第二話

 緩やかな坂道を駆け上がる。はねた水が俺の制服を濡らしていくせいで、足が重たい。街灯は光を放って、ぼんやりと道を照らしてくれている。見慣れた道であるはずなのに、いつもと通る時間が違うだけで、そこは全く別の場所であるかのように思われた。

 坂の中腹まで登れば、二階建て新築の我が家に到着する。妹作、花畑になりたかった雑草畑の前を通り、玄関を押し開ける。とたんに多種多様の香辛料の香りが混じり合って、食欲をそそる香りがした。

 大急ぎで靴を脱ぎ捨て、光漏れるリビングに突っ込んでいく。そこではカレーライスが俺を出迎えてくれていた。

「……兄貴。行儀悪くて、気持ち悪い」

 ついでに冷たい目の妹もいた。黒髪のポニーテールがゆらゆらしている。

「気持ち悪いは余計じゃないか?」

 妹は俺の言葉を無視して、手を洗って来いと顎で指図してくる。これ以上機嫌を損ねさせたら、夕飯がなくなりかねない。さっさと洗面台へと向かう。ついでに服も着替えたい。

 両親は共働きで深夜にしか帰ってこない。そんな我が家の食卓を彩るのは妹の寧音だった。今晩はカレー。大量に作り置きがされていると考えると、明日もカレーとなるだろう。

 食卓に戻るとカレーライスの横にサラダが添えられていて、無駄にでかいテーブルの椅子の一つに妹が腰掛けている。俺は向かい合う椅子に座って、

「いただきます」

 と言うのに対し、

「どうぞ」

 と妹は言った。いつも通りの食卓である。カレーはちょっと俺の口には甘すぎた。それでも、まぁ、良しとしよう。

「兄貴。今日の帰り遅かったの何で?」と唐突に妹は言い出した。

「あぁ、ええっと。あれだよ」

 俺が好きだと噂されてる女の子と教室で二人きり談笑を楽しんだ後、雨の中二人で帰ってきたから遅くなったとは気恥ずかしさから言い出せず、俺は言葉を濁していた。

「どれだよ。もう頭ぼけたのか? 兄貴の介護なんて死んでもごめんだよ」

「おい、いちいち辛辣すぎるだろ。もう少し兄貴を敬う気持ちをだ――」

「は?」

 この妹、目が怖い。一気に室温が下がった。

「……カレーうまいぞ」

「それは当然。私のカレーは世界一」

「そうですね。世界一ですね」

「棒読み。もう一回」

「うまいわ。マジで」

「なら良ぉし」

 妹は小さな笑みを浮かべていた。

 うまいカレーをたらふく食って、

「ごちそうさま」

 と俺は言って、

「お粗末様でした」

 と妹は返す。俺は食器を水だめに突っ込んで、リビングを出て二階の自室へと向かう。我が家の階段の角度は急すぎて、心臓が少し縮こまる。歳をとって足腰が弱くなった頃には、二階には上れなくなっているだろう。

 二階に上がって二つある扉の内、左手が俺の部屋だ。右手の扉を見てみれば、立ち入り禁止の赤字がでかでかと書かれた紙が貼り付けてある。さらには扉の上の方には小さなノートの切れ端が挟まっているということを俺は知っている。

 自室は我ながら恐ろしいほど質素で、本棚と勉強机だけだ。本棚にも教科書と参考書、漫画が少し。娯楽の少なさはどこの高校生にも負けない自信がある。時折、妹の部屋の少女漫画をこっそり借りているというのは内緒だ。

 さぁて、勉強を開始しよう。もうすぐそこにまで迫っている夏休みの前には、期末テストという宿敵が立ちふさがっている。この宿敵を乗り越えなければ、補講という雑魚敵でありながら面倒くさい奴が夏休みの予定を崩しにかかってくる。それだけは避けたい。机に座り、意気揚々と単語帳を開く。


   〇


 最近、一週間に一回くらい、深夜の街に繰り出すのが一つの趣味のようになっている。今日も深夜二時に家を出た。太陽の姿はもちろんだが、分厚く空を覆っていた雨雲もない。どこまでも続く暗い坂道の脇に、街灯が一定間隔で並んでいる。

 この深夜の散歩は、一週間に一回と言っても正確には違う。正しくは夕食後部屋に戻って机について勉強中に寝落ちした日にのみ、だ。その周期がおおよそ一週間に一回というペースだったのだ。と言っても、一週間に三回ということもあるし、一回もないという事もあるし、曜日もばらばらだ。

 特に買いたい物があるわけではないのだが、夜出歩く時は、いつも、コンビニに足を運んでいる。幼ない頃からの憧れがあったためだろう、と思う。

 幼少期の頃の俺にとって深夜の街は、夢の世界だった。幽霊が闊歩し、物の怪の類が人をたぶらかし、警察がそんな街の平和を守っているのだと夢想していた。そんな街の中でも二十四時間経営しているコンビニってすごい、と思っていた時代が、冷めてると言われがちな俺にもあったのだ。こないだ妹にそんな話をしたら、鼻で笑われた。

 いつも行く定番のコンビニエンスストアは、家前の坂道を下りきった突き当たりにある。朝の通勤時刻にはサラリーマンががたむろし、陽が沈みかける夕方には高校生達がたむろしている。ちなみに、今の時刻だと近所の受験生のお兄さんが、ごくまれに出没する。

 コンビニはあっという間に到着する。まっすぐな道で、曲がり角もなく、通行を遮る車も歩行者もいない。いつも通りの光景に、いつも通りの暇つぶし……のはずだった。俺は駐車場よりも外側の歩道で、コンビニに入るのを少しばかりためらうこととなる。

