06 全然全然全然全然

 あの人あんなサービスよかったっけ。

 そう思いながらも、図書館まで車で送ってもらって夏の真昼間に汗ひとつかかずに済んだことには素直に感謝する。というか、食った後になって気付いたが、油物は控えなくちゃいけないんじゃなかったのか。


 死ぬ寸前だから優しくされてるみたいで気味が悪いかもしれない。


 思いながら、枦木は図書館に入る。

 今日は単なる時間潰しではなく、明確な目的があってここに来た。


 漫画の棚にはいないだろうな、と思う。

 文芸の棚をうろうろする。見当たらない。ということはこっちか、と閲覧机のコーナーに歩いていく。


 いた。

 あんまり見覚えのない後ろ姿だったけれど、たぶんあの人だと思う。ゆるくウェーブした髪、想像していたよりもずっと綺麗に整った姿勢で、本を読んでいる。


 どうやって話しかけたもんかな、と迷う。とりあえず隣に座る。気付かれない。声をかけようと思ったがその横顔はどう見たって集中している。突然呼ばれたらびっくりするよな、と思って、その顔がページから上がるのを待つことにする。


 上がらなかった。

 結局、その本を読み終わるまで。


「わ、」


 そして清々しい顔で本を閉じて、余韻を噛みしめるように目を閉じて上を向いた小野崎は、目を開けた瞬間に隣にクラスメイトがいたことにびっくりして声を上げた。枦木の気遣いには何の意味もなかった。


 ちょっといい?のジェスチャーをする。

 全然大丈夫です!のジェスチャーが返ってくる。それだけで枦木はほっと胸を撫で下ろす。想像していたよりもだいぶ優しい反応だった。


 図書館を出る。が、建物の外にまでは出ない。この図書館は公民館併設型で、玄関ホールのところまで出てしまえば普通に話くらいはできる。わざわざ夏の暑い中、外に繰り出していくこともない。


「昨日、急に帰っちゃってごめんな」


 とりあえず、開口一番謝罪しておいた。


 昨日家に帰ってから……、は余裕がなくて何も思わなかったのだが、今朝がたになってからそのことばかりが気にかかるようになっていた。

 パーカーは預けたまま、自転車は放置したまま、突然その持ち主が去ってしまったら、どう考えても困ると思ったのだ。少なくとも、自分がやられたら困る。ということは、小野崎もたぶん困っただろう、と。


 そう思って謝りに来た。

 それから、突然一緒に雨宿りをしていたクラスメイトが叫びながら走り出したらどう考えても怖いだろうと、そうも思った。小野崎はどう見ても神経が太いタイプには見えなかったし、どちらかというと恐怖体験をしたらすぐに失神しそうなタイプに見える。いま枦木の頭の中にはちょっと驚かされただけで気絶してしまう子だぬきが本を読んでいる。


 が、


「う、ううん。私の方こそごめんね。気遣ってもらっちゃって」


 ん?

 と、声を出すのを抑えて、頭の中で情報を整理する。


 気を遣った、記憶。自転車で本を運んだこと? 上着を貸したこと? そのふたつ。そのふたつなのだが、それって、


「でも大丈夫? 風邪ひいてない?」

「や、まあ別に」

「ほんと? でも、あ、変な意味じゃなくてね。あのまま一緒でも……」


 ごにょごにょ、と。

 その先はよく言葉にならなかったから聞き取れなかったけれど、枦木は大部分のところは察せた。


 勘違いされている。

 たぶん小野崎は、自分が突然走り出した理由を、服の透けた女の子と一緒にいて恥をかかすわけにはいかないと考えたからだと思っている。


 たぶんそうだ。

 絶対そうだ。


 そうじゃなかったら諸々の物と一緒に置き去りにされた人間が目の前でこんなに嬉しそうにもじもじしていることの説明がつかない。いや、たとえそうだとしても小野崎の感性には若干疑問が残るが、それでもこれ以外の説明はもっと納得がいかない。つーか今時どんだけ純情なやつだと思われてんだよ俺はギャグ漫画に出てくる真面目委員長かよとか色々と言いたいこともあったが、


