葉巻
増田朋美
葉巻
葉巻
昭子には、どうしても生きようという気が沸かなくて、今日も静かに葉巻を吸うしかないのだった。もう
、あの時から、あたしは、ダメな人間になってしまったと思いながら。
多分きっと、あたしは、もう外へ行くことも無理なんだろう。だって、もう世界からというと大げさだけど、少なくとも世間様にあたしが必要とされることはないだろうから。
おかしくなり始めたのは、大学に入り始めたころだった。失恋でもしたのかとか、そういう具体的なことがあったわけでもない。ただ、大学にはいったら、急に疲れてしまって、布団から出られないほどの疲れだったのである。
そのあとは、何だろう。父母に連れられて、病院に行き、うつ病とかなんだとか、そういう病名をもらった。後はもう、人生の坂道があるのだったら、それを転がり落ちる様に、悪くなってしまった。一度入院して、薬の調整なるものもやった。それをしても、副作用とか、そういうもので気分が悪くなる一方で、昭子は、前みたいな、明るい気持ちになることはなかった。病院では、本当に何もすることはなくて、ほかの患者さんから教えてもらった通り、昭子は煙草を吸い始めて、段々に濃いものになっていく。退院後は、インターネットで、かなり濃度の濃い葉巻を買うようになって、これを自室にいり浸って、吸い続けるのが何よりも生きがいであった。
もう、就職できる年齢も当の昔に超えてしまった。とにかく、精神疾患の治療というものは、何十年も時間を必要とした。それだけ時間が必要なのに、いざ治療し終えて外へ出て見ると、余りの世の中の変わりぶりに、もうついていけないと昭子はおもった。まるで自分が病院という竜宮城に長居をしすぎた、浦島太郎みたいだった。もしかして、退院通知書が玉手箱だったのかもしれない。入院した時は、10代最後の少女だったが、やっと退院できたと思ったら、すでに39歳になっていたのだから。
これを見て、彼女の両親も何も言わなくなった。入院する前は、もう生きているのは嫌だとか、死にたいとか、そういう言葉を散々口走った。それではいけないというのはよく知っていたけど、あの時の昭子は、そうするしか、自分ができることはないと思っていた。それを毎日毎日口走って、父母とは叩き合いのようなことになった。そういう訳で彼女の両親が、もう何とかしてくれと、泣きながら、精神科に入院させたのだけど、まさか、そこに二十年いるとは思わなかった。多分きっと、あれだけ暴力をふるえば、もう家に帰ってほしくないと思っていたのだろう。
そんなわけだもの。私はもう、社会的にも、両親にも、誰にも必要となんかされていないのよ。もう私なんて、必要のない存在なのよ。昭子はそう思いながら、今日も、葉巻を吸って、公園を歩いていた。
公園には、何人かの男女が、歩いている程度だった。其れも、人生が終わった高齢の男女。もう、近隣に遊園地が出来てしまったせいで、若い人はそっちの方へ行ってしまうのだ。
今日も、いつものベンチで葉巻を吸おうとおもった。ところが、そこにはすでに先客がいた。あたしの指定席みたいなところなので、昭子はちょっとムッとしてしまった。
ベンチに座っていたのは、一人の男性だった。昭子は彼の痩せぶりにちょっと驚く。それにしても、あんまりにも綺麗な人であったので、昭子はびっくりする。
「どうしたんですか?」
不意に彼が言った。
「いえ、座ろうと思って、、、。」
昭子は、一応そこに座りたいという気持ちで、とりあえずの返答をした。
「そうですか。だったら、座っていただいて結構ですよ。」
と、彼は言った。何だあ、と思って、昭子は座る。彼は、よいしょと立ち上がり、ふらりと歩き出した。その動きが、妙にふらふらしていて、なんだか危なっかしいので、昭子は一体この人、何者だろか、気になってしまう。
「あの。」
昭子は、彼に尋ねた。
「本当に座らなくていいんですか。」
昭子は、その男性の、衣紋を抜いた背中をみながら、なぜか口にしてしまったのであった。本当は、そんなこと、したくなんかなかったのに。
「かまいませんよ、僕は。」
と、亀より遅いスピードで歩いていく彼。どうしても昭子はそれが心配でならない。
「水穂さん何を立っているの!座っていてって、あたし言ったでしょう!」
そこへ一人の女性が走ってきた。手には、缶ジュースを持っている。ああそうか、このベンチの近くに、そういえばジュースの自動販売機があった。多分彼女は、そこでジュースを買ってきたのだろう。
「何をやっているのよ!座って、待っててと言ったでしょ!」
