01 あと一ヶ月ちょっとくらいの蝉

「余命三ヶ月だな」

「は?」


 夏。

 その後に中学生だったら、休み、と続けていい季節。


 まさにその中学生である枦木はぜきつかさは、老人ばかりが集まる町の小さな医院で、自分の叔父である二十九歳の医者から自分の人生の残り時間を告げられた。


 真っ盛りだった。夏の。

 診察室の壁にかかった色気のない壁掛け時計は十一時近くを指していて、朝方から鳴き喚いていた蝉たちはピークに向けてどんどん音量を増している。

 枦木がついさっきまでいた湿布臭い待合室からは、「あらどうも」「今日は佐藤さん来てないの」「どっか悪いのかねえ」なんて能天気な会話が聞こえてくる。

 二十九歳の医者はいかにも神経質ですよ、と言いたげに整えられた爪の先で規則的に机を叩いて、いかにも神経質ですよ、と言いたげな銀縁の眼鏡の奥で、いかにも神経質ですよ、と言いたげに眉を顰めつつ、デスクの上に掲げたレントゲン写真を睨みつけている。


 そして余命宣告された当人はと言えば。


「…………は?」


 絶句していた。

 口も開いていたし、目もかっ開いていた。なんなら驚きすぎて最近詰まり気味だった鼻も開通して、すうっと生温い空気が抜けていった。


「お前、最近腹が痛かったりしなかったか。というか今、痛くないのか」


 何かがおかしいと思っていたのだ。

 診察にかこつけていつものとおり叔父のところにダル絡みしに来ただけのつもりだったのに、いつも不機嫌そうに見える顔がより一層険しくなったあたりから。

 有無を言わさず採血されたあたりから。

 問答無用でレントゲンを撮られたあたりから。


 おかしいと思っていたのだ。


「このあたりの、」


 医者はボールペンの頭でぐるり、とものすごく破滅的な広範囲を丸くなぞって、


「神経がごっそり死んでる。かなりレアな症状だな。もうどうやっても助からん」


 ものすごく破滅的なことを言った。


「……は、」


 枦木の言う、は、はほとんど呼吸音のように聞こえた。というか、実際に呼吸音だった。ぽかん、と開いた口は医者が説明している間、餌を貪る金魚のように虚空をぱくぱく鳴らしていて、その際に出た呼気であるとか、呆然とした気持ちであるとか、そういうものがたまたま音になっただけだった。


 だから結局、まともに言葉を返せたのは、余命を宣告されてから、たっぷり三分くらいあとのこと。空中で平泳ぎするように、普段は一切やらないような身振り手振りを交えて、枦木は言った。


「俺は蝉か?」

「蝉には十七年生きる種もいる」


 医者の言葉をうん、と飲みこんで、


「俺は蝉以下か?」

「有体に言えば、そうなる」

「ならねーだろ!」


 がん、と丸椅子を蹴っ飛ばすようにして、枦木は立ち上がった。その叫ぶ声と、弾き飛ばされていった丸椅子と机がぶつかったときに生じた金属質な衝突音。ふたつが響き渡れば、しん、と寂れた医院は静まり返って、待合室の老人たちが耳を澄まし始めた気配までありありと伝わってきてしまう。


 そういうことを敏感に察知した枦木は、そのまま続きをがなり立てることはせずに、中腰になって、自分で蹴っ飛ばした椅子をからからと元の位置まで引っ張ってきて、座り直した。

 それから、やや声のトーンを落として、


「……理人くん、それマジで言ってんの?」


 二十九歳の医者、北川きたがわ理人りひとは、それに迷いも何もなく頷いて、


「お前こそなんだこの冗談みたいな容態は」


 と返した。

 流石は普段から受診客に向かって「もう棺桶に片足どころか両耳突っ込んでるな。あとは火にかけるだけだ。弱火にしてほしかったら酒をやめろ」なんて無茶苦茶なことを言っているだけはある、と枦木は思う。どうしてこの医院が未だに更地になっていないのかわからない。


