05 どっちでもいいなら

 エロい夢を見た。

 ので、一ヶ月ちょっとと言わず、今すぐ死にたくなった。

 そんなどこにでもある夏の日。


「理人くん、エロい幻覚って見たことある?」

「もう帰れお前」


 枦木は午前中から病院に来て、北川に絡んでいた。


 月曜日だった。

 どうせ今日は家に誰もいないし、だらだら昼くらいまで寝て現実逃避していようと思ったのに、昨日朝飯も食べずに外出したことを責められ、朝早くから叩き起こされて、家族一緒の朝食を取らされた。

 その場において、父の「調子が悪いとか言っといてなんでずぶ濡れで帰ってくるんだお前は」というもっともすぎる叱責が何度も繰り返されたが、枦木としてはどちらかと言うと「朝飯も家訓に入れるか……」という不穏な呟きの方が印象に残っている。


「いや真面目な話。あの薬って副作用でそういうの見えたりしねーの?」

「……見えたのか」

「見えなきゃ聞かねーって」


 ふうん、と北川は机の上の分厚い書籍をぺらぺらと捲り始める。


 家にいても悶々とするばかりだったのだ。

 いくらなんでも起こることが立て続けすぎる。何をどうしたら余命宣告された次の日にクラスメイトの透けた服と上裸の痴女を目にすることになるんだ。しかも、上裸の方は下半身が魚の。


 特に下半身が魚の方である。

 露出狂の変態コスプレイヤーのプレイに巻き込まれたというのが枦木にとってもっとも納得しやすい説明なのだが、そうなると昨日、小野崎がまったくの無反応だった説明がつかない。小野崎がそういうパーソナリティの持ち主だったと仮定すれば説明はつくが、仮定するだけで失礼すぎると感じたので、仮定しない。


 じゃああれはなんだったんだ。

 人魚、という言葉よりも幻覚、の方に説得力があるように感じたから、


「この薬に幻覚の副作用はないな」


 感じたのに。


「……マジで?」

「ああ。といっても、人によるところもあるからなんとも言えんが」


 北川は本を閉じて、


「他に可能性があるとしたらストレス性だな。お前、結構きてるだろう」


 ストレス性、という言葉を聞いたときはそれだ!と枦木は即座に頷きそうになったが、きてるだろう、とまで言われてしまうと首を傾げてしまった。


 きてるのだろうか。

 少なくとも実感はまだ追い付いていないと自分では思うけれど。

 余命一ヶ月で夕立の中を走り出す馬鹿だし。


「んん、」


 と、どうとでも取れるような曖昧な相槌だけを打つ。

 すると、北川は眼鏡を外して、片側の下唇を噛みながらする独特の溜息を吐いて、それから目頭を二、三度揉み、


「……どうだ、最近」

「は?」


 そんなことを言い出した。


「いや最近って、おとといも来たじゃん」

「そういうことじゃない」

「毎日来いってこと?」

「……無理していないか、ということだ」


 何を聞いてきてるんだ、と。

 呆れではなく、単に困惑として枦木は疑問に思った。無理ってなんだ。なんのことなんだ。それとも自分がまだ知らないだけで、これから無理しなくちゃいけないようなことがあるのか。


「言ったのか、親には」

「あ」


 それか。


 自分でも面白いくらいにぽかん、と口を開けてしまうと、北川は呆れたような目で枦木を見た。枦木は、ははは、と笑って誤魔化して、


「やー、すっかり忘れてたわ」

「何をどうしたらそんなに重要なことを忘れるんだ」


 誤魔化しきれなくて、


「俺から連絡しておく」

「いやいいって。俺から言うから」

「いつまでに」


 滅法舌鋒鋭くて、


「……死ぬまでとかに?」


 じっと、鋭い目で北川は枦木を見た。枦木は鋭い目で見られてるなあ、と思いながら診察室の右上の隅の方を見ていた。

 硬直があった。やたらに時計の秒針の立てる音が気になるような。


 やがて、北川が先に折れる。


「……無理強いはしない」


 今したじゃん、と枦木は思った。思っただけで、言わなかった。


「ただ、自分の口から伝えにくいというだけだったら、さっさと俺に言え。俺から伝える。それから明確に伝えてほしくないという場合もちゃんと言え。それならそれで、隠しておいてやる」

「え」


 出した言葉こそ短かったが、音量こそ大きかった。

 本当に驚いたから。


「それアリなん?」

「…………」


 ナシなんだ、と察する。だからとりあえずのところ、枦木の頭の中から、北川に口止めをお願いするという選択肢は消える。なんでナシな選択肢を出してきたんだ、という疑問は残る。


「それから、」


 疑問は解消されないまま、北川がまた口を開く。


「どちらでもいいという場合は、とりあえず伝えてやれ」

「…………」


 今度は枦木の方が黙ってしまう。が、それでもまた沈黙を破ったのは北川の方で、


「お前、この後予定はあるのか」

「この後? まあ、あるっちゃあるけど」

「何時から」

「え、別に。適当に午後くらい」

「嫌じゃなければ、飯でも食うか」


 枦木は時計を見る。まあ確かに、お昼時と言っても過言ではない時間帯だった。


「奢り?」

「当たり前だ」

「何でも?」

「五千円までならな」

「んじゃラーメン」


 北川は目を少しだけ見開いて、枦木を見る。


「安上がりなやつだな」

「外で食うなら普段食えないもん食った方がいいっしょ」


 その言葉の意味を咀嚼するように、北川はほんの数秒だけ目線を外して、それから「まあいい」とにこりともせず立ち上がった。そして「着替えて荷物を取ってくるから、向こうで少し待ってろ」と言い残し、奥の通路に消えていく。


 あーい、と言って、枦木は素直に待合室に戻る。相変わらず診察が終わったはずの老人で賑わう中、ひとり端の方に腰を下ろす。そして、北川が車の鍵を手に戻ってくるのを待った。


 色々と悩みながら。


 たとえば、考えないようにしていた余命宣告についての親への連絡について、どうしたもんかな、とか。


 たとえば、そもそも余命一ヶ月ちょいって言われながらにしてこの切迫感のなさと時間の無駄にしすぎ具合はどうしたもんかな、とか。


 たとえば、結局昨日見た下半身魚の痴女については自分のストレスか何かが見た不思議な幻覚ってことでいいもんかな、とか。


 たとえば、いやストレスにしろ自分が自分で考えた幻覚があれっていうのはだいぶ低俗で嫌気が差しちまうな、とか。


 たとえば、冷蔵庫に入れておくと言われたあっちの昼飯については、どうやって処理したもんかな、とか。


 そういうことについて、悩みながら。

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