3

 おじいちゃんの家は古い平屋だ。瓦の屋根も、木の格子でできた玄関も、ニワトリがうろつく庭も、畳の部屋も縁側も、何度か訪れただけのわたしにはあまり馴染みがない。だけど心が勝手に懐かしいと感じる。

 庭に面した和室で、わたしは畳の上で寝転んでいた。い草の香りと土の匂いが漂う。力なく手足を投げ出した。

 庭に差し込むお日さまの光が赤い。もう夕方だ。


(……おじいちゃんと、川に行くはずだったのにな……)

 この家に着いた途端、わたしは急に気持ち悪くなった。口を押さえて座り込むわたしに、おじいちゃんたちはオロオロした。


 ――「一花、車酔いか? それとも熱中症?」

 ――「お医者さんに行った方がいいのかしら」


 おじいちゃんたちは心配してくれた。

 二人は、優しい。わたしが小さい頃から、ずっと優しかった。障子にイタズラして破いても怒らないし、嫌いなピーマンを残しても許してくれる。お母さんが「お義父さんたちは優しすぎです。甘やかさないでください」って注意するくらいだ。

 なのに。

 昼間目にした光景が忘れられない。

 車に轢かれた――ううん、轢いた子狸への、あの言葉。

 冷たい、容赦がない、残酷――イヤな言葉ばかり浮かぶ。そんな声と目だったのだ。

「狸はわるい動物」という言葉が気になって、さっきスマホで少し調べてみた。それによると狸は『害獣』で、農作物を荒らしたり家畜を襲ったりするそうだ。

 おじいちゃんも、畑で野菜を育ててニワトリを飼ってるから、もしかしたら狸に困らせられたのかも……ううん、違う。


「祟りやすい」って、おじいちゃんが言ってた。


(――祟り、って何だろう)

 むくりと起き上がって、真っ暗なスマホの画面に指を伸ばした時だった。


 ……キュエェ――エ……


 どこからか遠くで、鳴き声が響いてきた。

 昼間に聞いた狸の声だ。高く澄んで、笛の音みたいにキレイなのにどこか寂しい。こっちも切なくなるような、ひとりぼっちの遠吠え。

 あの親狸だろうか。

 ……あの子狸の死体は、どうなったんだろう。

 親狸が、宅急便のマークみたいに口にくわえて連れていったらいいけど、もしもそのままだったら。

 カラスに突つかれたり、他の動物に食べられたり、

 別の車に轢かれたり……?


 無惨な光景を想像して、わたしは寒気と居たたまれなさを感じた。

 その時、襖の向こうからおばあちゃんの声がした。

「一花ちゃん、大丈夫?」

 びくっと、わたしの肩が跳ねる。

「もうすぐお夕飯だけど、食べられそう? 一花ちゃんの好きなからあげいっぱい作ったのよ」

 いつもどおり優しいおばあちゃん。でも、わたしは、

「えっと……まだ、気持ち悪い」

 嘘をついた。本当は気持ち悪さはもうないし、おなかも空いてるけど。

「そう。じゃあもう少し後にしましょうね」

 おばあちゃんの返事に、わたしはホッとする。そして、おばあちゃんの気配が消えると、リュックを背負って、そっと縁側から庭に下りた。

 サンダルをつっかけて走り出す。空はきれいな夕焼け一色だった。

(確か……あっちから来たよね)

 この家までの道の記憶をたぐり寄せて、わたしは必死で走った。

 何でこんなことをしているのか自分でも分からない。

 ただ気になる。

 どうしても気になる。

 あの子狸が、どうなっているか。

 もしそのまま道路にいたら……わたしが埋めてあげよう。

(あ、シャベルとか持ってくればよかった)

 気づいたけど、足が止まることはなかった。

 わたしは、わたしが住んでる街とは全然違う、家も明かりもまばらな田舎の道をひた走った。



 夕日がすっかり沈んで、空の端っこだけが赤く燃える頃、わたしはその場所にたどり着いた。

 荒い呼吸を整え、スマホのライトをつける。ボロボロの看板、タイヤがない自転車……ここだ。

 地面の血のカーブは黒ずんでいた。

 でも、子狸の死体は見当たらない。

「連れてったのかな……」

 ホッとしたような拍子抜けのような。わたしは周囲を見渡して、それらしいものがないか確かめた。

 やっぱり、ない。

 ふう、と息をついた。そして、ガードレールの下に咲いている、名前も知らない野花を摘んだ。薄暗い中、花の色だけ白い。

 何本か摘んで茎でひとつにまとめ、小さな花束を作った。

 それを血の痕にそっと置き、しゃがんで、手を合わせた。

(……ごめんね……)

 心の中で、謝る。あの小さな子狸に。親狸に。

 しばらく黙祷して、スッと立ち上がった――時。


「何をしているんだ、一花」


 後ろから、おじいちゃんの、冷たくて固い声がした。

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