16 顎の長いイケメン


 病院に来たのは再検査のためではなかった。

 ただの、個人的な頼みごとのためである。




 昨日、結局帰り際には少しだけ決心をしてしまっていた。


 あぐりの言うことももっともだと思ったし、向こうが自分のためを思って助言してくれていたことはいくらなんでもはっきりわかった。


 だから、その言葉通りに行動してみようと、そう思った。今日、家に帰ったら両親に病気のことを話してみようと、そう決心したのだ。

 結果として、それは無駄な決心に終わったとしか言いようがないが。


 十九時の十五分手前。家に帰るともう食事の準備はできていた。


 すき焼きだった。


 何があったのかと思えば父の昇給が決まったらしい。だから給料日でもないのに、その日は食事を奮発したとのことで。


 司、お前すき焼き大好きだもんな、と父は言った。


 司くん、すき焼き大好きなんだってね、と母は言った。


 うん、僕すき焼き大好き!と枦木は言った。言いながら、なんで父親の昇給祝いに自分の好物なんだ、と怪訝に思い、また、ものすごくにこにこ明るく笑う食卓で、いきなり余命の話をぶち込む勇気はさっぱり湧き起こらなくなってしまった。


 だって、上手くいっているのだ。

 肩身を狭くして、せっかくの好物もなんとなく遠慮がちでそこまでたらふく食べられないまま、風呂に入って、ベッドに入って、その頃にはすっかり心変わりをしていた。


 ギリギリまで粘ろう。


 考えてみれば、それはそれで妥当性のある選択肢だと思った。

 自分が余命を伝えた後、家庭内に冷え冷えの空気が充満することはほぼ間違いないのだ。そしてそれはおそらく、自分が死んだ後も余韻として、というかそっちの方が本体として強烈な寒波をもたらすはずであって、単に早く告げたからより早く桜前線開花宣言だとか、そういう種類のものでない。


