04 ラッキースケベは突然に

 枦木が小野崎というクラスメイトについて知っていることは少ない。

 ぶっちゃけた話、まったく知らない。

 しかし今日、新たにふたつのことを知った。


 ひとつ、二人乗りはしない(運動神経の問題でできない)ということ。

 ふたつ、あと一ヶ月ちょっとで死ぬ人間よりも歩くのが遅いということ。


 ゆえにこうして、ろくろく車も通らないくせに道幅だけはやたらにだだっ広いまっすぐな田舎道を、ふたりでちんたら歩き続けている。押し続ける自転車の前籠に、破れた布切れと、やけに重たい本を突っ込みながら。よく知らないクラスメイト同士で。


「ごめんね」


 と、小野崎が言った。

 これで四回目のことで、枦木は四回目の「いいって」を唱えた。そして申し訳なさそうにはにかむ顔を横目に見て、ひょっとして自分のちょっとした親切は世間一般に言われる大きなお世話というやつだったんじゃないか、と不安になる。


 でも、と枦木は思う。思うのだ。

 目の前で大荷物抱えた女子がいて、手伝うよの一言も出せなくていいのだろうか、と。いや別にこれが女子じゃなくたっていい。男だろうが女だろうが、クラスメイトが困ってる場面を目の前にして、「大変そうだな。そいじゃおさらば~」とすたこらその場を後にすることが正しいのか。


 そんなことはないだろう、と枦木は思う。

 だからこれは失敗ではないのだ。仮に失敗だとしても、するべきだった失敗なのだ。


 でもできれば失敗にしたくないな、とも思った。

 だからこっちから話題を振ることにした。


「小野崎ってさ、」

「は、はい」


 はい、って。

 同級生にかける言葉だろうか。枦木は自分の口調に威圧的な調子があったかを確認する。たぶんない、と思う。思ったけれど、一応もう少し声を柔らかく意識して、


「図書館、結構来んの?」

「あ、うん。夏休みは、一応毎日……」

「毎日? すげえな、本好きなの?」

「う、うん……。かなり……」


 かなり、っていうかすげえ、だよな、と枦木は思う。毎日図書館に通うのは尋常ではないと思う。野球大好き野球少年だってグラウンドには部活で週六くらいでしか通ってないだろうし、サッカー大好きサッカー少年も似たようなもんだと思う。文学大好き文学少女はすげえな、と思う。


 毎日図書館にいるんだったら、また顔を合わせることもあるかもしれない。自分だって毎日行き場がないのだ。枦木はもう少し踏み込んでみようと質問を重ねる。


「なんか俺も読んでみよっかな。おすすめとかあったりする?」

「…………」

「……小野崎さん?」

「あっ、ごめん! 考えこんじゃって。えっとね、」


 小野崎は枦木の押す自転車の前籠を指さし、


「その、いちばん上のやつとか面白いと思うよ。人気もあるし」

「この表紙がきれーなやつ?」


 小野崎が頷く。枦木はちょっと前屈みになってその本のタイトルを読んでみる。なんだかやたらに長いタイトルだった。


「どんな話?」

「どんな……。えっと、主人公はどこにでもいる普通の中学生なんだけど、」

「うん」

「ある日クラスメイトが病気でもうすぐ死ぬって知っちゃうんだ」

「…………」

「枦木くん?」

「あ、わり」


 一瞬思考が止まって、足も止まってしまった。枦木は少し走って、もう一度小野崎の隣に並ぶ。


 なんだその狙いすましてきたようなストーリーは。枦木は内心で怯える。

 まさか自分の余命について小野崎が知っていて、それで知らないふりをしながらじわじわ追い詰めてきているというようなことはないと思うが(何のためにそんなことするんだ)、それでもびっくりした。


「それさ、最後どうなんの」

「えっ、言っちゃっていいの?」


 うん、と頷こうとして、その前に。


「あ、」

「やべ」


 ぽた、と。

 一滴、手の甲に滴が落ちてきた。空から。


 反射的に上を向いた。のんびり歩いていた間に、ただでさえ曇っていた空はこの世の終わりみたいに真っ黒になっている。こういう天気のことを枦木は、そして小野崎もよく知っていた。


