08 闇に口づけ
むしろほんの少しでも車の通りがあることに驚いた。
なにせこの田舎道の、それもド深夜なのだから。
駅の方向に行った方が当然コンビニの数は多いのだが、それでもあえて逆を行ったのには理由がある。補導されそうで怖いからだ。人のいる方に行くと。その点こっちはの図書館方面の道は穏やかなものだった。ほんのたまに車道を行く車がどう見ても百キロくらい出してて身の危険を感じるくらいで、もう数年以上誰も立ち入っていないゴーストタウンみたいに静まり返っている。
いま自分が不審者に連れ去られても誰も気づかないだろうな、と思った。
たぶんそういう理由で未成年の深夜外出は禁じられてるんだろうけど、ひとまずそういうことは無視して、枦木は自転車を漕ぐ。
虫の声と車輪の音だけが響いて、頬を過ぎ去っていく夜の風は、昼間の暑気が嘘のように涼やかだった。
上を向くと、嘘みたいな星空、というより嘘くさい星空が広がっている。まじまじと夜空を見上げるなんてこと、天体観測が趣味なわけでもない枦木は生まれてこの方ろくにしたことがなくて、まさか理科の資料集で見たようなそれがそのまま空に映っているなんてことがあるとは思っていなかった。感動、というより、資料集の写真をそのまま切って貼って誤魔化しているような、そんなフィクション性を感じた。
十分、体感ではそれくらいでコンビニに着いた。
店舗のサイズに比べてやたらにだだっ広い駐車場には、深夜帯にも関わらずそれでも数台の自動車が停まっている。一瞬、知り合いがいたら嫌だな、と枦木は不安になったが、中に入ってみればなんてことはない。客なんてたったいま入れ違いになった髭面の男性の他にはいなくて、単に従業員の車が停まっているだけだった。
文房具のコーナーに迷わずに。
辿り着いたらまずはペン。筆ペン、という選択肢もあったけれど、習字なんて人生で数回しかやったことがないし、とてもじゃないが使いこなせる気がしない。大人しくボールペン……、ちょっと高めのボールペンを手に取る。何の見栄だよ、とも思う。
次に紙。どれがいいのか、なんてことはまったくわからなかったけれど、薄紫色の包装の、縦書きの用紙が売っていた。見た目がなんか葬式っぽい、と思ってそれにする。
会計は、千円札すら崩さずに済んだ。
これが自分の遺書の材料費か、と思うと不思議な感じもした。
自転車まで戻って、前籠に買い物袋を突っ込んで、ついでになんか飲み物でも買えばよかったなと思って、やっぱり買ってこようかなと思って、もう一度店内に戻ろうとして、それでふと、目に入った。
コンビニの窓辺に、何かの模様かと勘違いするほど夥しく、羽虫の死骸が散らばっている。
別に、珍しいことではなかった。特に夏場は。
田んぼもあれば、畑もあるような道の脇に立っているのだ。ただでさえ夏場の一時期は自転車を漕ぐのが嫌になるほどの蚊柱が道を阻むこともあるのだし、こんな風に暗闇の中ぽつんと、煌々と光る建物があれば、羽虫の寄ってくるのは当たり前なのだ。
そして、こんな風に死ぬのも、当たり前のことなのだ。
ぱち、と音がした。
あまりにも光が強かったから、どこから羽虫が来たのかもわからず、あまりにも死骸が多かったから、どこに羽虫が落ちたのかもわからなかった。
枦木は自転車のスタンドを蹴って、腕の力だけで向きを変えて、サドルに跨る。
漕ぎだすとき。
帰りたくないと、そう思った。
*
だからと言ってこんなところに来る必要があったのかは別の話だけれど。
俺はなぜこんなところに、と枦木は自分で自分に呆れ果てたが、こんなところに来たのにはもちろん理由があった。
このあたりには、何もないのだ。
見渡す限り家、家、家。見渡す限り、田、畑、田、田、畑。道路。病院も図書館も閉まっていれば、他には何も、どこもなかったのだ。
行き着く場所なんて、この林道しかなかったのだ。
初めのころは車が一台くらいなら通れるだろうという幅のあった道が、段々と狭まっていく。自転車に跨ったままでは足元が不安だな、と思ったあたりで、自転車のスタンドを立てて、そこに置き去りにする。荷物は少ない方がいい。
普通に考えて、あれは不審者だった。
上裸の不審者。いたいけな中学生に裸体を晒してご満悦になってた不審者。
普通に考えればそうなのだが。
でも、普通に考えたら自分だって、余命宣告なんてされないのだ。
道は段々と細くなっていく。林は段々と背を高くしていって、月の明かりも星の明かりも遮って、やがて自分の手のひらも見えないような暗闇が現れる。
考え直せ、と自分が自分に呼びかける声が聞こえる。
一緒にいた小野崎に見えてなかったからなんだってんだ。あの日は眼鏡をかけてなかったから見えてなかっただけかもしれねえだろ。
魚の足をしてたからなんだってんだ。池の名前が人魚池だったからなんだってんだ。そのへん諸々飲みこんでそういうコスプレをしてた手の込んだ変態かもしれねえだろ。
危ねえからなんだってんだ。失うものなんかもうねえだろ。
考え直さなかった。
だから、月明かりと、星明かりが、もう一度姿を現す。
暗い林がある。
上向けば、銀河という言葉に頷いてしまうほどきらめく天体が滴のように散らばった、光の湖がある。
そして、その一部を少しだけ借り受けて、淡く輝く池がある。
枦木は吸い寄せられるように歩く。
池に向かってまっすぐ。
一歩、一歩と進むうちに緊張がほどけていく。
代わりに、別の感情が枦木の身体を支配するようになる。
勇気とは違うし、覚悟とも違う。
そんなに大した感情ではなかった。
たぶんそれはやることがないだとか。
なんか苛々するだとか。
理由だってはっきりしたものではなくて。
たぶん最初にそれを見たのと同じように。
ただ、たまたま、偶然に。
そこにいただけなのだと。
水面から姿を見せた女と、はっきり目を合わせて、枦木はそんなことを感じた。
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