「いや、マジで用事あっただけ。置き去りにしてごめんな。あのあと普通に帰れたん?」


 言わない。

 卑怯にも、という言葉が脳裏をちらついたが、だからといって本当のことを伝えるわけにもいかない。


 いや気にすんなよ。別に小野崎の服が透けてんのに気ぃ遣って帰ったわけじゃねえんだよ。あのときお前には見えなかったかもしれないけど池の中から上半身マッパで下が魚の痴女が浮かんできて乳見せびらかしてきたからビビってダッシュで逃げただけなんだよあと俺余命一ヶ月ちょいしかなくて今朝はエロい夢見たんだよね


 病院まっしぐらだ。

 さっき行ってきたと付け加えたとしても、脱走を疑われる。


「……そっか。うん、大丈夫。雨、あのあと上がってちゃんと帰れたよ」


 何らかの含みを持った笑みを浮かべて小野崎はそう言った。いま小野崎の頭の中には「おなごに恥をかかすわけにはいかんでごわす!」と叫んで突然走り出した挙句、次の日には「一体何のことかわからんでおじゃ。おいどんはただ用事を思い出して帰っただけでござるよ」と涼しい顔で答える紳士の姿が浮かんでるんだろうな、と思う。上手くいきすぎて怖かった。いつか天罰が下りそうだ。


「あとわり、チャリどした?」

「あ、ごめんね。あそこに置いておくと盗られちゃうかなと思って、そのまま乗って帰っちゃった」

「マジか。いや逆に全然助かる」


 今は、と聞くと、小野崎はきまり悪そうな顔をして、


「あ、その。今日ここ来たらいるかなと思って、乗ってきちゃった。会えたらそのまま渡せばいいかなと思って……、勝手に使っちゃってごめんね」

「あ、マジか。全然助かる。もはやすべてが助かるわ」

「でもごめん、パーカーの方はまだ洗濯終わってなくて家……」

「あ、え、洗ってくれたん? いや全然気にしなくていーのに。逆にわりーな」

「や、や。私が洗ったわけじゃなくてお母さんが洗っただけだから」


 そう言われるとむしろ大変恐縮しちまうんだが、と思いつつ、小野崎がポケットから取り出した自転車の鍵を受け取る。なんだか微妙にぬくもっていることについてはぎゅっと強めに握って痛みに変えることで誤魔化した。


「小野崎、次いつ……、って毎日来てるんだっけ。図書館」

「うん、だいたい毎日いるよ。あ、たぶん明日には服乾いてると思うけど……」

「そか。じゃー……、」


 枦木は考える。今後の自分の予定を。

 特にない。というか何もない。なんでいま俺は考え込んだんだ、と自分でも不思議になる。


「明日また来っから、そんときについでに持ってきてもらっていいか?」

「あ、うん。ごめんね二度手間になっちゃって」

「や、マジで全然。むしろそっちに負担かけて申し訳ねえわ」


 ううん、全然、と小野崎は言う。この五分でどのくらいの数の「全然」が飛び交ったんだろう、と枦木は思ったが、思うだけで数え上げたりはしなかった。


 じゃ、と言い残して去ろうとして、ふと、


「そだ」

「ん?」

「あのさ、昨日行った池のとこ」

「うん」

「あそこって、なんか名前とかついてんの」


 我ながら変な質問だ、と思った。

 だけど気になったのだ。気になって、しかし「昨日あの池に変な女いたよな?」とは聞けない。だってたぶん小野崎は気づいていなかったから。さすがにばっちりはっきりあの女を目撃していて、自転車やらパーカーやらの話が最初に出てくるとは考えにくい。


 だから、こんな風に変な質問になった。

 聞きたいけど、核心にはまるで触れられないような、そんな変な質問になったのだ。



「人魚池、だけど」



 なったのに。

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