02 家ん中では言えねーし
「というわけで……、じゃーん! 今日は調子の悪い司くんのために、おじやにしてみました!」
「おおっ、美味そう! ほら司、見ろ。お前の好きな卵、すごい入ってるぞ」
「栄養つけなきゃと思ってね」
「はは……、嬉しいス」
言えねー。
顔面にべったり張り付けた笑顔が引きつらないように、とりあえず枦木は心の中でだけ、盛大に溜息を吐いておいた。
枦木家において最近追加された家訓に、「夕食は全員揃って十九時頃」というものがある。別にリビングに掛け軸にして飾られているわけではないが、父の大介が今年の四月一日、まさに夕食を囲むテーブルで、いかにも厳かな表情で「これをこれからうちの家訓にしよう」と告げたので、間違いない。
枦木としてはなんともしゃらくせえことこの上ない決まりだと思っていて、適当に折を見て破りまくって死法にしてやろうと思っているのだが、自分を差し置いて家訓破りの第一人者となった父が、どのようにして自分が残業を押し付けられ、どのような理由からそれを断ることができなかったのか、床に就くまでの約三時間にわたりうじうじ謝罪を続ける光景を目にしてしまったために、未だに折を見れずにいる。
夏休み、土曜日。
今日も今日とて家訓は守られていた。
休日恒例の「家族みんなで出かけないとな!」攻撃は、今朝がた体調不良を理由に上手く躱した。そして見送りに玄関まで出て、「夜もなんかふたりで食べてきなよ」と伝えた。「俺は病院の帰りにでもなんか買って適当に食うよ」とも言った。
言ったが、無意味だった。
無意味だったぞ、と自分の目の前でもくもく湯気を立てているおじやの丼が語り掛けてきているような気すらした。
「よし、それじゃあみんな揃って……いただきます!」
「いただきます」
「いたーきまーす」
三人揃って手を合わせる。初めの頃は儀式かよと思っていたこれにも、もう慣れつつあった。
もう四ヶ月になるのだ。
スプーンを手に取って、枦木はもぞもぞとふやけた米やらなにやらを口に運ぶ。
「美味しい?」
と聞かれれば、
「うす、美味いす」
と答える。そしてこんな風に付け加える。
「裕子さん、やっぱ料理上手いすね」
「そうかな」
「父さんが当番の日より断然いいっす」
「おい」
父が機嫌を損ねたような声色で言う。が、丼の中身の減りがいちばん早い男の顔はにやついていて、枦木が「わりわり」とおざなりに謝れば、「まったく」なんて言いながらかえって嬉しそうにしてまたスプーンを運ぶ。
枦木も食べる。
実際にこの母親、裕子のことは料理の上手い人だと、心から思っていた。自分の嫌いな食べ物を献立に出してきたことは今のところないし、自分が一度好きだと言ったもののことは今のところずっと覚えていて、形を変えては食卓に上げてくる。家のキッチンに見慣れない調味料が並ぶようになったのは間違いなくこの人の影響だ。おかげで父の作るアレンジ料理の失敗が洒落にならないスケールになってきたことがこの人の責任かについては諸説ある。
あとは、男子中学生の食欲を過大評価しているところだけはちょっと直してくれれば、と思うのだけど。思うのだけど、せっかく作ってくれたものを残すのが申し訳なくて毎回なんとか平らげてしまっているため、言うタイミングが見当たらない。
だけどいつかは言わなくちゃならないんだろうな、といつものように枦木は思って。
それが、いつかは言わなくちゃならなかったこと、に変わったことをちゃんと思い出せた。
「そういえば司、どうだったんだ、病院」
「あー……」
言えねー、と。
父からの質問に困りつつ、困れば困るほど怪しくなることはわかっていたので、
「夏バテっつわれた」
「あら、大変だ」
「や、そんなでもないっす。軽いやつで……、ちょろっと点滴してもらって終わったんで」
ほら、と枦木は腕のあたりを持ち上げて、注射の跡を見せる。ごく当たり前のように嘘をついた。そしてそれが見透かされたような雰囲気は、まるでなかった。そっか、と母は頷いて、
「それじゃ、もっと食べて栄養つけなきゃね。おかわりする?」
え、と声が出そうになったのを抑えて、
「や、へーきっす」
「ちゃんと食わなきゃダメだぞ。お前ただでさえ痩せてんだから」
「いや食ってるって」
「まだおかわりあるよ?」
「いやほんと、大丈夫っす」
二回も断ったけれど、母がそれでも腰を浮かそうとするので、枦木は「食い終わって足らなかったら自分で盛るんで」と言ってなんとか落ち着かせる。実際のところ、この丼を平らげられるかどうかも怪しい、と自分では思っていたが、わざわざそれを口にする気力も起こらなかった。
「なんにしろ早く治さないといかんよなあ。せっかく夏休みなんだから」
「そうですね、確かにもったいなくて」
「ああ、まあ。そーね」
「大人になったらこんなに長期間休めることないからな。今のうちにちゃんと遊んでおかないと。休んでる場合じゃないぞ」
めちゃくちゃなことを言うオヤジだ。
「いや、忘れてるかもしんないけど今年受験だかんね、俺」
「あ、そっか。大変だねえ、司くん」
「いやいや、いいよそんなのは二の次で」
「…………」
一瞬、枦木は呆れて声も出せなかった。
「別に今の段階だってそんなに成績悪いわけじゃないしな。若いうちから根詰めることないって」
父はほとんど空になりつつある丼を口に運びながら、持論をぶつ。
隣に座る母すら、微妙な苦笑いになっている。
「でも、まあ。司くんってしっかりしてそうだし……。色々考えてるんだよね?」
「あ、まあ」
と、とりあえず肯定したはいいものの、具体的に何を考えているかなんてことはさっぱり思い浮かばなかったので、
「単純に宿題めっちゃ出てんすよね」
去年の二倍くらい、とまた嘘をついた。
すると、なんだそんなもん、と父が言い出したので、なんらかの失敗を犯してしまったことに気が付いた。
「さっさと終わらせて遊べ遊べ。いや、最悪終わらせなくてもいい。宿題やってなくて夏休み明けに怒られるってのも経験のうちだぞ」
「俺父さんと違って真面目だから」
「ばっか、お前……」
「いいことじゃないですか」
なおも枦木を悪の道に引きずり込もうとする父を、母が宥める。それで一度は鎮まったように見えたが、結局、
「ま、何にしろそんなに根は詰めるな。せっかくの休みなんだから、どっかでみんなで旅行にでも行こう」
と。
結局こうだ、と枦木は思った。まあこういう流れにしたかったんだろうな、と途中から勘付いてはいたけれど、やっぱり結局こうなった。
「宿題終わったらね」
だから、それにあらかじめ用意できていた、灰色のイエスを返す。
本当は、思いっきりノーと言ってやりたい、と思っていた。けれど、形だけのイエスを。
父はどこか満足していない様子だったが、それを母が上手く宥める。枦木はなかなか減らない器と口の間でスプーンを往復させる。
この光景も見慣れたものになり始めている。
もう四ヶ月になるのだ。
枦木が中学三年生になってから。
ここ二年くらいの間何度か顔を合わせていた女の人が、母親というネームプレートをつけて家に住むようになってから。
父が家族は仲良く、なんて見え見えの意図をもって家訓を設定してから。
もう四ヶ月で。
まだ四ヶ月なのだ。
飯の量多くね、だとか。
家族旅行って気まずくね、だとか。
実は俺、あと一ヶ月で死にます、だとか。
とてもじゃないが、言えねーのである。
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