17 はなあかり
「お前私のこと好きすぎないか」
「お前いつ寝てんの」
一日二回池に来る。
今度は夜。深夜。両親が眠ってから枦木は家を出た。
仕方がないのだ。昼間は結局、小野崎がそのあと本を広げ始めてしまったので、やろうと思っていたことをやれなかったのだから。
帰り際に回収しておいたレジ袋をもう一度手に、池の淵に座る。
あぐりは、
「お前、本当にやることないのか」
と、かえって心配そうに聞く。
「ねえ!」
枦木はきっぱり言った。段々と、はっきりそれがわかってきた。
自分にやりたいことはない。死ぬ前に駆け込みでしておきたいことがない。未練や後悔が欠片もないかと言われると、さすがに簡単には頷けないが、どうしても諦めることのできない未練や後悔があるかと言われると、それにも頷けない。
ぼんやりと生きて、ぼんやりと死ぬのだ。
そういうのが自分なんだと、ようやくわかってきた。
「変わったやつだなあ……」
呆れたように、あぐりが言った。でも、と枦木は思う。本当に自分の方が変わっているのだろうか、と。死ぬ前に何か強い思いを抱く方が、変わったやつなんじゃないか、と。
「まあ、私も暇だからいいが」
さんきゅ、と心の中だけで呟いて、
「よっしゃ、んじゃ花火しようぜ」
そう言った。
はなび、と。あぐりはひらがな三つで発音した。これは花火を知らねえな、と枦木は察する。
とりあえずは見本を見せてやろう。そう思って、コンビニで買ってきた花火を早速開けていく。水汲んでいいか?と尋ねた上で、持参したバケツに池の水を入れる。そして家にあったライターで火を点ける。
最初は、穏やかに。
ぼんやりと、蛍火のように浮かぶ。おお、とあぐりは声を上げたが、こんなもんじゃないと枦木は知っている。
ぱち、とひとつ弾ければ。
「おおっ!」
ばちばちばちばち、と火花が起こる。
見入っていた、あぐりは。
枦木はそれを、面白そうに見ていた。
真夜中に、林の中に、灯かりがひとつ。それを覗きこむ人魚の顔を照らしている。それこそ昔話みたいな光景だと、枦木は思った。
一分も持たないうちに、花火は終わる。儚いもんだ。バケツの中にそれを浸せば、じゅ、と残り火ごと消えた音がして、それでお終い。
「花火」
これがそう、と枦木は言った。
「はなび」
これがそうか、とあぐりは確かめた。
二本目を取り出す。あぐりの手に握らせてやる。面白いくらいに動揺したので、笑ってやる。
「おい、私もやるのか」
「持ってるだけだよ」
「熱くないか」
「熱そうに見えたかよ」
「お前の方は見てなかった」
だろうよ、と笑って枦木は火を点けてやる。あわわわわ、と声が聞こえてきそうなくらいあぐりは動揺したが、やがてそれが危なくないことがわかると、瞳に光を映したままで、それにぼうっと見入ってしまう。
灯の落ちるころには、
「もっかい!」
とキラキラした目で。
枦木は笑って、花火を抜いて、握らせてやって、灯してやって、終わればバケツに浸してやって。
そんなことを三回も繰り返したところで、「上がった方がいいな」と言ってあぐりが、ざぶん、と。池から出てきて、枦木の隣に腰かけた。
「お前、それ大丈夫なの」
「あんまり長く上がってると乾くことには乾くが、まあな」
「乾くとどうなんの」
「気持ち悪くなる」
デメリット浅くねえか?と内心で思うと、「ほれ、そんなことよりもう一本」と催促が来る。はいはい、と握らせてやって、灯してやる。
池の水面が花火の灯を跳ね返している。夜空の星々と混じり合って、新しい星のように見えた。
「お前、座れんだな」
下半身魚なのに、と言うと、まあな、とあぐりは返して、
「見た目にはわからんと思うが、しっかり尻がある。確かめてみるか」
