坂本杏が発言する。自らの記憶をたぐり寄せ、そうだったと思い出す。前回の授業で適当に当てられた人物は、確かに中田だった。隣の席で数学の教科書を見つめ勉強していたのは、当てられること覚えていたからか。
「中田……?」
「はい、中田君が当てられていたました」
「中田……あぁ、もしかして転校生か」
教室がシンと静まりかえる。冗談にしてはあまりに面白くなかった。とうの転校生は、何事かと辺りを見回している。
「えぇっと……え?」隣の席の中田も困惑した表情を浮かべ、血色の良かった顔も青ざめている。「中田は俺ですけど」と躊躇いがちに手をあげた。
「……待ってくれ」
教師の声は、今にも泣き出しそうで、か細く震えている。額に当てられた手が、目までも隠した。
「思い出せない……思い出せないんだ……生徒達の声が、顔が、名前が! どうして、どうして……すまない、本当にすまない」
悔しそうに噛みしめた歯の隙間から、息が漏れる。不規則な呼吸の音だけが聞こえる。その言葉が冗談ではなく真実であると、彼の姿が語っていた。
毎日を共に過ごしていた生徒の名前を教師が忘れる?
そんなことがあり得るのだろうか。自分がつい先日に呼び出した生徒の名前や顔を忘れるなんてことが。朝に話しかけた時、自分の名前を告げるまでに妙なタイムラグがあった事が思い返される。昨日誰もが注目した符浦栞の存在を、知らない教師が果たしているのだろうか? という新たな疑問も生まれた。
世界のルールを変える “カミサマ” のことが真っ先に脳裏に浮かぶ。理解できないことの全てが、それで説明できる気がした。
隣では絶望したような表情で、中田が望先生を見つめている。
〇
結局、望先生はそのまま保健室で休むこととなった。病院に行くことも進言したが、「大丈夫」という望先生の言葉に押し負けた。当然、数学の授業は一ページも進むことなく終わりとなる。理由が理由なだけに、喜ぶ者はおらず、気まずい空気が教室内を漂った。
特に中田は酷かった。話しかけても、思い詰めたかのように口を閉ざしている。そんな雰囲気を察してか、彼の周りはぽっかりと穴が空いたかのように人が離れている。
二限、三限、四限の授業もどこかギクシャクとしていて、空気がどんよりと重たくのしかかってくる。誰が悪い訳でもないのだが、話をしてはいけないような気がした。
昼休みは普通のように見えて、やはりどこか違う。
それでも腹は減るものだ。すっかり買い忘れていた昼食を買いに売店に向かおうとするも、符浦栞に止められる。
「誰も来ない場所で話がしたい」
そんな符浦栞のお願いを叶えるため、俺と彼女は屋上を目指した。我が校の屋上は、いつもは閉じられているが、とあるコツを使えば容易く開けられるのだ。そのコツを知っている学生は俺と中田の二人だけだった。彼曰く、友情の印として教えてくれたのだという。
その時以来、使うことはなかったが、「誰も来ない場所」として真っ先に思い浮かんだのが屋上だった。
秘密の場所をつい先日会ったばかりの符浦栞に教えるのは、少しばかり気が引ける。しかし、そういうことを言っている場合ではないだろう。俺としても、彼女と話しておきたいこと、聞きたいことはあった。
屋上に出ると、どこまでも続く青空が広がり、少し高い場所に位置する高校からの景色はなかなかに相関だった。通学路が小さく見え、その道をこれまた小さな人や車が走っていく。
「朝話してなかったけど、昨日の放課後に歪みが観測されていた」
前置きもなく、彼女は話し始めた。歪み――ゆっくりと記憶をたぐり寄せる。
「……能力を使った際に発生する揺れだっけ」
「そう。勿論、由香里おばさんとは別。場所の断定はできないかったけれど、おそらく学内」
新技術であるためか、まだ改良の余地はあるらしい。能力が使われたという時間は分かっても場所の断定まではできないようだ。彼女はフェンスに指を掛け、眼下を眺める。自分もそれに習った。いつもどおりの光景が広がっている。
「望先生が関係しているのか」
「おそらく昨日の放課後、能力者に記憶を弄られた。そう考えるのが妥当。由香里先生に話を聞く限り、昨日の放課後になる前は普通だった」
“記憶を弄られる”
そう言われれば、そうとしか思えない。しかし、能力者の存在を知らない者からしてみれば、病気か気が狂ったとしか見えないのだろうか。
「だが、理由がない」
望先生という一般人の記憶を弄る理由が、俺には思い当たらなかった。そんな俺の言葉に対し、
「理由はある。どんなものにだって、そこに至る筋道があるはず」
そう言う彼女の目は真剣そのものだった。
「私があなたの元に来たことにも理由はある、望先生の記憶が奇妙に歪んでいることにだって理由がある……理由が存在しないものはない」
「じゃあさ、栞さんが生まれてきたことにも理由があるのか?」
「……面白いことを聞くのね」
フェンスにもたれかかり、空の青を眺めた。夜のコンビニの蛍光灯に照らされた青髪が思い出された。ふと、あの青髪がまた見たいと思った。夜の闇にくすんだ青ではなく、太陽の下に照らし出された青髪が、風に靡く様はきっと幻想的であり綺麗だろう。
「私が生まれて来た理由は、世界を守るため」
風が吹き、彼女の黒髪が横に流される。スカートの裾が揺れる。彼女は笑みを浮かべ、
「それが私の存在意義であり、生きる意味よ」
あぁ、そうだ。彼女と自分は生きる世界が違うのだ。自分が生きるのはどうしようもないほどに日常で、変化のない世界で、閉鎖的で、それでいて狭い。しかし、彼女が生きている世界は非日常に満ち、表で生きる人達が空想でしか思い描けないような場所なのだ。
絶望的なまでに、彼女との壁を感じた。その壁はあまりに厚く、そして高い。
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