23 混乱
「…………枦木くん?」
たまたまだったのだと思う。
小野崎都子が枦木司に遭遇したのは。
コンビニの駐車場に、傘も差さずに立ち尽くしている人がいる、と気付いたときには背筋がぞっとした。
ちょっとくらいは大丈夫だと思って、家を出てきたのだ。雨の日で、音が気持ちよかったから。夏休みで、明日も休みだったから。ちょっとくらいは大丈夫だと思って夜更かしをして、小腹が空いてしまって、アイスが食べたくなって、こっそり家を抜け出して、コンビニまで来たのだ。
それでまさか、この時間に、こんな田舎のコンビニに人がいるとは思わなかった。そしてまさか、それがこんなに不審な人間だとは思わなかった。
夜にこっそり外に出る。それだけでドキドキは十分だったはずで、それ以上は期待していなかったし、想定もしていなかった。小学生のころ、肝試しでひとりだけ走って逃げたことだってあるのだ。そこに人がいるのを認識しただけで、声を失って、心臓が痛くなった。
でも、怖がらなくてもいい人だと思った。
知っている顔で、好ましい顔だった。
最近、というか夏休みになってから接点のできたクラスメイト。今まではクラスの中でもちょっと色の違うグループにいると思っていたから勝手に怖がっていたけれど、何のことはなくて、話してみたら普通に話せた男子。
それから、たぶん、普通の中学生より優しいだろう男子。
まだ数回しか話したことがないのに、自転車やら上着やら、色々と貸してくれた。お返しに、なんて気持ちで押し付けてしまった自分の好きな本も、真剣に読んでくれていた。
それに、髪。あと、眼鏡。
どうしたんだろう、と心配になる。何か困ったことがあったんだろうか。だったら今度は、自分が手を貸したい。そう思って声をかけて、
「…………」
「…………」
無視された。
小野崎は泣きそうになった。心が強い方ではない。クラスメイトに無視されたら泣きそうになってしまうし、泣きたくなってしまう。
「あの……」
「…………」
もう一度呼び掛けても、反応はない。何か嫌われるようなことしたかなあ、とすでに涙が見え隠れし始めている。
それでもさらに勇気が出せたのは小野崎にしては大変珍しいことで、きっと、夏休みの夜が放つ特殊な雰囲気も随分手伝ってくれたのだと思う。
ちょんちょん、と。
肩を触った。
するとゆっくり、枦木の顔が動く。
ひえ、と声を出しそうになった。出さなかった。えらかった。
恐ろしいものを見てしまった。
なんだろう、今の顔の動きは。完全に生気のない人の動きをしていた。ホラー映画の幽霊だってもう少し手加減してくれる気がする。それが自分の方に向かって、自分のためだけに動いたのだからたまったものではない。
逃げそうになった。
「……よ」
それでも逃げなかったのは、一瞬でその顔が、いつもの枦木に戻ったからだった。いつもの、と言い切れるほど小野崎は枦木のことをよく知らなったが、それでもついさっきのほとんど紙粘土でできているような無表情よりは、枦木らしい顔に見えた。
「あの、大丈夫? 傘忘れたの?」
どうしてもっと気の利いた言葉をかけられないのか、と小野崎は自分で自分が嫌になる。何が傘を忘れただ。昼間傘を差してるのをばっちり見ただろう。そしてそれからずっと雨は降り続けているだろう。何かあったのだ。何かは知らないが。そしてそれを自分が聞いていいのかもわからないが。
とりあえず傘をずらして、自分と枦木が入るようにする。池にでも飛び込んできたのか、という濡れ具合には無意味な気もしたが、とりあえず。
「…………大丈夫?」
迷った末に、それだけ言った。大丈夫じゃないんだろうけど、とりあえずそう聞いてみた。枦木は、
「…………おう、サンキュな」
案の定それしか答えなかった。
そしてそのまま、どこかを見つめたまま固まってしまう。小野崎はその視線の先を見た。どう見ても何もなかった。強いて言うなら夜だけがあった。
動けなくなってしまった。傘を差し出したから。枦木が動かなかったから。どうしよう、とパニックになりかける自分を、どうにか律して、
「あの、もし傘ないなら、私コンビニで買おうか?」
その言葉を口にしたとき、小野崎は確信してしまった。自分は将来、悲しい恋愛をする羽目になる。財布が空っぽになるような、と。その確信を、私の頭の中から出てけ!と蹴飛ばして、反応を待つ。
枦木は首を横に振った。
「いーよ。好きで濡れてるだけだから」
文学的だ、と小野崎は思った。うろ覚えでパッと出てこないが、雨の日に傘を差さない人がいてもいい、それが自由というものだみたいなやつだ。確固たる信念を持ってずぶ濡れているのだ。
一方で自分はなんだ。夜遅くまで本を読んで、それでウフウフ気持ちの悪い笑い声をあげていたと思ったら普通に傘を差してコンビニにアイスを買いに来ている。しかもついさっきまで自分は何のアイスを買うつもりでいた? バニラアイスだ。しかもいちばん量が多いやつだ。なんて面白みのない人間なんだ。私も確固たる意志を持たなければならない。今がその時だ。今こそ確固たる意志を持って自分の人生を生きるのだ。
小野崎は傘を投げ捨てた。
冷たい雨が降り注ぐ。ついさっきまで自分を覆っていた盾は消え、世界と直接向き合わされている。
滴は重く、小野崎の身体を叩く。全身を容赦なく濡らしていく。
今はその重さが心地よい。
そう思って、小野崎は笑った。
清々しい顔で、枦木に笑いかけた。
枦木は混乱した。
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