 夕立と呼ばれているらしい。


 中学生二人が駆け出した。



*



「どうそれ、セーフ?」

「うん、大丈夫。バッグが濡れただけみたい」


 咄嗟に引き裂かれたかつて布バッグだった布切れを被せたのが幸いしたらしい。

 見分していた小野崎の言葉に、枦木もほっと胸を撫で下ろした。


 幸いと言えば、もうひとつある。小野崎がすぐ近場に雨宿りできる場所があることを知っていたことだ。おかげで本格的に雨が降り出す前にふたりは避難できたのだが、


「しばらく止まねえよなあ、これ」

「うん」


 枦木はポケットから携帯を取り出す。時刻は十七時二十三分。まだ夕食の時間までは時間がある。

 降り止むのを待ってから動いた方がよさそうだ、と。

 ずどどどど、と滝のように地面を抉る豪雨を屋根の下から眺めつつ、そう判断する。


「にしても、よくここ知ってたな。助かったわ」

「あ、うん。たまに来るから」


 二人が逃げ込んだのは、小さな四阿だった。全体が木でできた小さなそれは、なんとなく夏の雨の香りに湿気た感触がした。周りに囲いもなく、ただ直角に並んだ椅子に屋根をつけてみました、という程度のつくりだったために風すらも凌げなかったが、それでも今は雨を凌げるだけでありがたかった。


 何しに?と枦木は聞こうとして、やめた。大体想像がついたからだ。

 四阿のすぐ近くに、池があった。かなり大きい。対岸に知り合いが立っていたとしても、その顔を判別することは難しいだろう、という程度。ぼたぼたと大量に水分補給されて真っ黒になっている今はそれほど綺麗なものには見えないが、おそらく本を読むのにちょうどいいお気に入りの場所なんだとか、そんなところなんだろう。小野崎の案内で細い林道を走らされたときは一体どこに連れ込まれるんだと不安になったものだが、この池のあたりは、林の中でも開けた場所にあるし、晴れた日は涼しくて落ち着く場所なのかもしれない。


 枦木は池に背を向けるようにして椅子に腰を下ろす。少しだけ尻のあたりに気持ちの悪い冷たさがある。それは木椅子の持つそれだけではなく、ズボンが濡れたために生まれたそれでもあった。さすがに雨に濡れる前に逃げ込むことはできなかった。


「結構濡れたな」


 と言って、「そっちは?」と小野崎に聞こうとして、目線を動かして、


「ヴェ、」


 と、声帯がこれまで出したことのない声を出した。不思議そうに小野崎が枦木を見た。その視線から逃れるようにして、枦木はくるりと後ろを向いて、池をじっと見つめた。


 透けていた。

 何がとは言わないが。たった一瞬だけ、だけど枦木の目には焼きついていた。枦木は池の水面を見て心を落ち着かせようとした。池は荒れ果てていた。ずどどどど、と雨に波立っていた。枦木自身のように。これじゃあダメだ。もっと落ち着いた水面じゃないとダメだ。考えろ。いっそ想像しろ。たとえば晴れた日。林に囲まれたこの場所で、鳥が鳴いて、朝日がきらきらと差し込んで、たぬきときつねが仲良く遊んでいて、空は抜けるほど青くて、水面は穏やかに空の色を移しながら水色に輝いていて、


 水色の。

 白いTシャツが濡れて張り付いて、水色が。


「枦木くん?」


 無言で枦木はサマーパーカーを脱いだ。インナー一枚になって、池を見つめながら、そのパーカーを後ろに差し出す。そして、小野崎、と。


「何とは言わねえけど」

「…………?」

「隠した方がいい気がする」


 しばらく、なんの返答もなかった。

 しかし、あっ、と大きな声が聞こえたあと、しゅばっ、と枦木の手にあった布が取り去られた。


 しばらくの沈黙の後、


「…………変なものをお見せして……」

「いや、あの、俺に目があったのが悪い。マジでごめん。あとで頭とか打って忘れとく」

「えっ、い、いいよ! そこまでしなくて!」

「マジでごめん。ほんとに」


 少し水っぽい音が背後で聞こえた。枦木は想像力の翼が羽ばたこうとするのを懸命に抑え込んだ。そして「いいよ」と小野崎は言ったが、そのまま振り向かなかった。


 このままだと自分はダメになると思った。

 何かしら気を紛らわせたくて、口を開く。


「あのさ、さっきのだけど」

「え、あ、ほ、掘り下げるんですか?」

「いやごめんそっちじゃなくて本の方の話」


 あ、そっち、と。あからさまにほっとした声。


「あれって結局どうなんの? その、病気のやつ」

「うーんと、じゃあ、ネタバレにならない範囲で……」


 いやネタバレしてくれてもいい、っていうかむしろしてほしいんだけど、と枦木は言おうとした。けれど言えなかった。


 目の前の池から、乳丸出しの女が現れたからである。


「ジャンルとしては恋愛小説なんだけど……、まあやっぱり秘密を共有した二人が惹かれあっていくんだよね」


 今までどこに隠れていたんだ、とかそういうことを枦木は思うべきだった。後ろを向いてからずっと池を注視していたのだ。それはもう数分にわたることだ。なのに人が水面から顔を出したのは初めてのことだったのだから、まずはそこを不思議に思うべきだった。


