12 私は優しい人間です 本当です

 思ったより怖く感じなかった理由は結構あったのだと思う。


 三度目の正直、つまりはある程度見慣れて親しみを覚えるようになっただとか。


 昼間だから、太陽の光がたいへん偉大であらされたために妖怪女から発せられるよくわからんしあるかどうかもわからんオーラ的なものが薄まっただとか。


 もう何やってもどうせ死ぬんだなっていうのが笑えるくらい理解できて、開き直れたとか。


 普通に明るいところで見たら素直に可愛く見えたとか。


 なんか、そういうことがあったんだと思う。


「お前、暇なのか?」


 最初、枦木は一体何を言われたのかわからなかった。


 オマエヒマナノカ。

 新しい植物の名前かもしれない、とも思ったが、当然そんなわけはなく、あなた様は毎日毎日この池にお越しになっておられますがひょっとしてひょっとすると夏休みなのに一緒に遊ぶお友達もいらっしゃらないで毎日毎日お時間お持て余しはべり散らかしてておいででございますか?という意味だった。枦木が言われた場合のみに限り、死に際になってまで、という追加の含意がある。


 こういうとき人間の取れる行動の選択肢はふたつで、いやそうなんでやんすよ~と卑屈に笑うか、無視するかである。枦木は無視した。無視してがさがさと、コンビニで貰ったレジ袋の中身を漁り出した。


 最終兵器が入っている。


「おい暇人。黙ってないでなんとか言え」


 無視する。中身を取り出して、包装を取っ払う。一応手で触ってみたり、光に翳してみたりして、厚みを確認する。たぶん、大丈夫だと思う。思った。


「おいガキ。人の身体見といてなんだその態度は」


 枦木は猛烈な憤りを感じた。見たくて見たわけじゃねえ。お前が見せびらかしてきたんだろ。ばーか。痴女。そういうことを言いたくなった。

 けれど、ふーっ、と下唇を噛んでする独特な溜息をすることで気持ちを静めた。

 そして最終兵器を持ったまま、池の淵までずんずん進む。


 「お、お?」と急に近付いてきた枦木に気圧されるように女は声を上げる。地面に立つ枦木を見上げる女は、真っ白な首筋を仰け反らせて、焦ったような顔をしていた。


「うわっ!」


 最終兵器を投げつけてやると、女はそんな声を出した。

 勝った、と枦木は思った。


 いや別に妖怪退治に来たわけじゃないが、驚かされっぱなしだったこれまでから一矢報いたような気がした。そしてそれとともに、ふっと肩の力が抜けた気がした。


 なんだ、こいつ割と普通じゃん、と。


 たぶん、初めに会ったのが、二回目にあったのが、あんな暗いところじゃなければ、初めからこんな風になっていたんじゃないかと思う。


 暗闇で日本人形と隣り合わせに座っている座敷童を見たら不気味に思うかもしれないが、縁側でぽかぽか日向ぼっこしている座敷童を見れば、心は和む。

 真夜中に河童に襲われたら恐怖体験だろうが、昼間に河童から相撲を挑まれたらそれは日本ほのぼの昔話だ。


 目の前の女を分類するカテゴリーが、ホラーから民話に移った。そんな感じがした。


 その民話では人魚は僧侶を祟り殺していたわけだが、目の前でわたわたしている女を嘲笑していれば、祟りだろうがなんだろうがどうせ一月ちょっとで自分が死ぬことを考えれば、それは大して問題でもないように思えた。


「ぷはっ! ……何すんだお前!」


 ようやく落ち着けたらしい女は、さっきまで自分の顔に引っかかっていた黒い布を片手に、ぷんすか怒りながら抗議の声を上げた。枦木はいよいよ形勢逆転の風が吹き始めたのを感じ、不敵に笑みを浮かべながら、その黒い布を指さす。


