21 酸欠

 たぶんこんな風に全部が終わっていくんだな、って。


 待ち構えていた父親が、自分のずぶ濡れの姿を見て、険しい顔をして、それを無理やり押し込めて、笑って、


「……おかえり」


 なんて言ったとき、はっきりとわかった。




「どこ行ってたんだ」


 父は、過剰に優しい声で言った。


 食卓を兼ねたテーブルには、三人が座っている。父、母が隣り合わせで、そしてその対面に、シャワーを浴びてすっかり着替えた枦木。テーブルの上には、三人分のお茶が置かれている。


 服の洗濯をする、と枦木は言った。しかし、それを父は遮った。大事な話があるから、髪を乾かしたらダイニングに来なさい、と言った。そして今、枦木はこうして座っている。


 雨はずっと降っている。ひょっとすると、明日まで止まないかもしれないと、そう思えるくらいに。


 どうしようかな、と枦木は悩んだ。

 何かしらの説教をされるんだろう。それは予想できるが、なるべくダメージは少なく済ませたい。頭の中で話を組み立てる。できるだけ嘘は少なくした方が上手くいく。今日の行動の中で話しちゃいけない部分だけを考えて、


「友達んとこ」


 とりあえず、短く答える。病院のことさえ言わなければ、それでいいと思って。


 しばらくの沈黙は、どうやら自分の言葉の続きを待っているらしい。わかっていても、枦木は何も口を開かなかった。


「……あのな、司。あんまり、母さんに心配かけるなよ」


 母は少し驚いたような顔で、父を見た、


「聞いたぞ、昨日の夜のこと」

「大介さん、」

「父さんがなんで怒ってるか、わかるよな?」


 はい、と枦木は頷いた。そしてとりあえず俯いて、反省しているように見えるよう努力した。


「今日だって突然ずぶ濡れで帰ってきて……、何してたんだ」


 父はあくまで優しい声色で言う。

 たぶん、本気で怒る気はないんだろうな、と。そう察した。


「ごめん、友達とちょっと寄り道して帰ってたら、道で滑って池落ちちゃって」


 じっと、父は枦木を見た。枦木は動揺しない。ただ、後ろめたく見えるように、申し訳なく見えるように、黙る。やがて父は、うん、と頷いて、


「お前のことは信用してるが……、最近少し、羽目を外しすぎてるみたいだからな。ちょっと言っておこうと思って」

「すみません」


 頭を下げる。父はもう一度、うん、と頷いた。それからぱん、と手を叩いて、


「よし! お説教はこのくらいにしよう!」

「え?」


 呆気に取られたように声を上げたのは、母だった。


「あの、それで終わりですか?」

「こういうのはあんまり説教しても仕方ないからな。本人が悪いとわかってるなら、なおさらさ」

「でも……、ほら、司くんだって、まだ十四歳なんですよ。もう少しちゃんと、大人から言ってあげても」


 父はちら、と枦木の方を見て、


「いや、司は昔からしっかりしてるから。信頼してるんだよ。な? 今だって一回言われれば、あとは自分でわかるだろ?」

「うん、ごめん」

「だってそんな……!」

「大丈夫、大丈夫。それにまだ十四歳だなんて言うけど、もう十四歳なんだ。自分で色々判断できる年頃だし、人に迷惑かけるようなことしてるんでもないんだから。あんまり親から言うのもよくないよ」


 さ、飯にしよう! と言って父は立ち上がる。今日は気合入れて作ったんだ、などと言う。枦木は相槌を打とうとして、止まる。目の前に座る母は、何事か、覚悟した目をしていた。