 だったら、ギリギリまで粘るのもアリな選択肢じゃないのか。

 悲しみの続く時間をできるだけ短くしてやろうというのは、むしろ配慮なんじゃないか。


 そうと決めてしまえば、残る問題はたったひとつで。


「理人くん、三者面談来てくんない?」

「……なぜ」


 全く理解に苦しむ。

 そう言いたげな顔で北川は眼鏡を深く押し込み、目の前の甥の姿を見た。

 理解に苦しめている甥はといえば、思いのほか深刻な表情で、冗談めかしていった言葉の割にそれが本気のお願い事なんですよ、ということを伝えようとしていた。


「……理由を言え」


 溜息が声になったみたいな音で、北川は聞く。枦木は、


「いや、大したことじゃないんだけどさ。なんか日程全部親いないから、どうしようかと思って」

「嘘つけ」

「いや、マジマジマジ。なんか学校が全部平日指定してきてさ」

「休めばいいだろう」

「マズイっしょ。学校に病気のこと言ってないし」

「親にもか」


 ずばっ、と。

 急所を貫かれたような気持ちになった。もう少しこの男に容赦というものはないものか、と固まった笑顔を浮かべたまま枦木は思う。


「いい加減、俺から言うぞ」

「いや、」

「あの人にその話をしてお前がこんなにふらふら出歩いてるわけがない」

「ちょっと待って、」

「別に責めてるわけじゃない。むしろ言えないのが自然だ。俺から、」

「余計な、」


 ことすんな、と。

 言い切る前に、枦木は言葉を止めることができた。けれど、その低い言葉の初めに遮られた北川は、どう見たって枦木が口にしようとした言葉のすべてをわかっていて、


「……わかった。すまん、ストレスをかけたな」


 何でそんな顔するんだよ、と枦木は思い、


「まあいい。とりあえず代理でよければ出てやる」


 日程を見せろ、と手を出した北川に、少し折れ曲がったプリントを渡しながら。

 当面の目標は、達成した。



*



 元気出せよ、と自分で自分に言い聞かせた。

 だって、とりあえずの不安は消えたんだぜ、と。


 三者面談の心配はしなくてよくなった。病気のことを親に伝えるのも、もういっそ死ぬ間際にしちまおうと決心がついた。


 だから、こんな風に沈んだ気持ちでいるなよ、と。

 せっかくこれから楽しいことをするんだから、と。


 ここ最近ですっかり見慣れたコンビニのレジ袋の中身を見つめながら、そうやって自分に言い聞かせて、林道を歩いていた。


 そのとき、不意に声が聞こえた。


 最初、枦木はそれを池の方であぐりが呟いた独り言なのだと思った。けれど、すぐにそうではないだろうと推測し直す。ここ二週間と少しを共にしてわかったことだが、あの女の独り言はやたら明朗で音量がでかいのだ。基本的に誰にも見られないし、誰にも聞こえないから、そういう風に適応していったらしい。


 聞こえてくる声は、やけにぼそぼそと聞こえた。たぶん、この林道がこんなに静かでなかったら、風の通り道になっていなかったら、そもそも耳に届きすらしなかっただろうという、その程度の音量のものだった。


 誰かに誤解されてもつまんねえし、と枦木は自転車をレジ袋ごと、自分でわかるように、けれど他人からはわからないように、林の影に隠した。それからごく普通の、散歩しに来ただけですけど、というような雰囲気を醸すことに余念ないやり方で、林道の先に進んでいく。


 開けた場所に出ると、声の主はすぐに見つかった。四阿の下、ベンチに腰かけている。池の方に向かって何事かを語りかけている様子だったから、ひょっとすると自分のお仲間かな、なんて思ったりもしたが、その後ろ姿が近づくうち、それが知っている人物であることがわかる。


「……だから……お願い……」

「よ」

「うきゃあっ!?」


 こんな声出せたのか、と感心した。


 眼鏡、一つ結び。夏休みからの知り合い。

 小野崎だった。そういやたまにここに来るって言ってたっけな、と今さらながらに思い出す。


「え、えっ!? 枦木くん……えっ!?」

「枦木です、散歩です」


 だいたい聞きたがってるであろうことに当たりをつけて枦木が言うと、それを聞き終わるか終わらないかのところで、


「昨日はごめんなさい!」


 びゅん、と。

 風圧が顔に当たるようなレベルの機敏さで、小野崎は頭を下げた。

 しかもめちゃめちゃでかい声だった。びっくりした鳥たちが林から飛び立っていくくらい。


 しかし謝罪された当の本人である枦木はといえば、


「いや、別に謝られるようなことされてねー、つか、こっちが謝る側なくらいだし」


 と、恐縮の態度だった。


 昨日、ドドの叱責から小野崎を庇った直後は、死ぬ間際でもなきゃやらねーようないいことをしちまった、というのが枦木の主観だったのだが、あとになってよくよく考えると、あれは小野崎のためにはならなかったのではないかと思うようにもなったのだ。


 大人しく叱られて泣いているだけなら、その場限りの嵐で済む。が、ああいう風に事を荒立ててしまったから、あとあとまで目を付けられる可能性もある。そして、その頃にはもう自分はいないのだ。


 生徒が死んだショックで色々うやむやになるといいけど、と枦木は思い、思っていると、受験を控えたクラスメイト達にショックを与える申し訳なさにも考えが及んでしまう。


「ううん、あの、すごくうれしかった!」


 だから、小野崎のまっすぐな感謝の気持ちは、純粋にうれしかった。


「ああ、まあ、そんならいいんだけど」

「でもその、枦木くんに迷惑かけちゃって」

「あー、いーよいーよ全然。俺推薦受ける気ねーし」

「でも」

「それにあれ、ムカついてキレただけだから。小野崎は気にしなくていーよ」


 大体そんな感じのやりとりを三往復くらい繰り返して、ようやく小野崎は気を落ち着けてくれた。それでももう一度、はっきりとした声で、


「うれしかった。ありがとう」


 と言うので、さすがに気恥ずかしくなってきて、「おう」とだけ枦木は返して、目線を少し外した。


 外した先は、池。で、あぐり。どういうつもりか水面から顔の上半分だけを出して、じっとこっちを見ていた。目が合うと、そのまますいーっ、と池の底に沈んでいった。枦木はちょっと笑いそうになったのを、頬を手で押さえてこらえた。


