03 破って被れてれっつらごー

 気まずい家にいつまでもいる必要はない。


 そういうわけで、枦木は朝も七時そこそこから、夏休みの、しかも日曜日だというのに、すっかり着替えた姿になって玄関先で運動靴を履いていた。おそらくこんなにしっかりした夏休みを送るのは初めてのことだ、と枦木は思う。ついでに言うならこれが最後のことだ、とも思う。


 目を閉じて、目を開けて、七時間くらいが経っていて、それでも相変わらず腕のところに小さな赤い注射痕が残っているし、服の下の肌は変色している。

 つまりは、昨日の悪い冗談みたいな診察体験は、夢ではなかったということだ。

 あまり調子も悪く感じないし、未だに実感は湧いてないけれど。


 外に出て、それからの行先は特に決めていない。

 枦木の住む町は寂れ切ってもいないが、そこら中に遊び場があるような都会でもない。駅周りはそれなりに賑わってはいるものの、時間を潰し放題というほどには発展していないし、駅外れの方向に至っては家と道路と北川の勤める病院以外に何があるのかいまいちよくわからない。


 とりあえず歩き始めてから決めるか、と立ち上がって、爪先で三和土を二、三度ノックして、


「司くん?」


 人が出てきてしまった。


「あ、おざます」

「お出かけ? 朝ごはんは、」

「だいじょぶス。なんかあるもの適当に食ったんで」


 突然ぼやぼやした表情の母が廊下に現れて、まあ当然枦木は死ぬほどビビったのだが、何食わぬ顔でその動揺を押し隠し、平然と嘘を吐いた。実際のところは、昨日北川から出された薬以外は何も食べていない。ここ四ヶ月くらいは朝食の摂取を強制されているが、長年にわたり築き上げられたもともとのライフスタイルは一日二食だったので、特に空腹を感じることもなかった。


「そう? じゃあお昼は、」

「あ、そっちも大丈夫す。今日一日外出てるんで」

「あ、ほんと? ちょっと待っててくれればお弁当作るけど」

「え、いやいいすよ。なんか外で食うんで」

「じゃ、お小遣い、」

「いや大丈夫っすマジで。せっかく休みなんだし、ゆっくり寝ててください」


 待ち合わせ遅れるんで、すんません、と。

 特に誰とも待ち合わせていない枦木は、急いで家を出ていった。




 うん、と背伸びをひとつすると、微かな音量でメロディが流れ始めた。

 閉館の合図である。図書館の。十七時の十分前。

 それをきっかけに、枦木は机の上に置いた、擦り切れた漫画本を片手に、近くの棚に向かって立ち上がった。


 図書館を選んだのは、単にそこしかなかったからだった。

 一日中服屋やらゲーム屋やら本屋やらにいるわけにはいかない。かといって喫茶店やファストフード店、カラオケ屋で粘れるほど財布が豊かなわけではない。一時期に比べ、枦木が自分の裁量で動かせる金額は格段に減った。


 エアコンが効いていて、座るところがあって、無料で、長時間滞在していても不自然にならないところ。


 図書館しかなかったのである。色々と彷徨っているうちに、それがわかった。たとえその図書館が駅と異なる方向の、家と道路と病院と、あとは何があるのかよくわからない地域に位置していたとしても。

 漫画を棚に戻しながら、水・土・日曜日はずっとここに来ることになるんだろうか、と枦木は思う。土日は父母ともに家にいて、水曜日は母だけが家にいる。父が職場を通じて知り合ったという年下の母親は、週休三日の勤務形態の仕事をしているらしい。どんなことをしているかまではよく知らないが。

 他に時間を潰せる場所の心当たりもない。だから、そのとおりになるしかないとも察してはいる。


 しかし、それでいいのかと問いかける自分もいることは間違いなかった。

 そいつはこんなことを言う。お前、まさかこの期に及んでやりたいことのひとつもないのか? 余命宣告されてんだぞ? 蝉並みの。あと一ヶ月ちょっとで死ぬって言われて延命治療拒否してやることが図書館で漫画読んで暇潰しか? 悔しくないのか? ていうかお前こういうときに頼れる友達のひとりもいないのか? それで人生寂しくないのか?