「三ヶ月、というのもだいぶ希望的な予測だな」


 畳みかけるように、北川は続ける。


「専門医がいる大きな病院に移って延命治療をしっかり受ければ、という前提だ」

「……はあ、そっすか」

「で、どうする」


 で、どうする。の意味がわからず、枦木はしばらく固まった。


「あ、俺?」

「お前以外に誰がいる」

「いやだって、俺に振ることじゃなくね? どうするってどうしろっつーんだよ。なんかあるだろ、医者サイドから。あの、セカンドインパクトみたいなやつ」


 なんかちげえな、と自分で思いつつ、


「てか普通、こういうのって家族から攻めねえ? なんで直で俺?」


 ドッキリ? と、ちょっとだけ期待を込めて言ってみたりする。


「俺は嘘を言わない」


 そしてバッサリ切られてみたりする。

 絶対そんなわけねえだろ、と心の中で枦木は呟いたが、まあこの場に限っては本当なのかもしれない、とTシャツの襟から自分の身体を覗きこんでみて思い直す。上背が伸びたのに合わせて買った成人用のVネックは、身体の厚みに合っていなくて、薄い胸板の向こう側に少しだけ褐色がかった腹部が見える。いつこんなところを日焼けしたんだったか、と前々から不思議に思っていたが、変色だと言われればなるほど、確かにそんな色味に見えた。


「俺がお前くらいの頃には、」


 ジジイみたいな話の滑り出しだな、と枦木は思った。


「周りのやつらは全員自分より馬鹿だと気付いていた」


 こじらせきった中学生みたいな後編が来たな、と枦木は思った。気付いていた、であって、思っていた、ではないのがものすごく不穏な気配を漂わせている。学校でもこういう調子に乗ったやつはちらほら見かけるが、もしかするとあいつらはそのまま大人になってしまうのかもしれない。そんなことは知りたくなかった。


「だからお前も、自分のことは自分で決めていいと、そう判断した」

「なこと言われてもなあ」

「聞きたいことがあったらなんでも聞け。どうせお前で午前中は終わりからな」

「あれ、」

「他は全員診察済みだ」


 あ、そーなん。と枦木は相槌を打つ。ならなんでいつまでもああして喋ってるんだ。ここは公民館か何かなのか。


「うーーーーん」


 唸りながら、枦木は首の裏を押さえる。聞きたいことがあるならなんでも聞け、と言われても。それは本当に言葉通りのなんでも、なのだろうかと逡巡する。逡巡していると、北川が勝手に喋り出す。


「専門の病院に入って延命治療しながらだと三ヶ月。うちに通院するだけだったら、精々一月半くらいだな」

「え、その選択肢ありなん?」

「好きにしろ。こっちを取るなら痛み止め……はどうせもう痛覚がないから要らないにしても、症状を抑える薬と、臭い消しくらいか。そのくらいなら出せる」


 症状を抑える薬はともかくとして、


「臭い消し?」

「そのうち腐るぞ」


 自分の腹のあたりを指さされて、うへえ、と枦木は辟易する。


「ゾンビじゃん」


 北川はそれには応えず、


「見立てだと一月半のうち一月は動けるだろうが、残りの半月はもうダメだな。ほとんど動けない時間だと思った方がいい」

「あ? あれ、動けんの?」

「今動いてるだろう」

「いや、そーじゃなくて」

「見立てではな。激しい運動はさすがに問題があるが、それ以外ならまず不自由はない」

「んじゃでかい病院行った場合は?」

「専門治療でどのくらいの負荷がかかるかにもよるが、ベッドからは起き上がれないだろうな」

「……なんか、逆に悪くなってね?」

「薬の副作用が強い。ただ、残り時間は三倍に増えるぞ」

「うーーーーん」


 枦木はもう一度唸って、


「理人くんだったらどっち取る?」


 聞かれた北川は、あからさまに、面倒なことを聞いてくるガキだな、というような顔をした。


「面倒なことを聞いてくるガキだな」


 あまつさえ声に出した。

 さっき自分で何でも聞けっつったんだろ、と枦木が呆れていると、北川は手元にあるたった今印刷してきたような真新しい書類をがさがさと漁り出す。そして、難しい顔でむっつりと黙り込む。


