「考えるため」に小説を書く

えせはらシゲオ

書きながら考えていること

「話し相手」を見つけることから始まる

 僕にとって「小説とは何か」ということを言われた場合、とんでもなく長い「雑談」だということを考える。

 そして、そういう「小説とは雑談」という考え方が、僕の小説に色濃く反映されている。考え方というのは、どうも小説の書き方を規定している。


 よく創作技法として、起承転結を付けよう、という話であったり、あるいは三幕構成であったり、とかそういう技術面が良く言われる。僕もそういう話が大好きで、一時期『文章が上手くなるほにゃらら本』を良く読んでいた。

 そういう本を読んでいて、じゃあ実際に小説を書いてみようと思うと、ふとあることに気が付く。

 ――あれ、自分の書いている小説って面白いか。


 技術面が不要とは思わないけど、往々にして、そればかり意識するということは、根本的な「これって面白いのか」という話がどこかに飛んでいってしまう。

 そして、この「これって面白いのか」ということをちゃんと考えるために、余計な部分はテクニックとしましょう、というその目的意識が転倒してしまって、いつの間にか「これが面白い」ということと、「技術的なこと」というのが混合されてしまう。


 別に「面白いことを書く」ということが目的じゃなくていい。

 「好きなことを書く」でもいい。あるいは、「大切なことを書く」でもいい。

 この「」には何でも入るだろう。性格は悪いと思うけど、「人を不愉快にすることを書く」でもいい。


 そういうことを考えていった場合、まず小説を書くということは、「話し相手」を見つけるということだと思っている。

 「話し相手」というと、例えばファミレスなんかでドリンクバーで向かい合って、みたいな風景を想像するかもしれないけど、今だったらSNSもあるし、ブログもあるし、こういうカクヨムでこういう記事を書くのも、話し相手を見つけることだと思う。

 「話し相手」に対して、「〇〇を書く」という行為をぶつけて、反応を見る。というのがその根っこにある。そして、その反応は様々だろう。

 そして、反応を引き出せれば成功だ。

 それは、自分が書いた小説が要因になって、何かしらの行動を起こさせた、ということだ。大方のものは無意識で処理されるけど、その無意識のフィルターを通って、意識に潜入しただけでも成功だ。第一ミッション完遂であります。


 だから、まず僕は読者を想定して「こういう話をすると何か反応してくれるかな」ということを考えたりする。

 僕が良くやるのは、十年後の自分に対して書く、ということなんだけど、それは誰だっていいだろう。身近な友達でもいいだろう。


 要は読み手がいて、言語というのが成り立つわけだから、その読み手のことをまず考えてみる。何を意識させたいのか。何を引き出したいのか。

 もちろん、そういうのがテクニック論ではあるのだが、最初は「話し相手」ということを考えるだけでも十分なんじゃないかと思う。雑談みたいに「こういう面白いことを考えたんだけど……」でいいんだと思う。

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