 が、思えなかった。

 混乱と興奮しか頭になく、もはやその瞳には乳しか映っていなかったのである。


「ただこの手のストーリーって普通対照的な性格をした二人の話になるんだけど、この小説はそこがちょっとだけ変わってて、似た者同士なんだよね、二人とも」


 枦木は目頭を押さえた。ぎゅっと。それから目を開いた。

 どう見ても乳丸出しの女がそこにいた。池に腰まで浸かっていて、上半身を雨風に晒していた。


 意味がわからなかった。


「二人とも普通の高校生で、生きる理由も死ぬ理由もそんなにはっきりしたものは持ってなくて……。たった一つ、もうすぐ死ぬか、死なないか、それだけが違うんだ」


 枦木は泣きたくなった。

 理由は自分でもよくわからなかった。あと一ヶ月ちょっとで死ぬと言われたときだって泣かなかったというのに、今はとにかく感情がめちゃくちゃで泣きたかった。


 俺が何をしたって言うんだ。

 十四歳で、余命を宣告されて、クラスメイトに親切したら夕立に捕まって、挙句の果てに土砂降りの池の中から突如出現する乳丸出しの女。


 俺が何をしたって言うんだ。


「普通似たようなキャラクターだけでお話を回すのって難しいんだけど……、この話はそれが本当に上手くいってて、私もうこれ三回くらい読んじゃってるんだよね」


 えへへ、と恥ずかしそうに小野崎が笑う声が聞こえた。

 恥ずかしいのは俺だ、と枦木は思った。俺は恥ずかしい野郎だ。


「そっか……。なんか、俺も読みたくなってきたな」

「ほんと? そう言ってもらえると……、枦木くん?」

「……ん?」

「泣いてる?」

「いや、まだ泣いてない」

「これから泣くの……?」


 感動屋さん……?と小野崎が困惑した声で呟く。

 枦木は、その池の中に佇む女が、どうも自分たちとそう年齢は変わらないほど若そうだということをうっかり確認してしまい、とうとう限界を迎える。


 言おうと思った。


「小野崎さ、ちょっと話変わって申し訳ないんだけど、」

「うん、何? なんでも聞くよ?」


 あからさまに気を遣われている声色だった。今はそれが嬉しかった。


「あのさ、目の前に、」


 痴女が、と声にしようとした瞬間。

 その女が池の中で、ぴょんと跳ねた。


 まるで飛び魚のように。


 というか、実際に、下半身が魚だった。


「目の前に?」


 頭がおかしくなったのかと思った。

 でも、どう見ても魚だった。

 あの女の一瞬宙に翻って見えた下半身は、どう見ても魚のそれだった。


 いや嘘だろ、と思う。

 が、本当だぞ、とでも言いたげに、二度、三度とその女は宙を飛ぶ。魚の下半身で。乳丸出しで。


「枦木くん?」

「……目の前に、さ」


 しばらく女が水面から顔を出さなくなる。おかげで枦木は一瞬だけ冷静になる。


 どうして小野崎は無反応なんだ?


 声の向きからして、自分の方を向いているだろうことは背中越しでもわかる。ということは、あの池が視界に入っているはずなのだ。なのにどうしてこんなに落ち着いているのだろう。というかどうして自分だけがこんなに動揺しているのだろう。自分が知らないだけでここは有名な変態コスプレ野外露天風呂か何かなのか? 小野崎からしてみればそりゃ風呂なんだから仮装した上裸の女くらいいるだろばーかくらいの調子なのか?


「池がさ、あるじゃん」

「……? うん、あるね」

「あれってさ、」


 泳げんのかな、と。


 聞いた、その瞬間に。

 目が、合った。


 ばっちりと。これ以上ないくらい。視線と視線が銅線みたいに二人の水晶体を繋いで、ばちっと電気が走ったみたいに。言い逃れのしようもなく。


 目が合った。

 向こうもぎょっとしたように見えた。見えたが、それもほんの一瞬のことで。

 女はゆっくりと手を、


「ええっ? どうだろ、ここで泳いでる人なんて見たことないからな」


 乳にやって、寄せて、上げて。


 うっふん、と。

 そんな声が聞こえる仕草で、片目を閉じた。


「小野崎」

「うん」

「わりいけど俺、用事あったの思い出したから先帰るわ」

「え?」


 すっくと枦木は立ち上がる。鼻の奥につん、と溺れたときのような痛みがあった。


 枦木は「え? え?」と困惑する小野崎の声に惑わされないように、がつん、と四阿の柱に頭を打ちつけてから、


「うぉおおおおお!!!」


 と威勢よく走り出した。


 土砂降りの雨の中を。

 パーカーを預けたまま。

 自転車をそのままにして。

 寿命一ヶ月ちょっとの少年が、考えなしに。


 たまに漫画みたいに鼻血が出てやしないかなんて不安になって、何度も鼻の下を拳でこすりながら。

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