 女が仁王立ちして、自動ドアの前に立っていた。特に何をする訳でもなく、本当にただ黙って――妙な威圧感を漂わせながら立っている。

 長袖の青いシャツ、ジーンズを着ていて、全身真っ青だ。長い髪までもが青く染められていて、青が好きなんだろうと何となく思った。

 店内で何かあったのだろうかと思ったが、レジにはいつもと変わらず店員が立っている。蛍光灯もいつも通りに点いていて、無数の虫が店前に集まり縦横無尽に飛び交っている。駐車場には車一台止まっていなかった。

 もしかするとあれは物の怪の類かも知れない。

 雪女か。いや、雪女は白だろう。だいたい今は梅雨であり、冬ではない。文字数と二文字目の「ゆ」が合っているが、月とすっぽんである。降ってくるものが片方は雨で、もう一方は雪だ。それに雪女が出るのは閉ざされた雪山の奥深くだと相場が決まっている。

 では、彼女は何をしているのか。仁王立ちをしているのは見れば分かるが、その行動の真意まではさっぱり分からない。

 俺は首を傾げ、あれこれ考えていると、青女が俺に駆け寄ってきた。あまりに突然すぎる行動に対して、俺は一歩後ろへ下がる。目も合わせないように、そっぽを向く。

「ねぇ、店入りたいんじゃないの?」

 彼女の声は異様なまでに冷たくて、見た目通りなんだなと俺は適当なことを思った。返答を考えてはみたけれど、買いたい物もないしなと渋っていたら、彼女は俺の腕を掴んでコンビニへと連れて行く。彼女の力は結構強くて、かすかな抵抗空しく、コンビニ前に俺は立っていた。自動ドアが開いて、入店を告げる音が店内に響く。しかし、俺も彼女も入ることはなく、自動ドアは開かれたままになっている。困り果てたように何度も入店を告げる音を繰り返していた。

「……えぇっと」

 別に嫌という訳ではないし、急にアイスも食べたくなってきた。ポケットに突っ込んだ長財布を確認し、俺は店内に入る。すると、

「おめでとうございます。あなたが本日十一人目のお客様です」

 と適当な拍手を交えて、青の女も入店した。店員も俺も少し呆然としてしまっているようで、遅れて「いらっしゃいませ」を言った。

「さて、君の名前を当ててあげよう」

 彼女は俺の前に立ち、腕を組み、高らかに宣言した。

「桜庭結城。これからもよろしく」

 彼女が告げたその名前は正しく、俺の名前だった。

「……もしかして、知り合いか?」

「いえ、全然。初対面よ」と彼女は首を振る。

「じゃ、なん――」

「まぁ、あまり気にしないで。これからあなたの家に伺うから」

「いや、ちょ――」

「私アイス買うけど、あなたは何か買うの?」

 彼女は俺の会話をぶった切って自らのペースで話をしている。俺は困り果てて店員に視線で助けを求めてみたけれど、若いコンビニ店員は外を眺めていた。

「私はこのハーゲンダッツにするけど、あなたは何がいい? 奢るわよ」

「いや、俺は自分の金あるし」

「これからあなたの家にお世話になるのだから、気にしないで」

「……待て、一回冷静になれ」

 落ち着け俺。この状況と女の言っていることから推理しろ。まず、この女は俺の名前を当てた。すると、俺の家に伺うという。さらには、今後お世話になるという。

「もしかして、俺の親の知り合いか」

「いや、あなたの親なんて知らないわ」

「あぁ、じゃあ妹か」

「あなた妹いるのね」

 どうやら家族の知り合いということではないようだ。懸命に頭を働かせ理解しようとしている俺に対して、彼女は我関せずといった様子で、ハーゲンダッツ二つを抱えてレジに並び、至って普通に買い物を済ませていた。

「んじゃ、帰るわよ。家どっち」

「……坂の上」

 俺はぶっきらぼうに、適当に答えたのだけれど、彼女は早く案内するように俺をせかした。

 あれよこれやと言っている間に、コンビニを出発。俺の隣には青い人がいて、坂のちょうど中腹の我が家へと現在帰ろうとしている。妙な光景だ。彼女の青は暗闇になじんでしまって、先ほどまで見ることができていた空色の青がくすんでしまっている。

「あなた高校二年生だったわよね」

「あぁ、そうだよ」

 何で知ってるんだよと思ったが、それらの疑問もまとめてぶつけるとしよう。

「私もよ。高校でもよろしくね」

「……」

 もう何か、面倒くさい。深夜に家を出なければこのような女に絡まれることもなかったのだろうか。

もしかすると、家に上がり込んだ途端に豹変して、ナイフを俺の首元に突きつけて金をせびられるのでは。もうその時はその時で、コンビニの監視カメラから割り出して逮捕してもらって、百倍にして返してもらえばいい。

 そんな妄想も、あり得るような気がする。これだと彼女が俺の名前を知っていた理由が説明できないのだが。

「ここだよ」

「結構新しいのね」

「築一年だ」

 見たところどこの明かりもついていない。俺は慎重に、扉を開けた。すると人影がぼんやりと暗闇の中に立っていて、体がビクリと反応する。玄関の明かりが付けられると、妹の冷ややかで鋭い目線で俺を見ていた。

「兄貴。どこ行ってたの」

「コンビニ行ってた」

「……後ろの人は? 彼女さん?」

 妹が俺の後ろに目を向けた。すると、それに合わせて女は前に出てこう言った。

「初めまして、超能力対策課、秘密兵器です」

 妹が何この人と訊ねたそうな目をして俺を見る。妹よ。俺が知りたい。

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