09 仕方のないことである
綺麗だ、と思った。
初めて星を見た日のことなんて覚えているわけがないけれど、きっとそのとき、自分はこんな気持ちになっていたんじゃないかと感じられるくらいに。強く。
闇の中に淡く、白い肌が光のように立っている。
その表面を流れる滴は、それこそ銀河に散らばる無数のきらめきのように、一瞬だって瞳に捉えることはできない。
あの日ぼんやりとしか見えなかった長い髪は、こうして間近で見てみれば、夜に紛れてもなお、赤い。
不思議な色だ、と枦木は思う。この色を表す言葉を、正確には知らない。茶色よりも鮮やかで、亜麻色よりももっと濃い。陽の光の下で目にしたなら、どんな色に見えるのだろう。暗い林の中では、きっと目に映る色は違っている。
ほっそりした身体つきの女だった。
髪は額に張り付いて、その隙間から覗く伏し目はどこか妖しく垂れている。
鼻筋は細く通り、唇は薄い。
首から肩へと輪郭は流れ、そのまま胸と腹へ至る。そのなだらかな曲線にはひとつとして引っかかりはなく、流水が流れるままに象ったような、そんな女だった。
綺麗だ、と。
興奮も、驚愕も、恐怖もぜんぶ置き去りにして。
枦木は、そう思った。何度も何度も。その女が瞳を瞼を上げるまで、何度も。
「あ、」
目が合って。
何かを、言葉にしなくちゃと思ううちに女の口が開き。
こんなことを、言った。
「――すけべなガキだな」
*
「は?」
それで、枦木は我に返った。
今、目の前の女は何と言った?
スケベナガキダナ。
すけべなガキだな?
頭の中で方程式が組立てられる。
すけべな=エロい
ガキ=子ども=中学生=自分
だな=詠嘆
よって、すけべなガキだな=とんでもねえエロガキだなこいつぁ呆れ果てたよ
お前に言われたくねーよ。
枦木の心の奥底から、怒りの感情が湧き起こってきた。
お前にだけは言われたくねーよ。
そりゃあまあ、人並みに性欲とか、そういうものはある。認めよう。仕方ない。実際、そういうものはある。否定はしない。
だけどそれは絶対に、絶対に絶対に絶対に、塀も囲いも何もない公の場で乳丸出しで深夜の池に浸かってる露出狂に言われるようなことではない。たとえばこの相手が小野崎だとか、北川だったら我慢できる。いや我慢ならないとは思うだろうが、我慢する努力をする。受け入れる努力をする。
だけどお前には言われたくない。
お前には言われたくないのだ。
「おーおーがっついて。そんなに女体が珍しいか」
ほれ、と言って女は自分の片乳をがっぷりつかんで持ち上げた。
咄嗟に枦木の喉から甲高い悲鳴が漏れそうになったが、抑え込む。視線をがっちり女の瞳に固定する。もう下の方は見ない。何があっても見ない。たとえこの女の腹のあたりに次の宝くじの一等番号が書いてあったとしても、もう絶対に見ない。
強靭な精神力を持って枦木は女の顔だけを見る。
睨みつけるといってもいい。とにかく、目と目の間の、鼻筋の起点のあたりをじっと見た。
すると驚いたことに、う、と女がたじろいだ。
勝った、と枦木は思った。
女は若い。下手をすると自分と同い年くらいかもしれない。その年で百戦錬磨の大変態というわけにはいかないだろう。だったらこんな風に、強気に、
いや待て、何の勝負をしてるんだ。
というか、身の危険だ。
というか、なんで自分はこんなところに来たんだ。
だって目の前にいるのは不審者だ。
違う。不審者に会いに来たわけじゃない。何か別の目的があってここに来た。行くところがなかったから? 帰りたくなかったから? そう、確かにそういう理由もあったけれど、それだけじゃあなかったはずだ。ちゃんと思い出せ。なんでここに来たんだ。
人魚がいるって、そう疑ったから。
思い出したら、視線の動きは早かった。
女の足はどうなってる? 目は動く。だけど水面はそれこそ夜空と区別がつかないほどに黒く、月と星を映すスクリーンとしか機能していない。水の中に何があるかなんて、わかりっこなかった。
「う、」
下げた視線を戻したら、今度はこっちがたじろぐ番だった。女は枦木が目を離した隙に、覗き込むように、視線をまっすぐに変えていた。
