14 無敵

 その日の朝に池に居なかった理由は、コンビニで買い物をするための資金が尽きたからでも、枦木の体調が崩れたからでも、なんで俺は残り短い人生を妖怪とのお喋りに費やしてんだと冷静になってしまったからでもなかった。


「たりー……」


 学校というものがあり、夏休みというものがあり、休んでいるはずなのに学校に行かなければならない登校日とかいう謎の制度もあった。


 もうこんなもん馬鹿正直に従ってる方が馬鹿だろ、と枦木は思ったが、馬鹿正直に登校していた。真夏の、蝉の鳴き喚く中を、自転車に乗って、制服を着て、そんなに寿命も残っていないのに。


 くあ、とホームルームの前からしてあくびが漏れる。登校してくる間に散々その威力を味わわされた陽光を過信してか、まだ誰も電気を点けていない教室には、夏の影が匂い立つほど濃く漂っていた。


 どうせやることと言っても、ほとんど自習みたいなものなのだ。

 夏休みだからと言って生活リズムを崩さないようにだとかなんだとか理由をつけてはいるものの、結局のところ子どもが夏を最高に楽しんでいるのが気に食わなくて、大人はたまにこういう罰ゲームみたいな日を設けているだけなのだ……、とまでは枦木は思っていなかったが、中身がない日であるということに対してはまったく疑いを持っていなかった。


 去年の記憶が残っている。

 数学の時間、自習。国語の時間、自習。英語の時間、自習。以上、解散。これからも健やかに夏休みを過ごし、九月には元気な姿で登校するのですよ。


 無意味だろ、と強く思った記憶だけがはっきりとあって、


「んじゃ、今日提出する分の宿題前に出せー」


 だから、すっかりそんなことは記憶から抜け落ちていた。

 中三の夏休みの宿題は、夏休み明けにまとめて提出するんじゃなくて、登校日ごとに一部提出を求められるだなんてことは。


 次々に周囲のクラスメイトたちが席を立っていく。中三の夏、やたらに彼らの肌が白く見えるのは、単に部活を引退して外に出る時間が減ったからのみならず、受験に向けて家で勉強する時間が増えたからというのも理由にありそうで、みんながみんな余裕の表情で、このくらいやってて当然だよなという表情で、宿題に出ていたらしいワークブックを教壇の上に積み上げていく。


 枦木は。

 やっていなかった。


 当たり前のことだ、と枦木は思う。だってやった記憶がないのだ。やった記憶がないものが出来上がっている道理がない。どころか、そのワークブック自体家に忘れてきている。もはや二度と開くことはあるまいとすら思っていた。

 しかしそれでも余裕の表情を浮かべて、枦木は担任が提出状況をチェックしている様子を見つめていた。


 これもまた当たり前のことだ、と枦木は思う。自分は得体の知れない妖怪と話している間に残り六週間の寿命のうち二週間を消費した男なのだ。そんじょそこらの中学生とは余裕のこき方が違う。もういっそ余裕をこきすぎて何もせずに人生を終えてしまう勢いなのだ。


 だから枦木は、険しい表情で自分を睨みつけてきた担任と目が合ったときも落ち着いて、


「すんませんした」


 即謝罪ができた。

 しかしその程度の謝罪ではまるで矛を収める気配がないのが、ドドのドドたる所以であった。


 ドドというのは枦木の所属する三年二組の担任である土橋が裏で生徒につけられているあだ名である。ドドは三十代半ば、公立校の教員になる前は大手予備校でスパルタ式の教育メソッドを用いて一流大学や一流私立中に生徒をぶち込んでいたというのが自慢の経歴であって、そのスパルタ式の教育メソッドとやらが公立中学でも通用すると信じてやまない男だった。


