九.蔓延



 今までの私は、無知で身勝手な子供でした。私は無邪気にも神様の定められた禁忌に足を踏み入れてしまい、その罪を自覚しながらも異端を犯し続けてきたのです。

 これではいけない。怖くなった私は、自分自身の変化を望みました。ですが、こんな変化が欲しかったわけではありません……


 一度ひとたび異端に堕ちた私が、悔い改めるだけで赦されるはずがなかったのに。

 だから罰が当たったのです。これは、神様が下された罰。私のひずみがもたらした、恐ろしい罰――



 私は一体、どうすればよいのでしょうか。

 誰か、誰か……




***




 撒き散らされたラオディキヤの病原ヴァイラスは、お父様の応急処置では止めることができませんでした。一週間ほど経った頃に遺物展に参加した人の中で高熱を訴える人が現れ、診療所に詰めかけました。そしてその数は、ラオディキヤ領地である第三都市アイルを中心にどんどん増えていったのです。


 罹患した人々はまず急激な高熱と身体の痛みに苦しみました。一旦熱が引くと、今度は身体中にぶつぶつと中に水を含んだ発疹が現れ、再び熱が上がってゆきます。発疹は身体の内部にも広がり、発疹で呼吸器が被われてしまうと……呼吸いきができなくなってしまう、のだそうです。



 想像を絶する恐ろしい病に、今この瞬間も、たくさんの人々が苦しんでいます。ちらほらと死者の報告も耳にしました。


 これが全て――私のせいだと言うのなら。

 私はどうやって償えばよいのですか。


 神様どうか、私ひとりを罰してください。

 何も悪くない人たちを連れて行かないでください。

 お父様を、連れて行かないで……

 


「シシィ、お前は大丈夫だ。だから来てはいけないよ……次期当主として、身体は大切にするんだ」



 お父様は高熱に倒れられてしまいました。それなのに、口にされたのは、私への心配と励ましの言葉ばかりで……どうして私は、嫌になるくらい子供なのでしょう。お父様を安心して送り出せるほど、大人で、気丈にはなれませんでした。



 それからの数日間、私はどのように生活していたのか覚えていません。アランが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたような気がします。私は促されるままに食事を摂り、睡眠をとり……生かされて・・・・・いました。


 フィラデルフィアの使用人も、次々と倒れていきました。お世話になった方々なのに、私はまるで他人事のように眺めているしかできませんでした。傷つくことを恐れて、あらゆる感情を心から締め出していたのかもしれません。なんと冷たい人間なのでしょう。

 他の聖騎士家の方々の安否もわかっていません。ラオディキヤのハオラン様、チェンシー様はご無事なのでしょうか。シユとシアは? リンファは? わかりません……一向に連絡がつかないのです。


 これが、罰なのですか。神様。これが、私への罰なのですか。

 私は私が引き起こしたわざわいを目の当たりにしても、どうすることもできない私の無力さに苛まれることしかできないのですか。



 そしてとうとう、恐ろしい日がやって来ました。

 お父様の危篤を告げる報せが、私の元に届いたのです。




***




 つんと鼻につく薬品のにおい、目に痛いほどの白、白、白……それだけが、診療所の中で私の正気を保っていました。窓を閉めきったために淀んだ空気が、私の足に絡みついて、思ったように進めません。


 アランに付き添われて病室の前までどうにか歩いて来たはいいものの、私は相変わらず夢の中にいる心地でした。

 お医者様が注意すべきことをおっしゃった気がします。病室内では静かにすること、口元を布で覆うこと、患者……お父様に触れてはいけないこと。私はぼんやりとそれを聞いて、床を踏みしめる感覚もないままに、ひとりお父様の病室へと入ってゆきました。



「……シシィ。来てくれたんだね」



 辛うじてその声で、目の前で横たわる人がお父様なのだとわかりました。赤黒く爛れたお顔。全身を覆う発疹に、短く浅い呼吸……

 お父様が倒れられてから、まだ一週間も経っていません。それなのに、こんなにも変わり果ててしまうだなんて。


 外見があまりにもお父様からかけ離れてしまったからか、私の頭が考えることを拒否したからか。今、この場のすべてが悪い夢のように思えました。なんて嫌な夢……こんな夢、早く覚めて頂戴。早く、早く。