「ボケが」
面白そうにあぐりに笑われて、言わなきゃよかった、と枦木は後悔する。
慣れてくれば、あぐりもライターの扱いはともかくとして、それ以外は自分でもできるようになる。枦木はそれなら自分の分も、と思って手を出そうとする。すると、なぜかあぐりがそれを止めにかかった。
もったいないだろう、と言う。一度にふたつの光は見れないんだから、と。一本ずつやろう、と。お前もやりたいんだったらちゃんと変わりばんこにやってやるから、な?と。
なんでお前が俺に恵んでる体なんだよ、と思ったが、一晩中尽き果てることのない量の花火を用意してきたわけでもないので、枦木はあぐりに従うことにした。
「そういやさ、昼間の」
「ん」
「小野崎のやつ。あれなんだったんだよ」
「ああ。忘れてたが、ありがとうな。助かった」
「いや別にいいけど、何?」
少しの沈黙の後、
「あの子は昔から、つらいことがあるとこの池に来る。それで、色々と話していくのだ。どんなことがあったのか、どうしたいのか、」
何を叶えてほしいのか、と。零せばひとつ、灯は落ちて、新しい花火を枦木は準備してやる。
「神社みてえ」
「今でこそすっかりこの調子だが、一時は本当にそんな時期もあったぞ」
「願い事?」
「それだけに限らずな。見えもしなければ聞こえもしない相手だから、みな話しやすいらしい」
ふうん、と頷きながら、自分だって似たようなものかもしれないな、と思う。もしもあぐりがただの人間だったら、こんなに通い詰めることもなかっただろう、と思うのだ。
「だからここに来るやつがどんな気持ちでいるのか、大抵のところは私にはわかる。が、見えもしなければ聞こえもしないわけだからな。わかったところでどうしようもない……、のだが」
ふ、とあぐりは笑って枦木を見て、
「都合のいいやつが近くにいたから、頼んでみたわけだ」
「あんなもんでよかったか?」
「ま、よくやった」
「えらっそーに」
枦木が呆れた笑いを浮かべて言うと、あぐりは楽しそうに、からからと笑った。
「……上手くいったのは、初めてのことだ。うれしかったよ」
「ああ、うん」
「初体験だ、お前で」
「…………」
「私の初めてはお前だぞ」
「お前その、下ネタひどすぎんのどうにかなんねーの」
「しもねたってなんだ」
「…………なんかこう、いやらしい話」
あぐりは声高くわらった。お前が情けないだけだろう、と言った。ムカついて枦木は次の花火を自分で持って、自分で点けた。器が小さい、と抗議されたが、無視した。
次の花火は緑色に輝いた。光が、糸を伝うようにして枦木の指を目指し、ゆっくりと登ってくる。
「……綺麗だな」
「だろ。買ってきた俺に感謝しな」
「お前はいいのか?」
「ん?」
「こんなことしてて。こんなところにいて」
「お前そればっかな」
ボケてんのか、と言おうとして、やめる。言葉が強すぎると思ったから。
「いーんだよ、別に。やりたいことねーし」
「家族には伝えたのか」
「いや」
「仲、悪いのか」
「逆」
あぐりが首を小さく傾げる。
「仲良くなろうとしてんだよ、うち。再婚したばっかなんだ」
ばっか、と自分で口にした言葉に、枦木は少しだけ違和感を覚えた。四ヶ月。それは短い期間だっただろうか。
「だから、」
崩したくない、と。
繋げられなかった。言葉にする前に、本当に「だから」なのかと、考え込んでしまった。「だから」「崩したくない」のかと、悩んでしまった。
もしかして本当は、これは、ただの、
「そこまで考えてるなら、なおさらちゃんと言ってやれ。残された人間の悲しみは、去っていく人間にだって、和らげられる」
枦木は、何も答えなかった。
答えて、嘘になってしまったら怖いと思ったから。
