15 無限のかけらを集めては

「で、その後は?」

「呼び出し無視して帰った」


 そして池にいる。


 夕方。

 あぐりに今日学校であった出来事を話したのは、何も初めから意図したことではなかった。


 珍しく今日は遅いな、と言ったあぐりに対して、学校あったから、と返したら、本当に面白いくらいに食いついてきたのだ。

 噂には聞いているぞ、どんなところなんだ、何人くらいいるんだ、楽しいところなのか、今日は楽しかったのか。最後の質問のところで、全然楽しくなかったという意味で、今の話をしたのだ。


「大丈夫なのか?」


 ちゃぷちゃぷ、と池の中で尾びれを動かしながらあぐりは聞いたが、


「知らね」


 と枦木は素っ気ない。

 何も最初から素っ気なかったわけではない。散々学校について喋らされて、すっかり疲れ果てていたのだ。おそらく枦木の人生の中でこれほど詳しく学校について語ったことは一度もなく、また、これからも一度もないだろうと思われた。


「どうせ逃げ切りだし」


 投げやりに言い放ったのは、しかし紛れもなく枦木の本心でもあった。

 普段だったら絶対あんなことしねえ、と枦木は思う。もうどうせ死ぬのだから、後腐れはないのだから、という開き直りがなければ、ドドに逆らうなんて明らかにめんどくさいことはしないのだ。


 ふうん、とあぐりは頷いて、


「でもその、休みの間に行くやつ」

「登校日?」

「それ、もうないのか?」

「あるっちゃあるけど、別にどうでも、」


 と言いかけて、


「あっ!」

「わっ、」


 思い出して声を上げる。釣られて声を出したあぐりが、「急に大きい声を出すな」

とか「びっくりするだろ」とか抗議してくるのにも構わず、枦木はごろん、と池の淵で身体を投げ出した。


「三者面談あんじゃん……。忘れてた……」


 がっくりと気落ちした枦木に、あぐりは、


「サンシャメンダン?」


 と、新しい種類の麺類みたいなアクセントでその意味を尋ねてくる。


「なんか、進路の……将来どうなりますかどうなりたいですか、次はどの学校行きますかみたいなのを話すんだよ。先生と親と自分で」

「ふうん。なんでそんなに嫌なんだ」

「いや、普通にめんどくせえし……」

「それこそお前、」


 あぐりはちょっと言いづらそうにしてから、結局、


「……関係ないんじゃないか。もうすぐ死ぬ相手に将来の話なんかしないだろう」

「知ってりゃな」

「ああ、学校には言ってないんだったか」

「それもあるし……」


 そこで言葉を切った枦木に対し、あぐりはまさか、と目を見開いて、


「お前、親にも言ってないのか?」

「うん」

「うんじゃないだろ、うん、じゃ」


 もう一度枦木は、うん、と言った。とりあえず言うだけ言ってみた、という感じの相槌だった。


 あぐりの言わんとするところはわかったし、言うのももっともだと思う。しかしもうすぐ死ぬというのに毎日こんなところに来ている時点で色々察してほしいものだ、とも思う。ちゃんと親にそれを伝えられるような人間だったら、今頃家でわんわん泣き腫らしたり、病院の窓から見える葉っぱに自分の残りの寿命を見立ててみたり、インドの綺麗な湖を見て人生観を変えたりしている。ちゃんとした人間じゃないからここにいるのだ。


「まずいだろ、それは」

「うん、まあ」

「ちゃんと言え?」

「あー、うん」

「……言う気ないな」


 じとっ、としたあぐりの目線に、枦木は頬を掻いて、


「や、別に言う気がねーわけじゃねえんだけど」

「だけど、なんだ」

「言うタイミングがねーし……」

「たいみんぐ」

「あー、ちょうどいい……機会?」

「機会は自分で作るものだろう」

「名言じゃん」


 茶化すな、とあぐりは枦木を睨んで、


「お前、私なんかといる場合じゃないだろう。早く家に帰ってちゃんと伝えてこい」


 枦木は思う。あぐりの言うことには一理あると。一理どころか千里を駆けてると。しかし千里を駆ける一理を説かれたところで、俺の心は五里霧中と。もしかして俺才能あんのかなと。何の才能なのかはさっぱりわかんねーがと。


 何も言葉を返さないまま、学校からの帰りがけに買っておいた菓子袋を開けた。おい、と不満気にあぐりは言ったが、目の前に袋を出されると途端に大人しく貪り始めた。


 こいつちょれー、と思う一方で、やっぱりこいつの言うことの方が正しいよな、という思考も枦木の中にあった。

 確かに、それが当然のことなのだ。もうすぐ病気で死ぬことを知っていて隠す。それがもっと年のいった、たとえば孤高のジジイの選択であったなら、あるいはそれは尊重される選択なのかもしれないが、あいにく枦木は孤高のジジイではない。孤高のジジイになるためには、少なくともあと五十年は必要で、


 子どもなのだ。


 子どもに自分で何かを決める権利なんて本当はない。人の金で、人の家で、人に与えられた金で、人に保証された身分で、人に譲ってもらった時間で、そういうもので何とか生かされているだけの存在なのだから。


 そういう風に、枦木は知っていた。


「……それ、俺食ったことないんだけど」

「ほお」

「美味い?」

「美味い」

「あてになんねー」


 なんだと、と心外そうな顔で抗議したあぐりを笑い飛ばしながら、改めて思う。どうして自分がここに来ているのか、その理由を。


 楽だからだ。自分の生活だとか、責任だとか、そういうものと何の関係もない相手と喋るのが。これから先に、絶対に関係することのない相手と喋っているのが。


 あんまりだよな、と枦木は思う。あんまりな理由だ、と。そんな理由で毎日来られ

ては向こうもいい迷惑なんじゃないかと。


 でも、


「だってお前、何食っても美味いって言ってそうだし」

「お前、本当失礼だな。私だって味くらいわかる。不味かったらちゃんと不味いと言う」

「えー」

「本当だ!」


 でも、あと少しだけ。

 無限のちょっとを分けてほしいと、そう思って、笑った。

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