 宿題を忘れた、予習を忘れた、授業中にやったことを覚えていなかったなど、それらに類する失態を犯した生徒に対する叱責には獣の恫喝に限りなく近い色があり、当然のことながら生徒からの評判は最悪で、三年のクラス担任発表の際に誰が言ったか「ドのつく外れ」がいつの間にか土橋という苗字と接着して、ドドと呼ばれるようになった。


「なんでだ」


 と言ったときにはすでに、ドドは戦闘意欲丸出しの声色をしていたが、


「忘れました」


 と言った枦木の態度は非常に堂々としており、隣の席に座っていた元ソフトテニス部の峯村はとばっちりを恐れて少し机を離した。


「なんで忘れたんだ」


 と、さらに声を険しくしてドドは言う。

 もうすぐ死ぬからいいかなと思ってました。よっぽどそう言ってやろうかと枦木は思ったが、言わなかった。ということでもう一度、


「すんませんした」

「なんで忘れたのかって聞いてんだよ!」


 バン、とドドは教壇を叩いた。ものすごく大きい音が鳴り渡って、教室に痛いくらいの静寂がやってくる。最悪の空気だったが、それでも特段枦木の心に動揺はなく、逆にそのことに自分で動揺したくらいだった。ひと夏の体験を通じて成長したのかもしれない、とあまりにも場違いすぎる感想が湧き上がってくる。


 なんで忘れたのかと言われても、忘れていたからとしか言いようがない。別に意図して記憶を消したわけではない。思い出す理由や覚え続ける理由が少なくとも自分にはなかったりもしたが。しかし「忘れたから忘れました」と言えば火に油になることはどう見たって明らかで、枦木はそれから無言を貫き通すことにした。これはクラス全体で共有されているテクニックであり、ドドはこちらから何か言えば言うほどヒートアップするので、何も言わずに嵐が去るのを待つのが一番だとされている。


 そして思惑通り、枦木に対するドドの怒りは段々と静まってゆき、


「お前もだよ小野崎ぃ!」


 小野崎に向いた。


 隣の席の峯村が安心したらしく、枦木に対して人懐っこい笑みを浮かべながら「ドドやべえな」と、夏休みなのに、と言いたげな小声で囁いてくる。


 いつもの枦木だったら、「マジそれ」と笑い返していた。この三、四ヶ月で三年二組の生徒の多くはドドの激怒に慣れている。度を越した激情は自分に酔っているか、さもなくばそういうポーズなのだとどこか冷静に判断している。


 が、それに慣れていない生徒もいる。

たとえば、普段は優等生なのに、たまたまうっかり宿題を忘れてきてしまった、眼鏡で、一つ結びで、毎日図書館通いの女子だとか。


「おい、聞いてんだよ!」


 視力の問題で前の方の席に座っている小野崎に届いているだろうドドの声量は、おそらく枦木が食らったものよりもだいぶ大きい。俯いた小野崎の後ろ姿はもうすっかり固まってるのが見て取れる。小声で峯村が「かわいそ」と呟いたのが聞こえる。


「やって忘れたのか、やんねえで忘れたのかどっちだよ!」


 と、隣の隣のそのまた隣の教室くらいまで届いたんじゃないかという大声で叫ばれた質問に対して、小野崎は蚊の鳴くような声で、


「やって忘れました」

「じゃあなんで持ってこねえんだよ!」


 もう一度教壇が大きな音を立てて叩かれる。

 それに対して枦木は、やったんだからいいだろとか、忘れたから持ってきてねえんだろとか思いながら、


「小野崎さんの分も俺が忘れました」


 と。

 そんなことを言った。


 教室に、さっきまでとは違う沈黙が流れる。何言ってんだこいつは、という沈黙。怪訝な目。よくわからないというのが丸わかりの視線。別種の視線は教室の中に二つだけで、一つは小野崎からの驚きの目線。もう一つはドドからで、


「あ?」


 ヤンキーみてえ、と枦木は思いながら、


「小野崎さんに宿題写さしてもらおうと思って無理やり借りて、そんで家にまとめて忘れてきました」


 堂々とそう言った。

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