嘘を吐きたくないと、そう、思ったから。
眠れない虫が、数匹、林の中に隠れている。彼らは静かに、夜空と共鳴するように、鳴いた。
あの人たちは、俺が死んだら悲しむのだろうか。
考えているうちに、灯が落ちる。
「お前は?」
「え?」
「お前は、こんなことしてていいの」
答えに困った枦木が聞き返すと、あぐりはしばらく、何を聞かれたんだかわからない、という顔をしていた。
「なんかねーのかよ。やりたいこととか、しなくちゃならないこととか」
枦木は、だから、噛み砕いてもう一度聞いた。あぐりはそれでも不思議そうな顔のままで、
「あると思うか?」
「ねえの」
「忘れた」
「はあ? なんだそりゃ」
「長生きしすぎたから忘れたって言っ、てん、だ!」
「うお」
ぱしゃっ、とあぐりの尾びれの先が水を跳ねた。そして綺麗に枦木の鼻筋に当たる。なんつー命中力だ、と怒るよりも先に感心する。枦木は服の袖でそれを拭いながら、
「やりきったとかじゃなくてか」
「……どうだろう。本当に忘れたな。やりきったから何も覚えてないのかもしれないし、何もやってないのかもしれないし、最初から何もなかったのかもしれない」
「俺と似たようなもんじゃねーか」
「そのときはお揃いだな。……あ、でも」
「ん?」
「欲しいものならあるぞ」
「何が食いたいんだよ」
違うわ、とあぐりは水面を叩く。
「刃物がほしい」
「…………危ねーやつだな」
「違うわ」
「何に使うんだよ」
「何を言わせる気だ」
「何を言う気なんだよ」
ふふ、とあぐりは笑う。それから、濡れた髪に手櫛を入れて、
「人から見えなくても身だしなみは気になる」
「あー……」
「お前みたいにじろじろ見てくるすけべもいるし」
「おい」
試しに枦木は、サンダルを脱いで池に足先を浸してみる。そして、あぐりと同じように、ひょいっと、
「あ、ミスった」
「やーい、へたくそ。それっ!」
「うわ、マジでお前すげえな……おらっ!」
あぐりが何度か枦木の顔に水を当てる。一方で枦木の試みは自分のすねを濡らすのがせいぜいで、まともに当たる気配すらも見せない。さすがに池に住んでるやつと水遊びは分が悪い、と気付いて挑戦をやめると、最後にあぐりが「そもそも汚い足で私の家に入るなっ」と言って特大の水鉄砲を当ててきた。
面白いくらい顔が濡れたので面白くなったが、それはそれとして腹は立ったので、そのままあぐりの方に身体を傾けて、頭の横同士を軽くぶつけてやった。あぐりは大袈裟に痛がりながら「卑怯者、二本足」と抗議した。
まだまだ花火はたくさんある。慣れてきたあぐりは「次はこれをやろう」「赤いのはもっとないのか」なんて言いながら、花火の入った袋を見比べるようになる。
枦木は笑う。楽しいな、と思う。
それから、枦木は笑っている自分に気が付いた。そして、楽しいな、と思っている自分にも気が付いた。
ひょっとしたらこれでよかったのかもしれない、と。そう感じられた。
やりたいことがなくて、家族や友達に伝えられなくて。
やりたいことがあったら、こんなところにいなかったと思う。打ち明けられる人がいたら、あぐりのところに訪れたりしなかったと思う。
花火が消えると、一瞬あたりはひどく静かになって、暗闇ばかりが漂うようになる。
夜になって、花火を持ってもう一度現れた枦木を見て、あぐりは「お前私のこと好きすぎないか」と言った。
そのときは容易く流してしまったけれど、今となってしまえば、きっと。
そう、きっと。
あぐりが手に持つ花火に、枦木はまた、灯を点す。
それはぱちぱちと音を立てて、ひどく短く輝く。
朝が来るまでのこと。
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