22 放浪
もうどこにも戻れないと感じた。
そして悪いことには、もうどこにも帰らなくたってよかった。
雨の一粒一粒が重たくて苛々する。どれだけ気を付けて歩いていても靴先が濡れていくから腹が立つ。
どこにも辿り着く場所なんかないのにこうして歩いていると、自分がどうしようもない馬鹿だと理解できて、死にたくなる。
そんで死ぬ。そう遠くないうちに。
薬はぜんぶ置いてきた。あとどのくらいで死ぬことになるのだろう。あの薬はどれくらい症状を抑えてくれていたんだろう。何もかもどうでもいい。
上手くできなかった。
今まで上手くやってきたのに、最後の最後で上手くできなかった。
ひどい失敗だ、と思う。情けないと思う。無様だと思う。それもこれも夏休みなんて時間の大量にあるときにこの状況に陥ったのが悪いと思う。もっと自由のないときがよかった。人と同じように過ごしているだけで一ヶ月が過ぎてしまうような季節がよかった。自分で物を考えるからこんなことになってしまうんだ。
後悔ばかりだ。最後の時間を有意義に、なんて考えるんじゃなかった。家で寝てればよかった。ゲームでもしてればよかった。天井でも見てればよかった。
もっと早く死んでおけばよかった。
人のいるところに行きたくなくて、駅とは逆側の道をずっと歩いている。それもそのうち、広い道路に自分の姿を晒しているのが嫌になって、どんどん小道の方に逸れていく。
見たことのない景色の中で、今すぐに死にたくなる。変色した腹を自分の手でこじ開けて、内臓と血反吐を道端に撒き散らして、野良犬や鳥の餌になりながら、この上なく汚らしく死んでしまいたい。そんな想像ばかりが感情の温度に心地よく合っていて、ひたすら頭の中を巡り続ける。
卑怯だ、と思った。
卑怯以外の何物でもないと思った。
だって言わなかったじゃないか。子どもができたなんて。この間やけに機嫌がよかった日は、それがわかった日だったのか? だったらなんで俺にだけ言わなかったんだ。言えなかったか? 言うのが怖かったのか? どうだっていいし、どっちだっていい。だけどあの人たちは、俺には言わなかった。それだけは間違いなくて、確かなことだ。
言えばちゃんと、それを考えて行動してやったのに。理想的な兄になれるよう、努力してやったのに。気遣って気遣って、真面目になって、それであの人は最後まで真面目でいい人だったんだよって、そんな話の種にできるよう振舞ってやったのに。
いいことじゃないか。子ども、いいじゃんか。望まれて生まれてくるんだろ、今回は。俺みたいに本当は作るつもりじゃなかったんだけど、うっかり間違えちゃったものだから仕方なく育てるしかなかったなんて、そんな存在じゃないんだろ。ちゃんと計画して作ったんだろ。だから負担だってそこまで大きくないんだろ。抱えちゃったのが最後、今の給料じゃ養い切れないから倒れるほど残業入れなくちゃならなかったり、性格が合わないって結婚してからわかったのになかなか別れられなくなってしまうとか、そんなデメリットないんだろ。
俺が言うことじゃないのか、そんなこと。
だって俺、関係ないもんな。
傘を捨てた。行く場所がない。病院も行けない。図書館も行けない。家には帰れない。
天国か地獄があれば、そのどっちかには行ける。
なければ、どこにも行けない。
見上げた空の雲は分厚い。夜になっても降り続く。夜になるまでそれを見ている。
何をすればいいんだろう、と途方に暮れる。やりたいことなんかひとつもないやつが、やるべきことから放り出されて、何をしたらいいんだろうとひたすら戸惑っている。
死ぬのを待つだけか。
それでいいなら、それでいいけど。
それでいいなら、それがいいけど。
目を閉じる
もう開かなければいい。
*
目が覚めると、まだ夜だった。
身体が冷たい。振り続けた雨が、すっかり体温を奪ってしまったらしい。
枦木は起き上がる。ものすごくだるい。それが単に疲労からなのか、それとも症状が出てきているからなのか、判別がつかない。
単純なもので、眠ると少し、ショックを受けていた頭が動き出していた。
ここにずっといるのは苦しすぎる。というかここはどこなんだろう。周囲を見渡せばひたすら暗い木々が広がっているばかりで、まるで判別がつかない。
痛む節々を引きずるようにして、立ち上がる。人のいないところへ、と思ううちにこんなところまで来ている。よくもまあ、と思う。よくもまあ、こんなところまで迷い込んだもんだ。だけど、ここにいたい気持ちもまだあった。このままここで、誰にも見つからずに死んでいきたいという気持ちも、まだ、強くあった。
もっと寿命が短ければ何も気にせずこのままいられたのに、まだもう少し猶予があるものだから、こんなところにずっといるのには耐えられない。
とりあえず自分の位置を把握することから始めるしかない。真っ暗な森だか林だかを延々と歩き続ける。
ほとんど足元は見えない。些細な躓きですっ転びそうになるものだから、周囲の木々に手をかけつつ進んでいく。ときどき鋭い痛みが走ることがあって、そういうのはたぶん、幹に生えた棘が刺さっていたのだと思う。手のひらを見ても何も見えやしないので、確認のしようもなかったけれど。
この町に、遭難するような大きさの森はない。枦木は、予想していたとおりただまっすぐ歩いているだけで、開けた公道に出ることができた。そして、その場所には見覚えがある。
「……こんなもんか」
夏休みの間、散々自転車で通った道だった。
ずっと遠くまで来たような気だけがしていて、結局は似たような場所をぐるぐる回っていただけらしい。
木陰から飛び出すと、途端に雨は重たくなった。少しだけ水気の薄くなっていた服が、また濡れていく。
今は何時くらいなんだろう。ポケットを探ってみても携帯の感触はない。どこにやったんだろう。落としたか、それともそもそも家に置いてきていたんだったか。どうでもいい、と思う。こんなときまで時間を気にしなきゃいけないなんてことはない。太陽がどこにあって、月がどこを回っていて、星はどこに輝いて、そんなこと自分にはもう関係がない。
歩いている。どこへ?と考えることもない。戻れる場所なんてもうないから。どこでもない場所に向かって歩いている。なのに足は、知っている道を行きたがる。犬みてえ、と自分で自分を笑う。
見慣れた景色ばかり。田畑、田、田、畑。自転車で散々通った道。昼を、夜を駆け抜けた道。
雨だから、顔を上げても何もない。見上げてもただ黒い雲。見下げても、ただ黒いアスファルト。細かな溝に、黒い水が溜まるだけ。
驚くほど街灯のない道を行く。ごくたまに、車が水を跳ねながら通り過ぎていく。ライトに照らされたときだけ、雨が真っ白に見える。遠くからでも、コンビニの明かりが煌々と光るのが見える。
自動ドアが開く。
何のために開いたのかは、よくわからない。明かりの下で見た自分は、感じていたよりもずっとボロボロの恰好をしていて、店内に入る意味もなければ、店内を汚す理由もない。どうしてここに来たんだろう、と思う。
なんでここにいるんだろう、と立ち尽くしている。
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