怯んだら負ける、と。
咄嗟にそう思った。
何の勝負だかはよくわからなかったけれど、とりあえず、咄嗟のところではそう思った。
「お前、」
だから、主導権を握らせないようにして、
「人魚か」
と。
そう聞いた。
そしてその質問が、あまりいい手ではなかったらしいことが、すぐにわかった。
にんまりと。女は笑った。知っていたぞ、と言うように。お前がそういう風に聞いてくることは、はじめからわかっていたぞ、と言うように。
「どれ、」
と、女は呟くと、とぷん、と静かに水の中へ潜っていった。
目に見える範囲に女がなくなったことに枦木が動揺するよりも先に、再びその姿が現れる。
飛び魚のように。
月の光を受けて。
人の半身と、魚の半身を持った、空想でしか見たことのなかった生物が。
空を舞う姿が。
枦木の目の前に現れた。
言葉を失った。ぽかん、と口が開いたりすることもない。布でも噛まされたような形で口は強張り、あっけに取られすぎて、それを表情に上手く出すことすらできなかった。その間に、水面の下から、女の頭が浮かんでくる。
鼻の中ほどから下は水に浸けたままで、じっと枦木のことを見ていた。
枦木はそれにも気が付かないまま、ついさっきの残像がまだそこにあるかのように、ずっと宙空を、呆然と眺めていた。
鱗。
光る。尾ひれ。
「……マジか」
しみじみと。
そんなことを、枦木は言った。
本当にしみじみと。そんなことを思い。
「うおっ!」
思っていると、顔に冷たい感触。
というか、液体の感触。一瞬ものすごくびっくりしたが、すぐに手で触れてみると何のことはない。それはさらさらとした水の感触をしていて、反射的にその水の飛んできたであろう方向を見れば、顔を半分だけ覗かせた女が、手を水鉄砲の形にしてこちらに向けている。
本当にそうだろうか、と。
思った。本当に人魚なんだろうか、と。
目の前で魚の半身を閃かせた女に向かって何を、と思う。
けれど、何を根拠に人魚だなんて馬鹿げたことを信じるんだ、と自分の頭の中に住むもっと冷静な自分が尋ねれば、確かにそのとおりだ、と頷いてしまう。どんなにありそうにないことだって、上手く嘘つけばあるように騙せるに違いない。そんなことはもうとっくに知っている。
「本物か?」
そうと知りつつ、そんな馬鹿げた質問を、馬鹿げたことに本人に向けてしたのは。
きっと、その時点でほとんど信じてしまっていたからで。
女は、すう、と。
池の淵まで近寄ってきた。泳ぐという言葉が相応しくないほど滑らかな動きをしていた。どうやってか、水面から上半身だけを見せる。
それから、その細い腕を、枦木に向けて突き出した。
何のことやらわからない。
枦木は困惑したが、女の訴えかけるような眼差しに数秒射止められると、やがてわけもわからないままに腕を差し出す。
女はその手を取った。
枦木の指は導かれるがままに触れることになる。
頬に。
首に。肩に。胸の真ん中に。そのまま肌の下にある骨をなぞるようにして、みぞおちに、臍に。
付け根に。
そこで止まる。
肉と、鱗の境目で。
これは仕方のないことではあるが、もう枦木の思考は完全に止まっていた。
意識を飛ばさなかっただけ大したものである。指の先からは肉の滑らかな感触と、鱗のざらざらとして硬い感触の両方が伝わってくる。手首のあたりにはほそっこい指の感触が、ぞっとするくらいに冷たいままに、首の裏まで上ってくるようにして纏わりついていた。
目は開いているだけだったし、耳は塞がれていないだけだった。
鼻はたぶん閉じていたし、舌だって、たとえばチョコレートを口に含んでいたとしても味なんか跡形もなく消え去っていただろう。
指先だけが、まだ生きていた。
まだ生きていて、感触があって、そして女はこんなことを言った。
「確かめてみるか?」
走って逃げた。
二回目のことで、中学生で、十四歳で。
これもまた、仕方のないことである。
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