第一話

「神様の殺し方って知ってる?」

 前の席に座って無理矢理こちらに体を向けていた坂本杏は、唐突に語り始める。黒のショートカットが微かな動きに合わせて揺れ、大きな瞳はこちらをまっすぐに見つめている。鮮やかなうすピンクの唇の間から、理路整然と並んだ白い歯が覗く。

「知っているわけがないだろ」という俺のぼやきを一切無視して、彼女はさらに言葉を続けた。

「神様に、死にたい……あぁ、もう俺なんて生まれてくる意味はなかったんだぁ……と思わせればいいんだよ」

 なるほど。実に真理だ、と思いながら、彼女のまっすぐ過ぎる目から視線をそらし、黒板の上にかけられた時計に目を向ける。

 現在の時刻は午後七時。もう帰らなければ、作ってくれた夕飯が冷たくなって、レンジでチンしなければいけなくなる。それは避けたい。味噌汁はできたてをすすり、ご飯は炊きたての香りを楽しむべきだ。さもなくば、農家や漁師の方々、命の全てに申し訳が立たない。

「なるほど。よく分かったよ。坂本さん」

「そう? では、具体的な方法についてこれから議論しようではないか!」と彼女は笑顔で言い放った。

 そんなニッコリ笑顔で言わないでいただきたい。逃げ出せなくなってしまうではないか。性格は色々と残念だが、笑顔のかわいさと、妙に多いボディタッチのせいで、男達は坂本杏が堂々と目の前で張った罠から逃げられない。

 時計は相も変わらず、チクタクと時を刻んでいる。

「……神様ってのはどこにいるんだ?」

「そうだ! まず、それを知ることが必要だ」

 彼女はうんうんとうなって、目をつむり、体を上下左右にくねらせながら、神の現住所を考えている。彼女なりの一つの解はすぐに出たらしく、びしっと背を伸ばし、顔をぐいっとこちらに近づける。黒のショートカットが揺れに揺れ、さらさらとしている。大きな目に長いまつげ。どことなくいいにおいまでする。

「まぁ、これから長い人生あるんだし、会うこともあるでしょー」

 結局解は出なかったんですねという言葉を無理矢理飲み込んで、俺は目をそらした。

「……そうだな。あるかもな。いつか遠い未来にな」

「口調も適当だし、目もそらすし、何でかなぁ? ゆうきぃぃい?」

 夕日の茜色が教室に差し込んで、彼女の制服の白いシャツを紅くして、ついでに頬も染めていた。俺の頬はおそらく、彼女以上に紅いのだろう。そんな夕方の教室に二人きりという特殊な空間が作られたのは、少しの偶然と、その他諸々のクラスメイト達による工作の成果であった。

 クラスメイト達が工作をするに至った原因の一つは、俺がこの坂本杏のことが好きであるという根も葉もない噂である。

 この噂が流れ出したのは、二年生になってすぐのことだった。ボーイズトークと呼ぶかは知らないが、その名の通りむさ苦しい男共で集まって、女子の話をしていた。その女子に関するテーマは星の数ほど存在するが、俺がこのような噂を被ることになったテーマは、好きな女子のタイプという物である。そのとき俺の話したタイプが恐ろしいほどに坂本杏と合致していた。その時の「じゃあ、お前は坂本杏が好きなんだな」の一言が巡り巡って今に至るのだ。

「……話を聞いておるのかね」

「いや、全然」

 彼女はむぅっと頬を膨らませた。だが、そんなもの俺にはこれっぽっちも通用しない。彼女にどんな言葉を返そうか考えているその時、教室の扉が無駄に大きな音を立てて開かれた。慌ててそちらに顔を向ける。圧倒的大人の魅力を携えた美人が、仁王立ちしてそこにいた。

 長い黒髪、冷たい目。すらりと伸びた長身から脚にかけてのラインが実にきれいだ。この人、由香里先生は俺たちの担任であり、文藝部だかの顧問であり、二十五歳孤高の独身だった。そんなことを言うと、冷たい目がさらに冷たくなってしまうので心の奥底にでも留めておく。