「すみませんね、由紀子さん。彼女が、ベンチに座りたいと言っていたので。」
その由紀子さんと呼ばれた女性は、昭子に対して、非常に困るという目つきでじっと見た。
「水穂さんも、体が悪いのなら、ちゃんと言って。」
「いえ、かまわないですよ。公園のベンチなんて、僕らが本来独占してはいけないものでしょうし。たまたま、彼女が座りたいと思っただけですよ。だから今日はしかたないとあきらめて、製鉄所に帰りましょう。」
由紀子は、水穂さんのそういう優しすぎることがちょっとじれったくて、駅員制服のズボンを強くつかんだ。
「それでは、もう帰りましょうか。何回も言いますが、公園のベンチは僕らが独占するべきものではないですし。」
「だったら、私が支えていきます。」
由紀子は、水穂さんの肩に手をかけてやり、そっと支えてやりながら、製鉄所へ向かってあるきだした。
とりあえず、今回は自身の指定席を取られることはなかったが、昭子がその時に吸った葉巻は、いつもより、かなりまずいものであった。理由はよくわからなかったけれど。
翌日も、昭子は、公園にやってきた。あの水穂さんという綺麗な人はまた来るだろうか。もしかして、もう来ないのだろうか。
昭子はとりあえず、ベンチに座って、葉巻を吸った。やっぱり、葉巻は、おいしいなと思う。葉巻は本当に、おいしい。
入院していた時は、たばこが唯一の友だった。それは、確かにそうだ。病院ではなにもすることはない。忘れられない事実だった。
どうしても、私は、社会になんて参加できないもの。それは、確かそうだもの。もう、二十年も病院で過ごしていた、ダメな女性。そんな中で葉巻が唯一の友達。今は確かに便利になったと言える。こんな葉巻がすぐにかえる世のなかになったんだから。其れだけは、よかったのではないかと思われる。
「ちょっとすみません。たばこ吸うのは、やめてもらえませんか!」
不意に、昭子は、そんなことを言われて、後を振り向く。
「あのすみません。少しだけでも、水穂さんを座らせてやりたいんです。そのたばこがものすごく匂うものですから。」
そこにいたのは、由紀子さんだった。
「なんですか。そんなに葉巻が、嫌なんですか。」
と、昭子はムキになって、そう言い返す。
「はい。嫌なんです。というか、その葉巻がどうしても、咳き込む原因になってしまうので。」
由紀子は、そうはっきり言った。自分より年下の女性から、こんなことをいわれてしまうのかとちょっと、嫌な気もしてしまう昭子である。
「早く、たばこを消してください。そして、今日は申し訳ないですけど、水穂さんを座らせてやって下さい。」
「あなた何を言っているの?どうしてそんなに、その人を、なんとかしようとしているの?」
「そんな理由、普通の人にいったって、わかるはずないわ。」
昭子が思わずそう聞くと、由紀子は、そういった。
「とにかく、水穂さんに座らせてやってください。」
由紀子は、もう一回言った。
そのうち、ざ、ざ、ざ、とかったるそうに歩いてくる音がして、水穂さんの来た事がわかった。
その水穂さんは、前よりもっと窶れた、痛いたしい風情を持っていた。
「ほら、ちょっと座らせてもらってよ。もう、体がつらいでしょう。」
由紀子に言われても、水穂さんは、そのまま立っていた。昭子は、なんだか水穂さんに悪いことをしていると思って、葉巻の火を消した。
「ほら、水穂さん座って。」
昭子が、火を消してくれたのを確認すると、由紀子は、水穂さんをベンチへ座らせた。水穂さんは、ベンチへ座ったけれど、激しく咳き込んで、落ち着かない様子だった。由紀子は、一生懸命、背中をさすったり、たたいてやったりしたけれど、咳き込むのは止まらない様子だった。多分、というか確実に、葉巻の匂いが充満していて、弱い人は、すぐに咳き込んでしまうのだ。
「ああ、もう申し訳ないわね。こんな煙たいところで。ここの公園にはベンチが少なくて。カフェスペースにでも行きますか。」
でも、水穂さんは、咳き込んで、返答することもできない様子だった。あたしは、そんなに、悪いことをしているだろうか。
「ほら、立てる?」
由紀子がそういうと、水穂さんは、咳き込みながら頷いた。由紀子は、また彼の手を取って立ち上がらせ、咳き込んだままの水穂さんを連れて、カフェスペースへ向かって歩いていった。
「あたし、なんだか悪いことをしてしまったかしら。」
昭子は、そうぽつりとつぶやいた。そのあと、一人残って、葉巻を吸おうと思ったけれど、それをするのはなぜか悪いことをしているような気がして、それはできなかった。
