第2話 森の深淵

 空を覆い隠す程巨大な木々に鬱蒼と生い茂る植物。虫たちの騒めく音と鳥や魔物の鳴き声。とても心地がよいとは言えない空間に猫背の男がいた。男は体に無数の擦り傷を負っているが、傷のことなど気に留めず、ただただ気だるそうな表情で青の見えない空を見上げている。金色の髪に青い瞳、脂肪を纏わない細い体の男は、身軽で、素早く、その気になれば自身の身長の3倍ほどの高さまで跳躍することができる。又、人種問わず、老若男女あらゆる人間に変装し、人々を欺く。男はこれまでその身体能力と技術であらゆるものを盗んできた。幾多の宝石、金銀財宝、古書、絵画、骨董品から機密情報の類まで、欲しいものは全て手にした。この男の名をジャック・カロットと言い、彼の正体は世間を騒がす盗賊だ。ジャックは自信家でプライドが高い。故に自身の仕事には流儀を持っていた。それは「仕事は華麗にこなすこと」。まるで演劇のように、ジャックが思い描いたシナリオに沿って潜入し、獲物を盗み、脱出する。これがジャックのセオリーだった。しかし今回の仕事は大失敗に終わった。今までの仕事の中で、ハプニングがなかったと言えば嘘になる。しかしジャックはとっさの機転と判断で幾多の危機を乗り越え、最終的には獲物を確実に手に入れてきた。つまり今回の仕事はジャックにとって初めての失敗なのである。「最悪(死)は免れた」ジャックは気球に乗って逃亡中、ボロ雑巾の塊のような、人形と呼ぶことができるかできないかよくわからない物体の攻撃によって気球が破壊され、この森に落下した。このボロ人形はあろうことは気球の中で突然大きく膨れ上がり、とうとうそれに耐えきれなくなって気球が破れてしまった。ジャックは争うこともできず落下し、身体中に擦り傷と打撲を負った。しかし落下地点が森だったことが幸いした。木々がクッションとなって大きな怪我を負わずに済んだのだ。もちろん落下の最中、木々を蹴って上手に衝撃を殺しながら地上に到達することができなのは彼の身体能力の恩恵である。しかし彼が今不機嫌なことに変わりはなかった。

「あの女、やってくれる」

 このボロ人形も女の差し金だろう。あやうく殺されかけたぞ。ジャックはしゃがみこんでボロ人形にぼやく。しかしボロ人形は反応を示さない。膨張したのが嘘だったかのようにもとのこぶしだいの大きさに戻っている。やれやれ。彼は両手をあげて肩をすくめた。あたりを見渡す。落下の位置から察するに、ここはフィボナッチの森であるとジャックは推測していた。フィボナッチの森は迷いの森、死の森とも呼ばれ、本来人間が訪れる場所ではない。まして辺りがこれだけ暗いとなると、ここは森の深いところである可能性が高い。フィボナッチの森の木々の量はフィボナッチ数列に従って増えていく。前の2つの数を足した木の数が次の木の数になるというわけだ。つまり森の深くへ行けばいくほどに、ものすごい勢いで木々は増え、森は複雑になっていく。いきなり出口を目指すのは現実的ではない。出口を探りながら、草人や植物族を探し、願わくば彼らの村を見つけるのが良い。しかし、草人や植物族の食料は太陽の光だ。この辺りには彼らすら存在しないだろう。

「少しでも明るい場所を目指して歩くか」

 本来、命を失いかねない切迫した状態なのにも関わらず、ジャックは他人事のように無関心で気だるげに歩き出した。職業柄、暗い場所に離れていた。ジャックは時折、道を塞ぐ緑をナイフで切り進みながら、森を進んだ。方向感覚はわからない。ジャックは生き物の雰囲気が感じられる場所へと直感的に足を進めた。虫や鳥、魔物ですら居た方が良い。本当にまずいのは、生き物のいない場所。その先は木々が腐り、生き物以外のもの、形をなさないモノ、この世にあらざるものや魑魅魍魎の場所だ。端的に言えば「死の匂い」が感じられるようになったなら、いよいよ森の深淵に入ったことを意味する。

