5

 おばあちゃんに晩ごはんを勧められたけど、食欲なんか出なかった。縁側のある和室に布団を敷いて、おばあちゃんと四葉ちゃんと一緒に寝た。

 蚊帳――実物は初めて見た――を吊って、四葉ちゃん、おばあちゃん、わたしの並びで横になる。四葉ちゃんはちょっとグズったけど、おばあちゃんが抱っこして背中をぽんぽんしたらすぐに眠った。

 天使の寝顔に、わたしの気持ちが少しだけ浮上する。

「おなか冷やさないようにね」

 おばあちゃんの気遣いにわたしは返事する気になれず、薄い夏掛け布団を頭まで被った。

(……ほんとに涼しいな)

 布団を被ってるのに暑くない。むしろ肌寒いくらいで、寝るには理想的だ。

 あの灼熱と冷房の地獄で、「もういやだ」と茹だった頭とだるい身体で嘆いてたわたしには天国だ。

 涼しさの楽園だ、ここは。

 ――なのに。


(帰りたい……)

 一日目でこんなことを考えるなんて予想外だった。お父さんが「絶対にホームシックになる」ってからかってきたのを思い出す。

 ……家が恋しい、んじゃなくて。

 ここに――おじいちゃんたちの家に、この田舎にいたくない。

 狸にむごい仕打ちをするのが『当たり前』の場所。

 わたしが住む街――都会でも、野良猫や鳩やカラスを車で轢いて、知らんぷりするひどい人はたくさんいるけれど、これはそういうのとは違う気がする。

 わたしの『当たり前』が、ここでは通じないような。

 死んだ動物を可哀想と思うのが悪いことだと、わたしには思いも寄らなかった。

 まるで異なる世界――異界にいるような。

 そんな気がした。


 最初は嬉しかった涼しさも異質に感じて、わたしはぶるっと震えた。

(明日……お母さんに電話してみよう……)

 そんなふうに考えているうちに、わたしは目をつむって、いつしか眠ってしまった。


 ……

 …………

 何か、聞こえる。

 甲高い、音。……声?


 四葉ちゃんが夜泣きしているのだろうか。と思った瞬間、低い声に変わった。

 何かが呻いている。

 ごろりと寝返りを打って、わたしは重いまぶたを開けた。開けっ放しの窓の向こうは、黒に近い青の墨を流したような空と、ぽつぽつと見える白い粒々みたいな星。まだ夜中だ。

 何気なしに首筋に手をやると、ぬるっ、とした感触がした。

(汗……?)

 汗かいてるの、わたし?

 全然暑くないのに?

 首以外にも頬や腕がぬるぬるしていた。パジャマも湿って身体に貼りついて気色悪い。

 手の甲の汗を掛け布団でぬぐうと、横で寝てるおばあちゃんが微かに呻いた。

「おばあちゃん……」

 呼びかけたけど、返事はない。

 苦しげな呻き声だけが返ってくる。

「大丈夫? 具合でも悪いの……?」


 急に心配になって、わたしは手探りでスマホを探した。ホームボタンとライトのアイコンをタップする――と。


 パッと明るくなった液晶画面に、赤い液体がついていた。


 思わず手を離してしまって、ゴトンとスマホがライトの光を上にして落ちる。強烈な光が室内を照らし出した。

 わたしの手は真っ赤だった。

 赤い液体が、わたしの手を、腕を、パジャマを……真っ赤に染めていた。

「やだぁ!」

 首がむず痒い。もう一度手をやって、ぬるぬるの首筋を撫でる。汗だと思っていたそれは――

 血だった。


「おば、おばあちゃん!」

 わたしに背を向けて寝ているおばあちゃんの肩を揺らした。おばあちゃんは呆気なくこちらを向いた。

 光に照らされたおばあちゃんの顔が、血まみれだった。

 目をカッと見開いて、シワのある口元も開けて、両頬に切り裂かれたような傷が一筋ある。その傷から血が、たくさんの血が、流れ、て……。

「いやぁああ! おか、お母さんお父さんっ!」

 お母さんもお父さんもいない。それは分かってるけどそう叫んでしまった。

「どうした!」

 襖が開いて、寝間着姿のおじいちゃんが入ってきた。おじいちゃんはヒモを引いて電灯をつけた。室内が一気に明るくなる。ぶぅん、と大きな蛾が飛んでいた。

 おじいちゃんは「三恵子みえこ!」とおばあちゃんの名前を呼んで抱き起こした。おばあちゃんはお人形みたいにぐったりとしていた。頬だけでなく腕もおなかも足も傷だらけで――右腕は半分ちぎれかけていた。


「噛まれたのかっ」

 おじいちゃんが傷口を見て言った。確かにおばあちゃんの腕や足には、歯で噛んだみたいな痕がある。そしてすじ状の傷は、

「引っ掻かれたのか……!」


 爪痕、だ。

 誰の――何の動物の仕業かなんて、言われなくても分かる気がした。おばあちゃんの白い敷き布団の上に散らかる、黒い毛が確信をもたらす。


「狸め……!!」

 おじいちゃんが絞り出すように言うと、庭でガサッと大きな物音が立った。目を向けると、茂みの中にふたつの小さな光があった。

 ガサッとまた音がして、ふたつの光が四つに増えた。

 さらに音がして、四つが八つに増えた。

 わたしが目を離せないでいると、光が……一対の光がどんどん増えていった。


 あれは、目だ。


 低い位置にある大量の光る目が、こっちに近づいてくる。

 室内の明かりが照らすところまでそれらが移動すると、もう分かっていたことだけど、その『目』の持ち主たちが姿を現した。


「……たぬき」


 掠れた声が出た。

 イラストやゆるキャラのタヌキはまるっこいけれど、実際の狸はスラリとしなやかな面立ちだ。

 目の周りが黒くて、つぶらな瞳がボタンみたいだ。長い鼻面に犬よりも短い脚。昼間に会ったらわたしは「可愛い」とはしゃいで写真を撮るかもしれない。だけど今は、この闇夜では、無表情でこちらを見据える狸の群れに、わたしは言葉を失うしかなかった。

 狸がこっちに、わたしたちに近づいてくる。

 何匹かの毛並みが赤黒く汚れていて……あれはおばあちゃんの……血、だ。

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