「司くん、本当は昨日何してたの」

「おいおい、」

「司くん」


 父の制止も聞かない。


「何って……。言ってたとおり、散歩してただけですけど」

「ライター持って?」

「え?」


 なんでそんな細かいことに気付くんだ、と内心枦木は舌打ちした。父も食事を温めようとしていた手を止めて、こちらを怪訝な目で見ている。


 どこまでバレてる? バケツを持っていったのはバレているんだろうか。だったら素直に花火をしに行っていたと言うべきか。悩んでいると、


「タバコ?」


 と。それで、バケツの方はバレてないだろうとあたりをつけて、


「あ……、」


 言い訳が出てこなかった。

 普段ライターなんて使わない。だからその用途がすぐに思い浮かばなかった。不自然な間が空いてしまって、これなら花火に使ったと素直に言うべきだった、と悔やめば、


「今日だってそう。友達のところに勉強に行くっていうの、嘘だよね」

「いや、それは嘘じゃなくて」


 焦って嘘を吐いていることを部分的に認めてしまい、それを弁解する間もなく、


「鞄の中に勉強道具、何も入ってないのに?」


 ぎょっとする。


「見たんですか?」

「何しに行ってたの?」

「人の鞄、勝手に見たんですか?」

「待て待て、ちょっと落ち着け」


 父はじっと枦木と目を合わせながら言った。わかるよな?という視線に、少しだけ心を落ち着ける。


「なあ、母さん。そこまで責めなくたって、」

「司くん、病院にも行ってるよね」


 血の気が引いた。

 どこまで知られてるんだ。どうやって知ったんだ。

 何なんだ。誰なんだこいつは。


「行ってます」

「え?」

「近所の人から言われたんだよ。司くん、よく病院にいるみたいだけどどこか悪いのって。どうなの?」


 父は驚きながら枦木を見て、


「理人くんのとこか」


 枦木は答えない。


「司くん、何か薬飲んでるよね」

「飲んでないです」

「ゴミ箱にからっぽになったシートが混ざってるの、見たよ」

「おい司、なんだ。どこか悪いのか」

「あの」


 低い声で、枦木は呟く。


「関係ないですよね、それ」

「関係ないこと、」

「関係ねーだろ」

「おい、司」


 父親の声が聞こえる。

 ダメだ、と思う。こんな風に、喧嘩腰になっちゃダメだ、と思う。せっかく上手くいってるんだ。お互いが努力して平和に暮らしてるんだ。大丈夫。どうせ俺なんてもうすぐ死ぬんだから。もう少し。もう少しだけ我慢すればいいんだ。今までずっと我慢してきたじゃんか。できるよな。できるだろ?


「気持ちわりーんだよ! 人のまわりこそこそしやがって!」


 なんでできねえんだよ。


「俺言ったよな? ゴミなら自分で捨てるって。掃除も自分でするって。なんでそれで勝手に部屋入ってゴミ漁ってんだよ、なあ!」


 止まらない。溢れ出てきてしまう。


「何が不満なんだよ。上手くやってんだろ? 言われたこと守っていい子にしてるよな? 俺があんたらに迷惑かけたことあったかよ」

「おい、司」

「へらへらへらへら馬鹿みたいに笑ってさあ! 毎日ちゃんとやってるだろ、ちゃんとできてるだろ! それで何が気に入らねーんだよ!」

「司!」


 肩を強く掴まれた。珍しく、怒った顔で父が自分を見ている。そして母は、泣きそうな顔で自分を見ている。


「自分が言ってること、ちゃんと考えろ」


 考えろ、と父は言った。

 枦木は目を逸らす。肩を掴む手を払いのけて、


「……悪いけど、ちょっと外出てくる」

「司くん、」

「いいから」

「飯はふたりで先食ってて」


 司くん、と背中にかかる声を無視した。

 お互い落ち着く時間が必要だ、と父の声が聞こえた。そのとおりだ、と笑った。


 枦木は玄関で濡れた靴を履く。濡れた傘を掴む。そのまま家を出る。

 出ようとした。

 最後の一声。



 子どもができたことだって、言わなきゃ。



 そんな言葉が、聞こえてきて。


 これが最後かもしれないと、そう思った。

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