18 当方子ども

 その日、小さかったころの夢を見た。


 そしてすぐさま、それが夢だということがわかる。

 夢というのはそういうものだと物心ついたころから思っていたが、どうも一般的には珍しいらしい、ということを枦木は知っている。


 それは食事の風景から始まった。冷蔵庫に入っているコンビニ弁当を温めて、ひとりでテレビを見ている光景。

 そしてそのテレビは夢の中にある、テレビであってテレビでないような不思議なものだから、夢でしか見られないような映像が映っている。


 父親と、昔の母親が働いている姿。それぞれ別の職場で働いているはずのふたりが、いつまでもいつまでも、いつまでもいつまでもいつまでも働いている姿。日付が変わっても、夜が明けても、ふたりが仕事をやめることはない。いつまでもいつまでも働いている。


 それをじっと見ていたら、テーブルの上に弁当の中身がぼろぼろと零れている。慌ててそれをティッシュで拭き取ろうとしたが、弁当はずっとずっと零れ続けて、いつまでもそれは終わらない。


 ふたりが帰ってきたらどうしよう、と夢の中の自分は焦る。このあたりで、夢を見ている枦木と、夢の中で行動している枦木らしき子どもの存在が分離する。


 どうしよう、と言って子どもの枦木は泣き出す。それを十四歳の枦木は、冷めた目で見ている。


 テレビの中で父が倒れる。家に電話がかかってくる。子どもの枦木がそれを怖がっていると、上げてもいない受話器から声が漏れ出してくる。


 こちら救急車の者ですが……。


 何も言えずに泣き続けていると、気が付いたときには部屋の中に北川がいて、その受話器を取っている。


 その受話器を置いた北川は、大丈夫だ、俺が治しておいたからと言う。すると、その横にいつの間にか父と、昔の母がいて、話を始めている。穏やかな様子で、怒鳴り声なんかひとつもなくて、そして泣き止み始めた子どもの枦木にこう言うのだ。


 これからは、お父さんがもっと構ってくれるからね。

 これからは、家族の時間を大事にしていこうな。


 部屋中がびっしり文字で埋まっている。

 子どもの枦木はその文字が読めない。


 けれど、きっと駄々をこねたら怒られると思うから。

 お父さんもお母さんもそれが正しいって言うんだから、自分は口答えしちゃいけないんだ。いい子にしてなきゃいけないんだ。我慢しなきゃいけないんだ。


 そう思って、頷く。


 十四歳の枦木には、その部屋に書かれた文字が、はっきりと読める。



 方向性の違い。



*



 ロックバンドか俺の家は。


 というのが起きてから最初に思ったことで、次に思ったのが、というか感じたのが、めちゃくちゃ頭が痛いということだった。


 部屋の中にいてもしとしとと雨の降る音が響いている。


 どうしよう、と考える。

 あまりにも頭が痛い。このまま寝続けてしまおうか。眉を顰めながら天井を見て考えて、いやダメだ、と気付く。


 朝に帰ってきて、コンビニで買ったパンを食べて、薬を飲んでから寝た。そこまではいい。だから現在時刻が……十三時、それでも特に焦ることはない。


 が、そうだ。そのときに確認したのだ。北川に貰った薬が、ちょうど切れてしまったことを。起きたら病院に行こうと思っていたことを。


 今のところ、あとひと月もしないうちに死ぬらしいというのがまったく実感できない程度には身体に症状は出ていないのだが、流石にここでサボってあとで想像を絶する苦しみを味わう羽目になったらと思うと笑えない。それに臭い止め。自分の身体からゾンビみたいな臭いがし始めるのには、想像するだけでも耐えられそうにない。


 起き上がる。それだけで歯を食い縛らなければならないような痛みに襲われ、深く呼吸して、それに耐える。


 とりあえずシャワーでも浴びるか、と部屋を出て、下の階に降りていく。


 すると、母親がいた。


 げ、と思う。なんでいるんだ、昼間なのに。水曜日だからか。水曜日だったか、今日は。携帯を見る。水曜日だった。

 幸い向こうは自分に気が付かなかったらしい。廊下をとことこ歩いて、キッチンの方に入っていく。


 悪い人じゃないんだけど。


 悪い人じゃないんだけど、やっぱり気まずいよなあと思う。理由はもちろんたくさんあるけれど、特にこれが、といえば、若い人だというのがきつい。父自身も結構な若さな上に、そこそこ年の差のある年下と再婚したものだから、詳しい年齢についてはあえて知らないようにしているが、おそらくあの人の年齢は北川と大して変わらない。


 ただでさえ接し方がわからないところ、さらにわからない要因が積み重なっている。


 少しばかりの罪悪感を覚えつつ、それでも枦木は意識して足音を消して、風呂場に向かっていった。


 そんなに時間はかけなかった。どうせ病院に行くしかないのだから、外に出て多少なり濡れるしかないのだから。さらっとシャワーだけを浴びて、さっさと上がる。髪を乾かして、たぶん午後の診療はさっさと終わっちゃうよな、と思ってこのまま家を出てしまうことにする。


「司くん」


 が、ばったり遭遇してしまった。


 う、と廊下を一歩後退りそうになって、いやさすがにそれは失礼だろ、と踏みとどまる。しかし向こうには、枦木のその雰囲気だけは伝わってしまったらしく、一瞬顔が曇って、戻る。