「お散歩?」


 と小野崎は改めて聞いた。うん、と枦木は頷いて、


「小野崎は?」


 聞き返すと、


「えーと、……お参り」


 と、予想外の答えが返ってくる。


 お参り。なんだそれは。

 てっきり本を読みに来ただとか、そういう答えが返ってくるものだと思っていた。この池の周りはやたらに涼しい。ここに来るまでは毎日毎日よくもまあこんなに暑くなるものだな太陽って夏の間は加減を知らない馬鹿になってるだろ、と思わされるのに、ここに来ると途端に涼しい。体感で三十度を超えていると感じる時間が、せいぜい十四時前後の一時間くらいしかなく、朝や夕方はむしろもう少し着ておけばよかったかもと思うくらいだった。


 だから小野崎も、この快適な空間で本を読みに来たんだと、そう思っていた。思っていたところにお参り。どういうことなんだ、ともう一度思えば、例の看板の存在が脳裏によみがえってくる。


 萬物御利益アリ、目出度シ。


 万物欲してんのか。途端に目の前の小野崎が小さな身体に果てしない野望を秘めた恐ろしい女に思えてくる。しかし、枦木は平静を装って、


「ああ、ここあれなん? パワースポット的な」


 一瞬小野崎が嫌そうな顔をしたのを、枦木は見逃さなかった。なるほど、そういう呼び方は嫌か。何かしらのこだわりがあるやつか。


「ていうより、んーと。枦木くん、ここの……人魚池って言うんだけど、ここの言い伝え、知ってる?」


 やべえどっちで答えよう、と迷う。この間小野崎にこの池の名前を聞いたばかりだ。ということは、知ってる、と答えた場合にはつい最近それを調べたということになり、となればどうしてそれを調べたんだろう、というのがあからさまに不自然な点として残る。マジで人魚がいると思ったからです。言えるか。


 知らん、と答えて、


「だよね。……ここ、名前のとおり人魚がいる池だって昔話があって、その人魚が何でも叶えてくれるんだって。だから、その、お参り」


 神社の代わりに、と小野崎は言った。


 枦木は神社の代わりにされてる女の方を見た。浮上していた。ムリムリ、と言いたげに首を横に振っていた。なんてご利益のなさそうな女だ。というかその昔話、一切願いを叶えられるシーンがなくて、人が死んでそれで終わってるんだけど、小野崎はそのへんをどうお考えになられていらっしゃるんでしょうか。


 とりあえず、へえ、と頷いておいて、


「どんなこと祈ってんの?」


 と聞くと、小野崎は一瞬笑顔のまま硬直して、


「…………もしかして、さっき聞こえた?」

「ん? いや、なんか言ってんな、くらいしかわかんなかったけど」


 ほっ、と胸を撫で下ろして、


「うーん……、いっぱいありすぎて、言えないかも」

「マジか」


 万物欲してんな、と驚く。そんなイメージはなかった。案外クラスの誰もかれも、一見普通に暮らしているように見せかけておいて、あれがしたいこれがしたいああなりたいこうなりたいを心の中に渦巻かせているものなのだろうか。


