その資料にしか書いてないことを掘ると面白い
例えば、今書いているのが『中世・近世ヨーロッパにおける科学の歴史』みたいな、有名な学者の方でも書くだけで大著になるだろうことを書いているため、それこそ毎日のように資料を消化しないといけないことになる。
なぜ小説を書くために資料を読むのだろうか。
その解答の一つはリアリティのためだろう。
だが、資料を読んでいるうちに気が付いたのだが、資料を読み込む理由がもう一つあるとするならば、世界において有り得たけど思い浮かばなかったことが、歴史上起きているということだ。
小説を書くためには、想像力というのが重要になる、というのは良く言われているけれど、人間の想像力というのはたかだか知れているもので、案外自分の知っている範囲を抜け出せない。
事実は小説より奇なり、とは良く言ったもので、想像力という檻を抜け出すためには、資料というのは便利だ。
例えば、二つ気になっていることがある。
手元に『詳説世界史研究』というのがあって、いわゆる高校世界史の副読本の中では信頼されている本なのだが、その中にこのような一節がある。
「南ネーデルランド(ベルギー)のヴァサリウス Versalius(1514~64)も死体解剖にもとづいて『人体構造』を著し解剖学を創始し、スペインのセルヴェトゥス Servetus(1511~53)は血液循環の原理を発見した。しかし、前者はスペインで宗教にかけられ、後者はカルヴァンにより火刑にされている」
さて、普通、宗教による科学の弾圧と言えば、ガリレオ・ガリレイの地動説をまっさきに思い浮かぶんじゃないだろうか。「それでも世界は回っている」と呟いたというやつだ。
一方で、解剖学を始めた二人が弾圧されたという話はあまり有名ではない。もしかしたら一般常識かもしれないけど、あまり話題にはとりあげられていない、と思う。
もちろん、このあたりの経緯については、ちゃんと調べてみれば出てくると思うけど、ここから妄想するのは面白い。
なぜ、解剖学が宗教に弾圧されたのだろう。
これだけで『異世界解剖』という、解剖チートの異世界転生が書ける予感がしてくる。調べたらあるかもしれないけどね。
もう一つ。
阿部謹也という、僕の好きな歴史学者の人に、『物語 ドイツの歴史』という本があるのだけれど、そこにこういう些細な一節がある。
「フリードリッヒは一二五〇年に突然死去した。しかし、その死を信じないものが多く、そのため「フリードリッヒ不死の伝説」が生まれた。実際一二八四年、ケルンに偽のフリードリッヒが現れ、しばらくの間宮廷を開いていたのである」
この偽のフリードリッヒの正体は、ティレ・コルプという、世界史の中でも非常にマイナーな人物で、恐らくドイツ史を知っている人でなければ、あまり意識ない人物だ。
実際、英語のWikipediaとドイツのWikipediaを比べてみたが、英語のほうは三行止まりの簡潔な説明に対して、ドイツ語のほうはちょっとしたことが書かれている。
ここで、事実を事実のままに書く、というのは学者のやることであって、僕たちは学者ではないのだから、想像でティレ・コルプというのはこういう人物だったのではないか、と考えてみるのである。あるいは、そういう一節を盛り込んでも良いかもしれない。
長々と書いてしまったけど、こういう資料に書いてある、些細な一言みたいなところに、いわば想像力というのを膨らませるヒントがあるな、と実感する。
事実として書けない・書こうともしないところに、小説が滑り込むチャンスがある気がしてならないからだ。
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