「お出かけ? 雨だよ?」

「あそうなんすよ。朝起きたら雨降ってて……」


 でも約束があるんで、行かなくちゃ、と。

 あまりにもするするとそれらしい嘘が口から出てきたことに、枦木は自分で驚いた。火事場の何とやらってやつか。


「約束……、お友達?」

「そっすね」

「どんな子?」


 関係あるか?と一瞬浮かぶ。自分が外出する。そこまでは母にも関係しているのはわかる。家の中に誰がいて、外にいる人間がいつ帰ってくるのかを知りたいっていうのは、まあ把握できていれば色々と捗ることだと思うし。だけど、それ以降の部分については関係ないんじゃないかと思う。


 だけど、「関係ないですよね?」とは言えない。わかりやすい反抗期じゃあるまいし。向こうだって再婚して、相手にでかい子どもがいて、そいつが最初っから露骨に反抗期だったら困るだろう。自分がその立場だったらものすごい勢いで胃炎になる。


 だから、なるべく向こうの期待に添うようにして、


「真面目っすよ。毎日図書館来てて成績よくて……、んで、今日は午後から宿題のわかんねーとこ教えてもらおうと思ってて」


 脳裏には笑う小野崎が浮かんでいる。勝手に名前を使わせてもらって申し訳ないが、自分の知っている中でいちばん無難な知り合いが小野崎だった。すまん、と心の中で詫びる。


 しかし、予想に反して母は疑わし気な顔で枦木を見た。ビビる。そんな顔をされる筋合いはないぞ、と思う。いやよく考えたらある。普通に嘘吐いて出かける気でいる。でも、そんな顔される筋合いはあるが、そんな顔をされるようなことは言ってないはずだ。


「あの……、なんか、まずかったっすか?」


 とりあえず下手に出てみる。

 すると母は、自分が険しい顔をしていることに初めて気付いた、というようにあからさまに慌てて表情を取り繕って、


「ううん、それならそれでいいんだけど……」


 そこで言葉は切れる。

 だけど話は終わってないんだろうな、と思う。まだ何か言いたそうにして、言えなそうにしている。面倒だな、と枦木は思う。そっちの方が立場が上なんだから、言いたいこと言ってくれればいいのに。


「……あのね、昨日なんだけど」


 長い溜めのあと、母はそんな風に切り出した。


 昨日のこと、と枦木は記憶を探る。ええと、昼間は池に行って小野崎と話していた。そして夕食に帰ってきて、寝たふりをして、夜になってまた池に出かけていって、あぐりと花火をした。


 家にはほとんどいなかったのだから、何かやらかしていることはないと、そう思ったのに、


「夜、どこか出かけてた、よね?」


 そっちか、と思った。そして納得した。


 ふたりが寝静まったのを見計らって、そして物音を立てないように細心の注意を払って家を出たつもりだったけど、勘づかれていたらしい。


 そりゃ心配するよ、と思う。そりゃ言いにくくもなるよ、と思う。

 だってどう見ても非行だ。非行少年だ。どう考えても真夜中に家を抜け出して酒飲んだり煙草吸ったりバイクに乗ったりしている。そういう行動の一種だ。


「あー……、バレたか……」


 ここは否定しても仕方がない。とりあえず肯定する。どう考えても向こうは自分が夜中に家を抜け出したことを確信しているから、ここを否定すると怪しさが倍増する。肯定しながら、次に言うべきことを考える。


 そこまで悪いことをしているわけではないのだ。未成年の深夜外出の禁止とか、確かにそのへんのところには引っかかっているが、あれは子どもが迷惑をかけるから禁止しているわけではなく、子どもが危険な目に遭いそうだから禁止しているだけだ。被害者のいないルール違反なら、むしろある程度肯定しつつ、相手を安心させるように、


「まあその、そっすね。出かけました」


 と、ここで一旦言葉を切って、相手の反応を待つ。案の定、


「どこに行って、何してたの?」


 叱責めいた言葉の内容だったが、態度はむしろ控えめだった。どこまで踏み込んでいいのか測りかねている、そんな声色。


「どこ……、ってわけでもないし、何ってわけでもないんすけど……。夏休みだから、ちょっと夜中に出かけてみたくて……」


 こっちはばつの悪そうな声を作って、


「……それだけ?」

「そっすね。ふらふら散歩して……、そんくらいっす。あの、すんません、勝手に外出て」

「あ、いや」


 そこ否定しちゃまずくないか、というところで母は手を振って、


「外に出たこと自体を怒ってるんじゃなくて……、その、心配だから。夜だとさ、ほら。危ない人とかいるかもしれないし」


 このド田舎のどこに危ないやつが潜んでるんだ、と一瞬頭を過ったが、まあ確かに、そういう油断こそが犯罪被害者になる余地を生んでいるのかもしれない。


「そっすね。気を付けます。もうやんないっす」

「う、うん。気を付けてね」


 はい、と言えばそれで話は終わりだろうに、なんとなく、母は所在なさげに立ち続けている。


 もう行ってもいいかな、と少し様子を伺ってみても曖昧に笑うばかりでよくわからない。


 結局、病院が閉まる前には行かなくては、という思いに負けて、枦木の方が先に動いた。


 母は、玄関まで見送りに来た。

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