「お父様……お加減はいかがですか?」


「すまないね。こんな姿を、お前には見せたくなかったよ」



 ため息のようなささやき声。お父様とふたりきり、静かな部屋でなければ聞き取れません。喋ることも苦しいでしょうに、お父様はとても穏やかな様子でした。



「お父様、私……」


「思えばシシィには、寂しい思いをさせてしまったね。パトリシア……お母様が亡くなった後、私は公務に追われ、お前をあまり構ってやれなかった。そうでなければ、お前も空を飛ぼうだなんて考えなかっただろうに」



 衝撃でした。まさかこのような場で、お父様の口からそんな話を聞くことになるだなんて。



「……ご存知だったのですか」


「知っていたよ。お前とアランは隠し通せているつもりだったのだろうがね。むしろ他の者に気づかれぬよう、オスカーが心を砕いてくれていたのだよ」



 お父様は、私の罪を知っていらっしゃった。そして私の罪を咎めることなく、ずっとずっと見守ってくださっていた……何故?



「私は安心したのだよ、シシィ。お前には心を許すことのできる相手がいて、悲しみで心を閉ざしきってしまうことはなかった。だから私は、お前と共にアランにも処置・・をすることに決めた。アランならば、この先もお前を傍で支えてくれるだろうからね」


「どういうこと、ですか」



 静かにお父様の言葉に耳を傾けようと決めていたのに、私は思わず大きな声を出してしまいました。



「すまないね。最期に私の罪を、告白させておくれ」



 お父様は私の問いには答えてくださりませんでした。私は訊きたい気持ちをぐっと抑えて、お父様の言葉ひとつひとつを聞き漏らすまいと神経を研ぎ澄ませます。



「私は……ラオディキヤの件について、否、サルディスの件についても、こうなることを薄々知っていたのだよ。承知していながら、知らぬふりをしてきた……私は、異端を犯したのだ。そのために今、こうして責苦を受けている」


「お父様?」



 熱に浮かされているためでしょうか。お父様のおっしゃる言葉の意味が、わかりません。異端? お父様が? そんなはずありません。だって、それは私が……



「詳しいことは……どうやら話している時間は残されていないらしい」



 そう言うと、お父様は激しく咳き込まれました。もう、お父様は永くはないのだと、これは夢ではないのだと、まざまざと見せつけられて。駆け寄りたくなる衝動を堪えると、代わりに我慢していた涙が一気に溢れ、留まることなく頬を転がり落ちていきました。



「私は大丈夫です、お父様。もう無理はなさらないで」


「私の願いは、ティアティラのブリジッタ殿と、スミルナのミコ殿に託してある……だが、大人わたしたちが始めたことだ。お前は何も背負う必要はない……愛しているよ、シシィ。こんな私でも、お前は私を愛してくれるかい?」



 何かが近づいてくる気配がします。それは目を背けて逃げ出しても、どこまでも追いかけて来るようで。いずれ私はそれに捕まって、耳元で恐ろしい真実を囁かれるのでしょう。目を閉じることも許されず、悲しい現実を見せつけられるのでしょう。


 口と鼻を覆った布が、じっとりと濡れて息苦しい。こんな布越しでも、私の心は届くのでしょうか。お願いです、もう少し……



「もちろんです……お父様。愛しています……大好きです、お父様」


「可愛いシシィ……お前が優しい子に育ったことを、パトリシアと、本物の神様・・・・・に伝えると約束しよう……」



 神様? 本物の、神様?

 神様は、ただおひとりですよ、お父様。こうしてほら、私に罰を下されているではありませんか。お母様の死を受け容れられなかった私に、こうして教えを授けてくださっているではありませんか。



「さあ、もう行きなさい。私の最期を、お前に見せるわけにはいかない。後のことは、オスカーに任せてある。お前は、お前が正しいと思う道を歩みなさい」



 私が充分に大人だったなら、最後にとびきりの笑顔をお父様にお見せすることができたのでしょうか。けれども私は、情けない子供のままでした。嫌、嫌と泣き叫び、お父様に縋りつこうとしたのです。ですがそれは、私の声を聞きつけて部屋に入って来られたお医者様に止められてしまいました。