 でっけえお世話だよ。


 ひとまずその鬱陶しい自分をどっかよそに追っ払う。それから駐輪所に向かう。玄関口をくぐった瞬間、むわっとした空気を浴びる羽目になったけれど、空には色濃い雲がかかって日差しを遮ってくれているから、それほど強烈な暑気は感じない。むしろクーラーに冷やされた身体は、室内用にと持ってきていたサマーパーカーをまだ必要としているくらいだった。


 友達がいないわけではない、と枦木は自分で自分に言い訳する。

 ただ、こういうときに頼れるようなタイプの友達を作ってこなかっただけだ、と続ける。言い訳になっているのか怪しくなった。


 だけど、と枦木は思う。

 言われたって困るだろう、と。自分でさえ現実感が湧いていないのだ。そんな状態でもうすぐ死ぬ、なんて友達に話したって、ぽかんとされて終わりがいいところに違いない。自分がその友達の立場だったとして、突然「一ヶ月後に死ぬんだ」なんて言われたらまず信じないだろうし、たぶん変な苦笑いを浮かべて終わる。


 だから、仕方のないことなのだ。

 そして、別に図書館にひとりで来ることはそんなに変なことではないのだ。

 だってほら、実際に、いま自分の目の前で重たそうな布バッグを両手に持ってあっちにふらふらこっちにふらふらしていて、どうやっても上手いこと追い抜かせずにいる女子だって、たったひとりなのだし、


「あっ」

「あ」


 びりり、と。

 目の前で破けた。

 重たそうな布バッグが。そして、


「ああっ」

「あっ」


 どしゃしゃ、と。

 目の前で雪崩れた。

 重たそうな布バッグの中身が。本が。勢いよく。地面を滑るようにして。そして、


「あぁー……」


 切ない声が聞こえた。パンケーキを台無しにした子犬のような。

 散らばった本を這いつくばって集めるその女子の姿があまりにも悲しかったので、枦木はその横を早足ですり抜ける。


 それから、遠くまで滑っていってしまった本を中心に、何冊かを拾ってやった。

 振り向いて、そうしたらばっちり目が合った。


 うお、と声が出そうになったのを枦木はなんとか抑えた。

 驚いたのだ。想像したよりずっとまっすぐにこちらを見ていたから。ぱっちりとした猫目が印象的だったから。天然パーマっぽい髪の毛からはふんわりとした印象を受けるけれど、少し太めの眉も合わされば、視線で射止められたようにも感じたから。


「……小野崎おのさき?」


 が、気付いてしまえばそれも終わった。

 どうしてその女子が自分のことをじっと見つめていたのか。


 クラスメイトだったからだ。


「ご、ごめんね。ありがと」

「いいけど」


 一瞬誰だかわかんなかった、と言うべきか、迷った。


 小野崎都子みやこに対してこれまで枦木が抱いていた印象はこうだ。

 窮屈そうに短く一つ結びにした髪。妙にぼんやりした印象の眼鏡。

 今日はどっちもなかった。


 言おうかな、と枦木は思った。そして、言われた方はどんな気持ちになるだろう、と考えた。あまり正確に想像できなかったので、言わないことにした。


 代わりに、はい、とだけ言って本を渡そうとする。

 渡そうとした。


「……これ、どこ置きゃいい?」

「こ、このへんとか……」


 小野崎は、びりびりに破けた布バッグと大量の本を抱えて、あからさまにキャパオーバーした自分の両腕に目線を落とした。


 とりあえず、一冊置いてみる。


「うっ、」


 とりあえず、もう一冊置いてみる。


「ううっ、」


 とりあえずさらにもう一冊を置いてみる、

 ことにする前に、枦木は小野崎の腕からひょいひょいと何冊かの本を奪い去り、


「あのさ、」


 そして言った。


「チャリで来てんだけど、乗っけてく?」

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