何だか、その葉巻というものが、初めて他人に対して有害だと突き付けられたような気がした。
昭子は、その日、葉巻を一本も吸わないで、一日をすごした。その日、彼女は、一日中何か考えていた。何だか、それはやってはいけないというか、自分のすきなものだったのに、それをやっていると、ものすごく悪いことをしたのではないか。其ればかり考えてしまっていたのである。あの、水穂さんに対して、なんだか、、、。
もしかしたら、もう、病院の中では無くて、外に出たという事かもしれなかった。病院の中とそとは、こんなにも違うんだなと思う。だから、できる限りそとの生活に慣れなければならない。外を拒否するのではなく、外を受け入れていかなければ、、、。
そうだって、水穂さんがいるんだもの。そして、いつか告白しよう。それを考えていた。
その翌日。昭子は、また公園に行った。
何時も通りのベンチに行ったが、あの男性と、女性の姿はなかった。何処に行ってしまったんだろう。
それでは、と通常通りにベンチに座ってみたが、何だか座り心地がよくなくて、気持ち悪かった。あたしが、このベンチから追い出してしまったんじゃないか。なんだか、そんな気持ちになって、昭子はまた葉巻を出して、吸ってみたが、何だかとてもまずかった。高級な葉巻だからこそ、うまいもまずいもはっきり出てしまう物らしい。今回、気持ちが落ち着くという効果は得られなかった。
不意に、ベンチの前に一人の女性が通りかかった。こないだは、駅員の制服を身に着けていたけれど、今日は、ピンクのブラウスを着て、駅員帽は取っている。でも、間違いなく、確実に、由紀子さんであった。
「こんにちは。」
昭子は由紀子さんに声をかける。
「あの、こないだは、本当にすみませんでした。あたしが、何だか悪いことしてしまったみたいで。」
「ええ、本当に、そうでしたね。」
由紀子は、そういわれると癪に障るというか、そんな気がして、わざときつい口調でそう答えた。
「あれ、今日は水穂さんは?」
「ええ、もう。」
昭子が聞くと、由紀子は、もう答えがないんだといいたげに答えを出した。
「水穂さんも、もう終わりだって、あたし、聞いたのよ。もうこれ以上体がもたないんだって。医者って不思議よね。なんで、そうきっちり予測ができちゃうのかしら。それではまるで、タイムアップの時間をしっかり予測しているみたいじゃないの!そっちが勝手にカウントダウンなんかしないでもらいたいわ。」
まるでやけくそだ。
でも、その気持ちに共感することは出来なかった。あたしは、そういう場面なんて本当に好きじゃなかった。
たしかに、医者は時たまそういうこともある。テレビドラマではそれが効果的なシーンとして使われる。でも、あたしは、そういう所なんか、見たって何も楽しくなく、周りの人達が、ああだこうだとと言われても、何も感じなかった。あたしは、そうなるんだったら、勝手にそうなればいいと思っている。別に、他人が何とかして、相手が死ぬのをふさごうなんて、どっちにしろできるはずがないのだから、そんなこと、どうでもいいじゃないか。そういう人は勝手に逝ってくれればそれでいいの。
「もう水穂さんも、終わりなのよ。あたしね、頑張って耐えようと思っても、できそうにないから、あたしは、老子とか、そういう本読んで、なんとか心を落ち着けようと思っているの。それでも、あたしってバカね。水穂さんにまだこっちにいてほしい気持ちがどうしても抜けられない。」
そんなこと、どうしてそんな風に考えることができるんだろうか。水穂さんという人は、そんなにすごい人だったんだろうか。
「水穂さんって何をしていた人?それまでは、何か、やっていたの?すごいことでもしていたの?」
昭子はそんなことを由紀子に聞いてみる。
「ええ、少なくとも、あたしにとっては、素敵な人だったわ。あたしは、こっちに来る前に千葉の久留里線で駅員をしていたんだけど。」
それでは、水穂さんもそこに行ったのだろうか。
「そこの久留里駅で水穂さんに会って、ひとめぼれしてしまって。あたしは、もう運命の人だと思ったのよ。理由なんて知らないわ。ただ、率直に、惚れてしまっただけ。わからないけど、もう、自然にこの人の下へ行きたいと思ってしまっただけのことなの。でも、私、ほかに付き合いたい人もいなくてね。それで、こっちへ来ちゃった。」
それでは特に、愛される理由らしきものを、水穂さんは持っていなかったのだろうか。
「でも、あたしは不思議なものでね。水穂さんは、大したことができるという分けじゃないし、ものすごい大きな功績を出したわけでもない。でもあたしは、水穂さんが好きなの。まだ、会いに行きたいの。まだ、こっちにいてほしいの。」