 その姿を見て、遮るように、


「いや、いいや。こっちで薬出して」

「……そうか」


 北川は一瞬だけ動きを止めて、それから書類を机に置き直すと、枦木と向き合った。


「気が変わったらいつでも言え」

「うーい」

「薬はとりあえず一週間分出す。症状を抑える薬は一日一回、朝の食後に一錠。臭い止めは毎食後に一錠ずつ、日に三回飲め」

「あれ、一緒に説明書みたいなの貰えんじゃなかったっけ」

「ああ。それから過度な運動と、油物はできるだけ控えろ」

「チャリは?」

「そのくらいなら問題ない。が、身体に負担だと思ったらやめろ」


 俺の匙加減一つじゃねえか、と枦木は思う。目の前で医者が投げた匙を自分でキャッチしてしまったんだろうか。


「それから家族への連絡だが……」


 来た、と。

 枦木は自分の身体が反応するのをはっきりと感じた。だから、できるだけそれが表に出ないように抑え込んで、


「俺から言うよ。理人くんからだとアレっしょ」

「……大丈夫か?」

「やー、まあ、ちょっとチャレンジしてみるわ」


 ん、と。北川は頷きとも溜息とも取れるような声を出して、


「それなら姉貴の方は俺から、」

「や、そっちもいいや。とりあえず父さんと……、あと、まあ相談してみるわ」

「……そうか」


 それ以上は何も言わなかった。


「薬は一週間分だが、不安なら毎日でも来い」

「おっけ。仕事の邪魔しに来るわ」

「まあ、それでもいい」


 お、と枦木は驚く。普段だったら「なら来るな」とか「失せろ」だとかそんな言葉が飛んでくるのに。


「後悔のないよう、好きに過ごせ。それくらいしか言えん」


 最後にかけられた言葉には、枦木は軽く頷くだけで、何も答えなかった。


 診察室を出る。出た瞬間、まだ待合室で喋っていた老人たちの注目を受けて、うっ、と後退りそうになる。集団から一番遠い、診察室すぐ傍の椅子の上に逃げるように腰を下ろした。それで視線は自分から外れて、元のとおりまたお喋りが始まる。


 枦木は、ふう、と一息ついて、


 実感、湧かねー。


 と。

 素直にそう思った。


 突然自分がもうすぐ死ぬと言われて、はいそうですか、と。やあやあ我こそが重病人でござーいー、というような心境にはなれない。目を瞑って、もう一度開けてみたら、普通に自分の部屋のベッドの上で目を覚ましてしまうんじゃないか。それで随分変な夢を見たもんだ、ストレスが溜まってんのかな、それともマジで病気になる予知夢かな、とりあえず理人くんとこ行ってみるかな、と新しい、いつもどおりの一日が始まってしまうんじゃないか。


 そんなことを考えていると、自分の左腕に貼ってあるガーゼが目に入った。ついさっき、採血した穴を塞ぐために貼り付けられている。

 あれから何分くらい経ったんだったか。そろそろ剥がしてもいい頃な気がする。ということで剥がす。ガーゼの白地に赤い染みがついていた。


 枦木はあたりを見回す。ゴミ箱を見つけて、ガーゼを折りたたんで放り込む。ついでにゴミ箱の傍になぜか落ちていた丸まったティッシュペーパーを拾って、それもゴミ箱に放り込む。それから元の席に座る。


 自分の腕を見た。

 薄らと、赤く針の跡。


 試しに指で弾いてみる。



 少しだけ、痛かった。




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