Day7 僕達の平成
優星が目を覚ますと、周囲にはバラとパンジーの鉢があった。噎せ返るほど濃厚な花の匂いがする。
――真白の家、か?
上体を起こすと、頭が揺さぶられたような眩暈で吐き気を催す。
そこで、団地の屋上から飛び降りたのを思い出した。
洗濯機の中を想像させるような、ぐるぐると回る青い視界。
酷い目に遭ったと、やっとのことで起き上がると、話し声が聞こえてきた。
「なんだか、緊張するね」
「うん」
窓を閉めたのだろうか。会話はそこで途切れた。
今でも忘れていない、真白の声に心臓が高鳴る。
そして、十年前の、優星と真白との会話だ。
つまり、今は四月三十日。真白と自殺をした日。
優星は緊張で過呼吸になりそうなのを、口許を抑えて静める。
このまま辿っていくならば、二人は部屋から塩素ガスが漏れないようにガムテープを貼っているはずだ。
ここで、蹲っている場合ではない。
優星は立ち上がると、玄関のドアノブに手をかけた。
……ドアは無用心にも開いていた。
優星は靴を脱ぐと、音を立てないようにゆっくりと移動した。
確か真白の部屋は、二階だ。
『MASHIRO』と書かれたドアプレートの下、優星はドアに耳を当てて、中の様子を窺った。
これから睡眠導入剤を飲むところだろうか。
死のうとしているとは思えないほど、普通の会話が聞こえてくる。
「優星くんは、なんでわたしに付き合ってくれるの?」
「なんでだろうな」
――こんな、会話をしていただろうか。
薬で記憶が飛んでいるだけか、あるいは過去とは言え、違う世界だからだろうか。
「芥川が死ぬときにね、『唯ぼんやりとした不安』って残しているけれど、なんとなくわかるような気がするの。
こんな世界、生きていても仕方ないもんね。わたしたちが大人になった頃って、今より税金は重くなって、年金は貰えなくて、働いても働いても幸せになんてなれないんでしょ。
環境は悪くなるばっかりで、自殺者は絶えない。笑っちゃうくらい暗い未来だよね」
真白の乾いた笑い声が聞こえる。
「優星くん……? 寝ちゃった?」
なぜ、同じタイミングで睡眠導入剤を飲んだはずの真白だけが起きているのだろうか。
しばらく息を潜めて聞いていると、ずりずりと引きずる音が近づいてきた。
小さな声で、何度も「ごめんね」と呟く真白。
優星は、その瞬間、なぜ自分が生きていたのか悟った。
ドアが開く――。
「……真白」
あの日、真白は優星が眠り落ちるのを見届けて、優星の体を廊下に放り出したのだ。
……優星を生かすために。
だから、優星は喉を焼いただけで済んだ。
「あなたはだれ?」
いつも、何があってもへらへら笑っていた真白が、驚いた表情で固まっていた。
初めて見る表情だ、と場違いなことを思った。
「……俺は」
言葉が詰まる。正直に明かしたところで、真白は信じてくれるだろうか。
「ゆーせーくん?」
「え?」
「優星くん、なのかなって。さっきわたしの名前呼んだときの声、優星くんが呼んでくれたときと同じだったから」
優星の杞憂だったらしい。
真白は同じ人間が二人もいるこのとんでも展開など気にしてもいないようだ。
「……十年後から来たんだ」
「タイムトラベル? 十年後はそんなことできるの?」
「いや、まあ……なんつーか」
真白はドアを大きく開けると、「どうぞ」と優星を部屋へ
白を基調とした可愛らしい部屋。フリルのふんだんにあしらわれたベッドに、二人で腰掛けた。
真白は床で寝ている過去の優星と、横に居る優星を見比べている。
「優星くん、あんまり変わってないね」
「……そうか?」
「うん。相変わらず
最近、同じセリフを言われたのを思い出した。
「……生きたくないよ。なんで、真白は俺を置いて逝ったんだ」
言葉を吐き出す度に、涙が込み上げてきた。
真白の細い肩を抱きしめる。昔、あんなに躊躇っていたのが嘘みたいに、優星は力強く抱きしめた。
真白から、日向の匂いがする。
真白が死んで、悲しくないなんて、嘘だった。
「俺、真白が死んでから、十年も生きたんだ」
「世界は、なにも変わらなかった。悪いやつは必ずいるし、戦争はなくならない」
「ただ、世界のどこにも真白がいないんだ」
「真白はわかんねぇだろ、置いてかれた俺の気持ちなんて」
「俺を置いて逝くくらいなら生きろ。……生きろ。死ぬな」
「……頼むから……死なないでくれ!」
「真白の居ない世界なんて嫌だ……寂しい……ずっと寂しかった」
真白は泣きじゃくる優星の背をそっと撫でた。
優星の零した熱い雫が肩に降りかかってくる。
真白は静かに目を閉じた。
「十年後に平成が終わるんだ。新しい時代が始まる。
世界は変わらないかもしれない。
悪い人はいるし、戦争もなくならないかもしれない。
税金は上がるし、少子化は進む一方で、年金も貰えないかもしれない。
それでも、一緒に生きてくれないか」
「やあ、おかえり」
団地の屋上で星を見上げていた黒前は、やってきた優星に笑いかけた。
優星の泣き腫らした目の奥、なにか光るものが宿って見えた。
「……ただいま」
七星 真白のいない世界で、優星は新しい時代を迎えた。
平成が終わるまで、あと一日。
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