 そして、こう言った。


「着ろ」


 最終兵器。

 それはコンビニで買ってきた、厚手の黒Tシャツ。


 我ながら完璧な作戦だ、と枦木は心中で自画自賛する。

 問題はこの女が乳丸出しであるというただ一点。いや、正確に言うならそれを含めた全体的に淫猥な感じにあるのだが、まあなんにせよとりあえずそれが起点にあるのだ。それさえなければ、単に怪しい女、あるいは妖怪っぽい生き物というだけだったら、自分はもっと耐えられた自信がある。


 だから、その点を封じてやろうと、そう思ったのだ。


 大人しく服着て文明に馴染んじまいな、ボケがよ。

 勝ち誇った顔で、枦木は笑った。

 のに。


「何だこの服。どうやって着るんだ」


 予想外のコメントが来た。


 予想しておくべきだった、と後悔する。それはそうである。妖怪が服の着方など知っているわけがないのである。


「着せろ」


 無茶言うな。


 完全に枦木は硬直していた。

 ん、と裸で黒い布を掲げてくる女の姿をできるだけ、霧だとか雨だとか蜃気楼だとか、そういう自然現象の一種だと思うようにしながら、やがてなんとか、くるり、と後ろを向き。


 おもむろに服を脱ぎだした。

 破れかぶれになったわけでも、理性が限界を迎えたわけでもなかった。むしろ理性のファインプレイだった。


「見てろ」


 と枦木は言う。

 そしてゆっくりと、見せつけるようにTシャツを着た。


「む……、もっかいやれ」


 もっかいやった。


「おいこれうしろまえどっちだ」

「内襟に文字が入ってる方が後ろ」

「ん……お? おい、見ろ。こうか?」


 見た。

 そして枦木は、すべての修行を終えた僧侶みたいな顔をした。恐ろしい試練だった、と思う。来世の幸福は約束されたも同然だ、とすら思う。それほど激しい葛藤を乗り越えて、枦木は目の前の女に、ちゃんとした服を着せることに成功した。


「おい、どうだ?」

「完璧。服着る天才」

「お、そうかそうか。似合うか」

「マジで似合う。一生着てた方がいい」


 そしてもう、すっかり目の前の女が、クラスの女子とか、そのくらいの距離にいる存在にしか感じなくなっていた。


 何を馬鹿な、と枦木自身、頭の片隅では思ったが、事実そう感じているものは仕方がなかった。そのくらい服というものは重要なのだ、と改めて気付かされた。衣服の乱れは心の乱れという言葉が、初めて心に染み渡った。


 女は「そうかそうか」と笑う。実際のところ瞬く間にそのTシャツはびしょ濡れになったのだが、物珍しいのか、何度もくるくる首を曲げたり腰を曲げたりしては、自分の姿を見下ろしていた。

 そして、パッと顔を上げると、


「なんだ、すけべなだけのガキかと思ったらいいやつじゃないか」

「あ?」


 喧嘩売ってんのか、という意味を込めた「あ?」だったが、女は気にした風もなく、


「で、なんだお前。なんか用でもあるのか」


 それで、枦木は普通に困ってしまった。

 用でもあるのか、と言われると、まあ、ない、としか言いようがないのである。

 じゃあなんで来てんだ、と聞かれれば、そりゃあ理由があって来てるはずなのに、パッと思いつくものがない。


「こ、」


 好奇心、と言おうとして、やめた。

 間違いじゃないとは思う。けれど、今となってはそう言うことが憚られた。


「お、」


 お前人魚なん?と聞こうとして、やめた。

 昨日だって聞いたじゃないか。そしてその質問のせいで痛い目にあったじゃないか。同じ轍を踏むのはマジの馬鹿のやることだ。せっかく優位に立ったんだからそれを活かして、


「……親切心」

「下手だなー、お前。嘘を吐くのが」


 即バレた。その上馬鹿にされた。倒置法まで使って。


 しかし嘘がバレたからといって本当のことを話すかと言えば、またそんなこともない。というか、枦木は自分でも本当のことがよくわかっていないのだから、答えようがないのである。