「なあに。簡単なことさ。俺が楽しそうだと直感的で感じるところに、足が向くまま歩けば良いんだ。」

 これがジャックの出した森の出口に近づく最良の方法だった。牢屋と酒場のどちらか一方を選ぶとして、牢屋を選ぶ人間はいない。誰しもが牢屋よりも酒場に行って、麦酒、もしくは葡萄酒片手に陽気に歌って踊りたいだろう。心地いい場所、楽しい場所へと直感的に足を進めることが唯一死への誘いを回避する方法だと彼は考えた。にしても、ボロ人形がちゃっかり、自分の肩の上に居座っていることにジャックはげんなりした。


 薄暗い森は肌寒く、進む道は植物の蔦や木々に遮られて悪路。進む方向が正しいかどうかもわからないという、精神的に追い込まれてもおかしくない状況。そして疲労の蓄積。悪い条件は重なっていた。しかしジャックは取り乱すことなく、ゆっくり慎重に歩いていた。変わらない黒緑の景色に時間感覚は無く、どれだけの距離を歩いたのかもわからない。まるで夢の中にいるような浮遊感も感じる。いっそ夢でもいいから、酒と肉が欲しい。腹が減った。そして眠い。しかしここで眠るわけにはいかないというジレンマ。

「無事に帰ったら大食いしてやる」

 ジャックは睡魔に負けないように、思考を食欲に絞った。今一番食べたい物、ひたすらに大きくて、程良く焼けた肉のことだけを考えながら歩いた。その時、ジャックの肩に乗っかってるボロ人形はどこからとりだしなのかわからないが美味そうにキャンディーを舐めていたがジャックはこれには気がつかなかった。布でできた舌が音もなくレロレロとリズミカルに動き続けた。

 しばらく歩き続けていると奇妙なことが起こった。それは気がつかなくてもおかしくない一瞬の出来事だった。青い光が微かに目の前をよぎったのだ。ジャックはこの光に希望を見出した。青い光は頼りげなくぼんやりと空中を漂っていた。ジャックは焦ることなく、慎重にその光を追った。光は小さいが徐々に強さを増している。これは光源に近づいていることを意味する。そして辛抱強く、光を求めているうちに光の正体がわかった。青く光るのは一匹の蝶だった。ジャックはこの青く光る蝶を知らなかったが、それは彼にとってはどうでも良いことだった。重要なのは生き物に出会えたということである。少なくとも着実に森の深淵から離れることができている。ジャックは蝶の後を追いながら他の生き物の気配も探るようにして歩いた。しばらくすると突如視界が開けた。辺りはそれまでの暗闇が嘘だったかのように、徐々に明るくなっていく。やがて歩き進めると鬱蒼とした森に陽の光が差し込んだ。ジャックは蝶の後を追うのをやめて立ち止まり、周囲を見渡した。確かに動物の気配を感じる。木の上には鳥も目視できる。先ほどまでの明らかに危険な気配は影を潜めた。ジャックは楽しいことを考えながら、心地いい場所へ足を進めることで無事に危機的状況から脱出することができたのだ。ここからジャックは、感覚で闇雲に歩くのではなく、周囲をよく観察して歩いた。動物や魔物の足跡や死骸を見つけては、じっと見つめて進む方向を決めた。初めは獣道をひたすらに歩くことになった。そして幾分か歩き続けると、とうとう獣道とは違う、誰かによって手の加えられた道を見つけることに成功した。

「いい感じだ。肉は近いぞ」

 ジャックは疲労感を忘れて、ほんの少し興奮気味に歩き続けた。そして彼はとうとう植物人の村を発見するのだった。

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