10 死ぬ間際ってもっと楽しいもんじゃねえのかよ

 誰かに話したくて仕方がなかった。

 それもあって図書館に来た、らしいのだが。


 なんて言って話すんだよ、と。

 小野崎の背中を見ながら、枦木は思っていたりもする。




 走って逃げて眠って起きて朝が来て、それでいつもどおりになるかと言えば、そんなことはなかった。

 夏の日で、蝉もミンミン鳴いていて、とてもじゃないがクーラーなしでは過ごせないような時間のど真ん中に立っていて、なお枦木の心はあの夜の中にあったし、いまだに指先にはぞっとするようなあの寒気が残っていた。


 人魚だったよな、と。

 人魚だったよな、あれは、と。

 どう考えてもそう思う。そう思うのだ。


 悪い夢を見たわけじゃないと思う。

 部屋の隅っこに放り投げられていたコンビニの袋の中には、これから遺書に変わっていくボールペンと紙が入っている。

 目を閉じれば暗闇の中に、もうすっかり瞳に焼き付いてしまったらしいあの鱗のきらめきが見える。


 本物だったのか、と人に聞かれて頷けるかといえば、やっぱり微妙だけど。

 本物だったのか、と自分で自分に聞いてみれば、どう見てもそうだろバカ、と返したくなるくらいには、はっきりと覚えている。


 あれは人魚だったと、そう思うのだ。

 そしてそれを誰かに打ち明けてみたいと、そう思ったのだ。


 朝起きたころには、もう両親は仕事に出かけていなかった。

 たとえいたとしてこんなことを話せたかどうかは別の話だが、そもそもふたりに打ち明けることはどうやっても不可能だった。


 残りの選択肢を考える前に、時間が来た。

 パーカー。今日取りに図書館行くから、と小野崎に伝えておいたやつ。


 現実逃避に三度寝くらいしてみたり、昨日の夜のことを思い返してみてはぞっとしたりしていたら、気付けば午後三時。

 仕方なく自転車に飛び乗って図書館まで漕いでいれば、その道中に小野崎に話してみるか、という気持ちは定まった。


 定まったのだが。


 なんて言って話しかけんだよ、と。

 すん、と整った姿勢のまま本を読む小野崎を後ろから眺めて、そればかりが迷いになっていた。


 結局、自分がクラスメイトの女子に気付かれない場所から熱視線を送り続けている男子になっていることを客観的に理解したあたりで、特に何の考えもないままに話しかけてしまった。


 ちゃんと昨日の話を覚えていてくれたらしい小野崎は、さして驚きも戸惑いもせず、図書館スペースを出て玄関ホールのところにまで戻り、丁寧なお礼とともに紙袋に入ったパーカーを返してくれた。


 それで終わり。

 小野崎はしばらくにこにこと笑っていたが、こちらから何の話題も振れずにいると、じゃあ、と言い残してまた図書館の方に消え去ってしまった。


 枦木は意気消沈の思いだったが、よくよく考えてみても、こんな話ついこの間初めて喋ったような相手に聞かせる話じゃない。むしろ何の言葉も出せなかった方が正解だったんじゃないか、と思うような考えさえもある。そのまま自転車に乗って帰路についたときには、もうこれも墓場まで持っていくしかないような秘密のひとつになってしまったのではないかとすら思った。


 秘密が増えすぎた、と自室に戻ってひとり、枦木は思った。

 不治の病に謎の人魚。考えるのがめんどくさくなる。


 こういうときは何か別のことをして気を紛らわそう……、そう思ってゲームでも始めてみたが、残り少ない人生をただの遊びに費やしていいのか、という心の声がいつまでも消えないままで、楽しめやしなかった。


 じゃあ残り少ない人生まじめに過ごしてやろうじゃねえか、と手付かずの夏休みの宿題に取り掛かってみたりもしたが、こんなもん面白いわけもなかった。すぐに放り出して、二次関数なんか残り一ヶ月の人生で一度も使わねえよ、という思いをこめて「けっ」と天井に向かって吠えてみる。


 放り出すというのは比喩ではなくて、本当に放り出した。机からベッドに移動して、仰向けに倒れ込むときに、ノートをぽいっ、と投げた。

 最高に気分はよかったのだが、そのときぐしゃっと紙が折れ曲がって床と接触した音が思い切り響いた。しばらくは無視していたものの、結局無視しきれず起き上がって拾い上げてしまう。


 拾い上げて、プリントが一枚挟まっていることに気が付いた。

 三者面談日程調整表、と書いてある。

 夏休み中第二回目の登校日までに親の都合を聞いて、対応可能な日程を提出しろ、とも書いてある。


 何もかもがめんどくさい。

 なんで死ぬ間際までこんな思いをしなくちゃならないのだろう、と枦木は憂鬱になった。


 だって考えてもみろ。夏休み中第二回目の登校日、そんなものの存在自体を今まで忘れていたし、夏休みだって言ってんのに学校がある意味もわからないし、やたらにせっかちに開催されるものだから、おそらくその時点でまだ自分は生きている。ということは、それっぽい死なない場合の進路を考えておかなければならないのだ。はい、僕は近場で偏差値が手ごろな高校に進学して社会に貢献できる立派な仕事に就けるよう日々精進していく所存であります。冗談じゃない。


 死ぬ間際ってもっと楽しいもんじゃねえのかよ。

 ハチャメチャな言い分だとは自分でも思うが、でもなんか適当に検索して出てきた映画とか小説とか見ると、やっぱりそういうイメージがつく。


 死ぬ前だからって理由つけて好きなことをしたり、周りから色々気を遣ってもらったりするんじゃないのか。

 だというのに、どうして言う言わないすら人に気を遣い、あまつさえ夏休み中の学校に行くしかないのか。


「馬鹿じゃねえの」


 口からついて出たのはそんな言葉で、誰に向けたものなのかもわからない。

 ただ着実にあらゆるものが面倒くさくなっていて、とうとう瞼を閉じる。


 短い夢を見た。


 昨日の夜の夢。

 女が月と星に照らされて、林の中、水辺に佇んでいた光景。

 水面を跳ねた鱗。長い尾。

 白い肌。なぞる指。


 振り払ったときのこと。

 そのとき、


「あ、」


 浅い眠りだから、すぐ目が覚めて。

 まだ夢の残滓が頭の中にあるうち、問いかける。


 あのとき。

 あのとき、俺があの女の手を振り払ったあのとき。

 あの女はどんな表情をしていたっけ、とそんなこと。


 夢と混同してやしないかと。

 そういう風に思う。だって、記憶の中にある顔は、昨日のあのやり取りからは想像もつかないような顔だったから。


 だけど。

 だけどだ。

 もしもこれが、ただ自分の想像だけで作り上げられた夢なんかじゃなくて、昨夜の記憶の単なるリフレインとして現れた現れたものだっていうなら。


 あの女は、泣きそうな顔をしてやしなかったかと。


 枦木は静かに、いつまでも夕焼けに変わる気配を見せない西日を浴びながら考えていた。

 

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