 小野崎は恥ずかしそうにして、


「枦木くんも、何か願い事する?」


 と、話の矛先をこっちに変えてくる。聞き返されて答えねえのも変な話か、と枦木は思い、考えて、


「……ねえな!」

「ないんだ」


 なかった。

 そんなに長い間考えたわけでもなかったが、なかった。自分の心の中に願い事は何も眠っていなかった。


 当然と言えば当然のことかもしれない、と思う。死ぬ間際にここで時間を潰しているような人間なのだから。やりたいことやなりたいものがあれば、こんな風に過ごしてはいないのだから。けれど、とも枦木は思う。みんなそんなもんなんじゃねえの。あっても金欲しいとかゲームしてえとか、そのくらいなんじゃねえの、と。


「すごいね、枦木くん。自信満々なんだ」


 いやそういう話じゃねえんだよな。


 というようなことを言おうと思ったけれど、柔らかい言い方が思い浮かばなくて、結局断念して、


「願い事ある方がすごくね」


 と。それから話を逸らして、


「そういや小野崎、休みなのに今日髪結んでんだ」


 何の気なしに言ったつもりの言葉だった。休みの日は下ろしてて学校の日は結んでるのかな、と思っていたから。ああうん、くらいでさらっと流して別の話題に、と思っていたのに、


「…………………うん」


 そんなに溜めることある?と、動揺してしまうような沈黙の果てに重苦しい相槌が来た。自分が知らないだけで、この国では人の髪型に触れるのはタブーだったんだろうか。


 一瞬で気まずい空気になる。五秒くらい沈黙が流れて、じゃあ僕はこれで、とその場を後にしたくなる。というか、もう踵は返り始めている。いたのに、


「おい」


 と。

 三人目の声が響いた。池の中から。

 人魚がこっちを見ている。


「励ませ」


 と言いながら、小野崎の方を指さす。人を指さすなや、と枦木は思い、続けて、励ますってなんだよ、と困惑する。声に出すわけにもいかないので、それを目線で訴えかけていたら、


「かわいいねとか言え!」


 無茶言うなや。


 俺は少女漫画の顎長いイケメンかよ、と言いたくなる。言えない。言った場合、小野崎視点で俺はいきなり少女漫画の顎長いイケメンと自分を重ね合わせた意味不明な男になってしまう。


 無理、マジで。そういうことをあぐりに目線で訴えかけると、


「いいからやれ! 呪い殺すぞ!」


 洒落になんねえよ。

 そんなこと言われてもキモいだけだろ、と思うし、あぐりの言うことに従う義理も枦木にはまったくもってないのだが、あまりにも人魚からの視線が怨念めいているので、仕方なく、


「小野崎、髪下ろしてる方が似合うよな」


 やべえ失敗した、と咄嗟に思った。この言い方だと結んでる方は似合ってねえみたいな意味が含まれてしまっている。実際そう思っているところではあったので、うっかり漏れ出てしまった。


 さらにフォロー、と口を開こうとしたところで、


「ほんと?」


 と、嬉しそうに小野崎は。


「うん、あと眼鏡。外すと全然印象ちげーよな」

「……どっちが、えと」

「眼鏡なしで下ろしてんのが似合うと思うけど。正直図書館で会ったとき、あれこれ小野崎であってる?ってなったし」

「そっか。……そっか」


 しみじみと、小野崎は言った。


 これでいいか、と枦木はあぐりの方を見た。あぐりは満面の笑みで、うんうん頷いてる。幸せそうな面しやがって。


「あの、枦木くん。変なこと聞くんだけど」

「ん」

「あれで夏休み明け、行っても変じゃないかな」

「全然いいっしょ。イメチェン?」

「う、うん」

「たぶん男子も結構髪型変えるやついるし、タイミング的にもばっちりじゃね」


 実際結構いるだろうな、と思う。毎年このくらいの時期から、部活から解放された三年生は髪型を頑張り始める。その中の一人として数えられるなら、悪目立ちすることもないだろう、と思って。


 そっか、と小野崎はうれしそうに頷いた。


 そして池では、その二倍くらいうれしそうに、あぐりも頷いていた。

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