「何二人は青春の一ページみたく、茜差す教室でよろしくやってるんだね」

「おぉお、由香里先生じゃないですかぁ?」

 坂本杏は颯爽と椅子から立ち上がり、由香里先生の元へと駆けていく。スリッパがぱかぱかとなる度に、膝上の丈のスカートが上下に揺れ動く。

「君たちさっさと下校しなさい」

「えぇぇえ! 何でですか!」

 だだをこねる杏をよそに、俺はプリントの束と鞄を持って、教卓に無造作に置かれた教室の鍵を掴んだ。その短い間にも由香里先生と坂本杏はいまいちかみ合っていない言い合いをしている。そんな二人の間に分け入って、

「先生、俺たち帰りますんで」

 と扉の閉鎖を強行した。

「えぇ、もうちょっといいじゃん」

「おぉ、桜庭。鍵は私が閉めておく」

 由香里先生は俺から鍵を颯爽と奪い取り、早く帰るよう俺たちに促す。今の俺にとってとてつもなくありがたいお言葉だ。ちなみに桜庭は俺の名字だ。

「じゃあ、お願いします。由香里先生」

「それじゃね。由香里先生。結婚式には呼んで下さいね」と坂本杏はいらない言葉を付け加える。

 俺たちの背後で耳をつんざく悲鳴が聞こえた。もしかすると幽霊か呪縛霊のたぐいかも知れない。早く成仏しますように、と願いながら蛍光灯が消された廊下を夕日の弱い光を頼りに進んでいく。

 彼女は階段を一段飛ばしで駆け下りる。俺は、ゆっくりと一歩一歩降りていく。彼女が階段下の踊り場で早く早くとせがむのを見ても、俺のペースは変わらない。踊り場の端っこには埃が溜まっていて、彼女が妙ちくりんなステップを踏む度に、木造建築の床は軋み、埃が空を舞っていた。そんな埃の汚れた白は夕日に赤く染められて、嫌に目立った。

「ねぇ、帰りどっか寄ってく? ドーナッツとか食べたくない?」

「それよりも、俺たちの残っていた理由。忘れてないよな?」

 彼女はほんの数秒間、思案したようであるが、

「何だっけ?」

 と可愛く首をかしげて言った。

「……この数学プリントをクラスみんなのぶんをまとめて、先生に提出するんだよ」

 実際の作業は十数分で終わったが、一人出してない奴がいた。「家帰って取って来る、三十分だけ待ってくれ」という言葉を信じて待って、一時間経過しようとしている。さて、謎の空白時間三十分は何だというのだろうか。さらには現在進行形で、その空白時間は増えている。三十分を過ぎた辺りからもう提出しに行こうとしていたのだが、坂本杏に手を捕まれて、あと少しだけと言われたら、立とうと力を入れていた足がガクンと崩れてしまった。

 ちなみに、俺が提出物の管理係に坂本杏と一緒になったのは、係決めの日に俺が欠席していたために行われた、クラスメイト達による工作の成果であった。

「おぉ、そうだったねぇ。さぁ、行こうか」

 彼女は一階に降りたって玄関に向けていた体を、えいっという掛け声とともに職員室へ向ける。そして、そのまま全速力で駆けていった。あっという間に姿は遠くなって、俺は深くため息をついた。遠くの方で、どたどたという大きな足音とともに床が激しく軋んでいる。ついでに「こらぁぁあ、廊下を走るなぁぁあ!」という由香里先生の怒声が聞こえて、廊下を走る足音が二つに増えた。二人分のエネルギーで床が大きく軋んでいる。俺は再度さらに深いため息をついて、職員室へと向かう。

 創立百年になろうとしている我が校の木造建築物は至る所に限界が来ている。トイレを流せば黒い水が流れ、冬のすきま風が入る教室は掘っ立て小屋を彷彿とさせる。駐車場には猿が行き交い、猫の子育てが盛んに行われている。これほどまで自然と寄り添って生活できる高校は、先進国である日本には存在しないのではなかろうか。

 生徒の授業を行う生徒棟とは別位置に立っている職員棟へと長い渡り廊下を進んでいく。夏休み前の梅雨の今。じめじめとしたコンクリートの気持ち悪さを感じながら、少し速度を上げた。あの二人が立てていた騒音がやんでいる。そろそろ職員室に到着して、有り難い説教が行われていることだろう。

 職員棟の木製の扉はかなり力を込めないと開かない。今の時期は特にそうだ。水分を吸って膨らんでいると、太った眼鏡の教師が言っていた。

 こじ開けてすぐの廊下を右へと進む。名前も目的も定かではない無数の部屋は閉じられている。そんな扉の前をさらなる早足で抜けていき、冷たい鉄製の扉を開くと、そこは教師がちらほらといる職員室だ。やはりと言うべきか、坂本杏と由香里先生は対峙していた。俺は視界から二人の姿を外して、数学教師の望先生の机へと向かう。しかし、そこにいるべき教師の姿はなく、待ち疲れたから帰る、という書き置きが無造作に置かれていた。

「……置いて帰るか」

 仕方ない。俺は抱えたプリントを書き置きの上に無造作に置いて、回れ右して帰路についた。まっすぐ何も考えずただ家に帰るとしよう。

 しかし、世の中そう甘くはない。

 つい先ほどまで、きれいな夕日をたたえていた空には、暗雲が立ちこめて、雨がおんぼろの木造校舎にたたきつけられていた。降水確率が高いからと、自転車ではなく歩きで来たのは救いだが、遅い帰宅がさらに遅くなっていく。空いた腹がぐぅと鳴った。

 玄関にて俺はしばし、立ち尽くしていた。早く帰るべきではあるのだろうが、どうにも足が進まない。実に憂鬱だ。

「おぉ、雨だねぇ」

「……由香里先生の説教は終わったのか」

「ん? 何か大雨だからさっさと帰れって」

 おそらくあの先生も早く帰りたくなったのだろう。正面門を黒のレクサスが颯爽と抜けていく。日本車がやっぱり一番かっこいいねぇと、余り詳しくもないというのに豪語していた由香里先生自慢のマイカーだ。まぁ、確かにレクサスはかっこいい。

「何でこんなところで突っ立てるの? あ、もしかして待っててくれたとか――」

「ねぇよ」

 彼女の言葉を無理矢理にでも遮って、俺はビニール傘を広げた。ばさっと大きな音がして、彼女は小さな悲鳴を上げる。すまんという俺の言葉は、自らの足音と雨音にかき消された。

相も変わらず雨は強く降り続く。遠くの景色は大粒の雨に遮られて見えない。脚を少し動かすだけで、水が入り込み、靴が水浸しになっていって、歩くとべちゃりと音がした。背後からはわざわざ水たまりを狙って、跳ね回る音がついてくる。それは幽霊でもお化けでもなく、華の女子高生坂本杏だった。

 隣に赤の大きな傘が並んだ。じっとりとした雨の中、華やかな笑顔で歩いている。俺は歩く速度を少し落とした。理由はいつも通りの速度だと、靴下のべちゃべちゃとした感触が気持ち悪さを増すからだ。

「結城。家どっちだっけ?」

「あっち」

 俺は坂道に立ち並ぶ閑静な住宅街が見えるはずの方向をあごで示す。

「あぁ、そっか。私はあっち」

 彼女は田んぼが広がる平野を、腕から指先までぴんと伸ばして、指さした。そっかと俺は言葉を返して、彼女はうんと頷いた。

 互いに何故か会話はなくて、一瞬にして、その時間は終わってしまう。

 大きな桜の鎮座する分かれ道。美しき桜の花はとうの昔に散っている。片方は、俺の家もある閑静な住宅街、もう一方は田んぼの続く田舎道。

 俺の透明な傘と、彼女の紅い傘。互いに揺れに揺れながら、「また明日」の言葉を交わし、正反対の方向へと帰って行く。

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