由紀子はそういった。それは、自慢しているというわけでも無いし、特に、こうしろと模範的な動きをしているわけでもなさそうだ。それではなぜ、水穂さんのような人が、由紀子さんに愛してもらえることになるんだろう。単に容姿の美しさだけではなさそうな気がする。
「あたしはね、水穂さんのそばにいる時が一番楽しかった。それは、どんなにおもしろいと言われているテレビゲームよりも、ずっと面白くて、素敵な時間だったと思うわ。それを提供してあげられることが、すごい人なんじゃないかと思うの。」
由紀子さんはすごいわね。そういう人を前もって持てるんだから。それでは、あたしにはそういう人が持てるかな?昭子は、そう思ってしまった。
「悪いけど、あたしにはできそうもないわ。だってあたしは、ダメな人間だもの。仕事もできないし、何か芸でもできるわけでも無いし、容姿だってきれいじゃないし。悪いけど、世の中にはね、そういう人間も少なからずいるのよ。そんな人間は、愛されると思う?それに、何もしていないんだから、愛したって無駄よ。あたしたちは、働かざる者食うべからずだから、もう、どんどんどんどん切り離されて当たり前なのよ。」
昭子は、そう、自分の中にいる、自分への憎しみを由紀子に対して口にだした。
「由紀子さんは、そういうところは、何も知らないのよ。あたしは、はたらいてないんだから、何もすることはできないわ。恋愛も、自分のすきなことも、みんな許されない。そんなことわかるはずないでしょう?由紀子さんは、働いているから、そうやっていくらでも他人に対して思いを寄せられるけど、あたしは、一生おどおどして、葉巻くらいしか友達もいないで、生きているしかないんじゃないかな。」
「そうね。でもあたしは、いま、水穂さんがすべてなの。働いていようもいないも関係ないの。そんなこと、私は、何も気にしないで水穂さんのそばに居たい。」
「何を言っているの?きっとあなたが、働いていなかったら、水穂さんのそばにはいられなくなるわよ。其れは、あたしよく知っているから。もう、いろんなことがどうでもよくなるの。働いていないと、すべての人が、あたしのことを、悪人としてみるわ。そして、何が起こっても、働いていないお前が悪いとして、私のせいにするわ。たとえ私のせいではなくても、私を犯人にすれば、みんな解決に至るの。それで、私は、どこの世界にいっても、私のことを私として見てくれる人は一人もいない。それは、働いていない人間は、愛されないから。葉巻だけが一本の友達。その葉巻が、唯一、あたしを癒してくれる相手。人間を相手にできなくなるとね、そういう道具に頼るしか、できなくなるのよ!」
昭子は、由紀子さんのいうことがとにかく憎たらしくて、とにかく、その苦しみを由紀子さんにぶちまけた。
「由紀子さんは、そういうところが一番嫌い。あたしには、すきな人も何も持てない。」
「昭子さん。」
由紀子は、もう昭子さんにやり込められてしまったなという、気持ちで静かに言った。
「あたしは、昭子さんのことを本当にかわいそうだと思ったわ。あたしは、昭子さんのように、苦しんできた訳じゃないし。でも、昭子さん、あたしは、水穂さんが好きなの。水穂さんのそばに誰よりもいてやりたいと思っているのは、この私なのよ。それが、私なの、それが私の生きがいなの。だから、おねがい、私から、水穂さんのことを盗らないで!」
「あなたは、幸せね。由紀子さん。そうやって、仕事も恋愛もできて。あたしは、一生かけても、そういうことはできないわね。」
静かに昭子はそういって、また葉巻を取って、先端にライターで火をつけた。
「それでは、あたし、水穂さんの容体がよくないから、もう帰るわ。」
由紀子は、それでは仕方ないと思って、自動販売機でジュースを一本買い、ではごめんあそばせと言って静かにかえっていった。
由紀子さんは、ずっと水穂さんのことを愛していられるんだな。
でも、あたしは、それは無理なんだ、、、。
どうしたら、この思い、彼に伝えることはできるんだろうか。
多分きっと無理だろうな。あたしがいくら思っても、通じるはずもないのだろうな。由紀子さんに厳重に守られているだろうから。
せめて、由紀子さんは、どうか幸せになってほしいと、昭子はそう思いながら、葉巻の煙を吐き出して、ゆっくりと葉巻を腕に押し付けた。
葉巻 増田朋美 @masubuchi4996
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます