4

 井戸の水を汲んだおじいちゃんは、わたしにそれをぶっかけた。

「あなた!」

 おばあちゃんが叫ぶ。鼻の中に水が入って痛い。

「なんてことをしたんだ」

 全身ずぶ濡れで地面に座り込むわたしを、おじいちゃんが見下ろす。

「狸に同情するなんて。――おまえは自分が何をしたのか分かっているのか!」

 死んだ子狸に手を合わせるわたしを見つけたおじいちゃんは、鬼のような形相で「馬鹿者!」と怒鳴った。一瞬で縮こまったわたしを、おじいちゃんは腕を引っ張って車に押し込んだ。「痛い」と叫んでも放してくれなかった。

 わたしが出ていった後、おばあちゃんがすぐにいないことに気づいたらしい。心配したおじいちゃんが車を出して、わたしを探してくれたのだそうだ。おじいちゃんたちは優しいから。

「一花、聞いてるのか!」

 ……優しい、から。

「――分からないよっ!」

 わたしは叫んでいた。気温が下がって風が冷たい。ずぶ濡れになったせいで寒い。

「何で? 何で狸にあんなひどいことができるの! わたしたちが殺したのに!」

 おじいちゃんに負けないくらいの強さで睨みつけた。

 そうだ。狸が可哀想なのもあるけど、わたしがイヤなのはこれだ。

 わざとじゃなくても、わたしたちの車が狸を轢き殺した。

 それを悪く思うどころか、「おまえが悪い」なんて言って、死体を蹴って、お墓も作らずに放っておくなんて。


 ――ひどい、と思った。

 優しいおじいちゃんとおばあちゃんが『ひどいこと』をした。


 それがイヤだったのだ。おじいちゃんたちは優しいのに。優しい人のはずなのに。

『ひどいことをするおじいちゃんたち』がイヤで、悲しくて、たまらなかった。

 ふいに、おじいちゃんが寄せていた眉根をほどいた。


「死んだ動物に同情する……一花、おまえは優しい子だ。おじいちゃんは一花がいい子で嬉しいよ」

 いつものおじいちゃんの柔らかな声。分かってくれた、と思った、けれど。

「でも、狸はだめだ。だめなんだよ、一花」

 おじいちゃんが井戸の水を汲み上げる。

「狸に同情してはいけない、たとえ殺しても負い目を持っちゃいけない――ここではそれが『当たり前』なんだよ」

 冷たい水が顔面に叩きつけられた。口に入って気管に落ちて、ひどく咽せる。

「一花。狸の穢れがおまえを蝕もうとしている。同情心はそのせいだ。でも水で浄めれば大丈夫だからな」

 そう言っておじいちゃんは、井戸の水を何度も何度もわたしにかけた。


 ……しばらくして。

 家にいる四葉ちゃんが泣いて、やっとおじいちゃんは手を止めた。

 おばあちゃんがおじいちゃんを四葉ちゃんの方に行かせると、バスタオルをわたしの身体に巻いた。

 夏なのに震えが止まらない。歯の根が噛み合わない。指先が痛い。

 おばあちゃんが私の背中をさすりながら、

「こんなに冷えて……大丈夫?」

 これが大丈夫なように見えるんだろうか。

「でもね、一花ちゃん。分かってちょうだい。――狸は本当に、危険な生き物なのよ」

 わたしの手を引いて、お風呂に連れていくおばあちゃんが、だめ押しのように言ってきた。

「おじいちゃんのお兄さんがね、猟師をやっていたの。山で狸を狩って、その毛皮を売って生活していたわ。そのお兄さんが、山の中で死んだの」

 お兄さんの死体は、獣に食い散らかされてひどい有様だったという。

「爪痕や、お兄さんの身体に残っていた毛から、狸によるものだって警察は言ってたわ……もう三十年も前のことよ」


 わたしをお風呂に入れた後も、脱衣所でおばあちゃんは話し続ける。


「それよりもっと昔のこと。おばあちゃんのお友達の男の人が、夜道できれいな女の人に出会ったの。その人は女の人に誘惑されて、つい抱きついたら……それは本当は棘だらけの木だったの。狸に化かされて、棘の木を、女の人だと思わされたのね」


 その人は全身に棘が刺さって、血みどろになったのだという。


「十年くらい前にも、お隣の……といっても十メートルくらい離れてるけど、そのご家族が誤って狸を車で轢いたことがあったわ。……その人たちも死んでしまったの。一花ちゃんと同じ年頃の娘さんも、狸に噛み殺された。祟り殺されたのよ。だから、ねえ、おじいちゃんがあんな風になるのも分かるでしょう?」


 おばあちゃんは念押しして、静かに語り続けた。狸がいかに恐ろしくて残酷な生き物か、わたしに教えた。


「狸はね、化かすのよ。そうして人を苦しめる、わるい生き物なの」


 けれどわたしは、素直に聞き入れないでいた。

 昔話じゃあるまいし、狸が人を化かすなんてありえない。

 そんなものより、わたしは、おじいちゃんやおばあちゃんの見たことのない一面の方が、

(よっぽど……)

 まだおばあちゃんの話は続いていたけれど、わたしは湯船の中にもぐった。

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