「まあその年で死ぬともなればわからんでもないけどな。お前、私が言うのもなんだが、あんまり迷信に縋るんじゃないぞ」


 いや本当に下半身が魚の人間が言うことじゃないだろ、と思ったが、枦木は一旦それを飲みこむ。飲みこんだら別の場所が引っかかって、


「……は?」


 なんで知ってんだよ、と。


「なん……、は?」

「いや本当にな。ろくなことはないぞ。死ぬ前は大人しく……とは言わんが、少なくともこれまでの人生の延長にあるところで生きんと、最後の最後で大怪我して、」

「待て待て待て、何? いや説教の話じゃなくて」


 説教、という言葉に女が微妙な顔をしたのも気にせずに、


「何、なんで知ってんのお前」

「だってお前、私が見えてるだろう」


 聞き慣れない文章題だったので解読に時間がかかった。人魚らしい目の前の女が見えているということが、女が自分の死期を知っているということに繋がる。ということは、


・この女を目にすることができるのは死期が近い人間のみ(有力説)

・この女を見ると近いうちに死ぬ(性悪説)


 一瞬嫌な汗をかいたりもしたが、文脈から見て有力説の方を正解として枦木は採用した。というか、前に読んだ漫画でそんなのを見た覚えがある。まさか現実にそういうことがあるとは知らなかったが。別に知らんままでもよかったが。


「お前、死にかけのやつにしか見えない感じ?」


 一応確認のために聞いてみると、


「かなり深刻なやつだけな」


 と答える。それであのおどろおどろしい民話の謎も解けた。あれは人魚を見たから僧侶が死んだんじゃなくて、僧侶がその夜にぽっくり死ぬほど弱っていたから人魚を目にすることができたのだ。


 あれ、と。引っかかって。

 引っかかったまま飲みこんだ。


 お前いくつ?と聞きそうになったのだ。だって気になるではないか。特にあの民話の書かれた年代は書かれていなかったが、相当昔の話のイメージがある。そうしたらいつから生きているのか当然気になるではないか。しかし枦木は、人に年齢を尋ねるのは失礼、という頭の片隅にしまっておいたマナーを妖怪にまで適用して、その言葉を飲みこんだ。


 が、その引っかかりは目の前の女にわかったらしく、


「言っておくけどな」


 が、その引っかかりの内容までは伝わらなかったらしく、


「なんでも願いを叶えられるなんて嘘八百だからな」

「お、おう」

「そんな力があったらこんな狭い池さっさと出てる」


 そうなんだ、と枦木は思った。特にそれ以上の感想はなかった。最初から期待していなかった。話に出てきた僧侶は死んでるし、長者は見えてないし。「お前が欲しいのは金の斧? 銀の斧? へえ、鉄の斧。そう……」みたいな妖怪なんだと初めから思っていた。


「だからお前が寿命を伸ばしてほしいとか……、その年だから病気だろ? 病気を治してほしいだとか言ったとしても、私にはできない。期待してたんだったら残念なことだが」

「いや、別に……」


 それ以外に言いようがなかったので、そう言った。

 しかし女は、思いもしなかった、というようにきょとんとした顔をする。


「じゃあなんでここに来たんだ、お前」

「……親切心」


 女はますますきょとんと、不思議そうな顔をした。そりゃそうだ、と枦木は思う。自分自身だって、自分が親切心で妖怪に服を渡しに来たなんて思っちゃいない。

 だからと言って、好奇心とか暇だからとか、やりきれない気持ちが募って走り出しちゃって青春とか、そのへんのぼんやりしたことはわざわざ言う気にもならない。

 だからそんな言葉でお茶を濁して、


「……そうか」


 濁されて、


「いいやつだなあ、お前」


 女は笑った。

 罪悪感がなかったと言えば嘘になるが。

 普通に嘘は吐くことはできるので、枦木も笑う。


 暇ならいつでも来い、と。

 女は言い。

 名前を、あぐり、と教えてくれた。

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