 お父様に触れることすら、叶いませんでした。強引にお父様から引き離されて、そのまま部屋から連れ出されてしまいました。


 それが、私がお父様の姿を見た最期でした。私は最後まで、どうしようもなく子供でした……




***




 私にはもう、わかりません。どうすればよいのかわかりません。

 どうしようもなく苦しくて、身体の中の何もかもを吐き出すくらいの嗚咽をあげて。声を限りに泣きじゃくっても、やるせない現実が喉に詰まって苦しくなるばかり。



 自業自得。これが、神様が下された私への罰。充分すぎるほど思い知っているというのに。


 ……それなのに、神様を理不尽だと思ってしまう私は、どこまでも救いのない人間なのでしょう。



 気づくと私は、フィラデルフィアの鏡の間にいました。どうやって屋敷まで帰ってきたのかも、いつからここにいたのも、何も覚えていません。



「どうして? どうして……どうしてなの!?」



 鏡の中のルシファーに問います。どうして全てを奪うのかと。

 身勝手に、感情のままに、声を荒らげて。



「どうして、どうして、どうして」


「シシィ様。もうやめてください」



 突然、私の両手は温かい手に包まれました。久しぶりに温もりに触れたような気がします。驚いた私は叫ぶのを止めて声の主を振り返りました。

 アランが、私の手を握っていました。その目が伏せられているのを見て、私もゆっくり視線を下ろします。私の手が、血まみれでした。鏡を殴りつけていたのでしょうか。



「シシィ様が怪我をされれば、旦那様が悲しまれます」


「アラン。私、どうすれば……」


「まずは深呼吸をしましょう。それから、シシィ様の胸の内を全部、僕にぶつけてください。ここにはシシィ様と僕しかいません。何を言っても咎める人はいませんよ」



 アランの言葉に従って、深呼吸をしてみました。それだけで呼吸は整いませんでしたが、時折しゃくり上げながら、ぽつりぽつりと思いの丈を言葉にしてゆきます。一連の出来事が全て自分のせいではないかという不安。お父様に笑顔を見せられなかった後悔。神様を理不尽だと思ってしまったこと。


 アランは否定するでも肯定するでもなく、ただ真摯に私の言葉を聞いてくれました。悲しいのは相変わらずですが、そうしていると少しだけ、呼吸が楽になってゆく気がしました。



「シシィ様。僕がいます。たとえこの先何があろうと、僕はシシィ様のお傍を離れません」



 絞り出すような声で、アランは耳に心地好い言葉をかけてくれました。心細い私を、優しく抱き締めるような言葉でした。

 そして、その直後。



「ここにいらっしゃったのですね」



 突然、私とアランではない声が聞こえました。どこかで聞いたことのあるような、くぐもった声。振り向くと、入口のあたりに奇妙な白い人影が見えました。よくよく目を凝らしてみると、その人は全身をだぶついた白い袋のようなもので覆い、顔には灰色の眼鏡とマスクのようなものをつけた、奇妙な姿をしていました。



「……誰?」


「私です……オスカーですよ」


「オスカー、なの?」



 言われてみれば、確かにオスカーの声でした。ただ、見慣れない格好をしているせいか、どうしてもオスカーには見えなかったのです。



「ええ。少し変な格好ですが、これは防護服と言って、ブリジッタ様が開発されたウイルス対策用の服です。本当は着る必要ないのですが、この方が皆さんの危機感を煽れますからね」



 オスカーの言葉は初めて耳にするものでした。いまいち状況がわかりません……あまりにも呆然としてしまったので、涙が止まってしまうほどでした。



「シシィ様とアランは、こんなものを着なくても大丈夫です。この病に罹ることはありませんから」


「それはどうして?」



 間髪入れずにアランが尋ねました。状況を理解できていないのは、アランも同じようです。けれどもオスカーは、答えを教えてはくれませんでした。



「時間がありません。道すがらお話します……第一都市オーシムに、緊急避難令が出されました。そのうち聖騎士家の招集もかかることでしょう。我々も急ぎ王都へ避難しますよ」



 私は、オスカーの言葉を反芻します。寒い日の吐息のように、目には見えるのに掴むことのできない言葉ばかりでした。しかしひとつだけ、意味を理解できた言葉がありました。



「そんな……それなら私、最期にお父様に触れたかった。顔をちゃんと見せたかった……」



 今更言ってもどうしようもないことだと、頭の隅ではわかっていました。それなのに、止めたはずの涙が再び止めどなく流れ出します。私は駄々をこねる幼い子のように、声を上げて泣きじゃくりました。


 オスカーがどのような表情をしていたのか、私にはわかりません。まるで小さな子供を扱うかのように、オスカーは私の頭をぽんぽんと叩きました。とても優しい手つきでした。



「さあ、行きますよ」



 絶望。後悔。無力感。どんな言葉も、私の胸の内を表すことはできないでしょう。頭の中で暴れ狂い、猛威を振るう大嵐。言葉になれなかった私の心が、なぶられ弄ばれて死んでゆく。

 オスカーとアランが、私の手を取りました。そして、静かに歩き始めます。


 私を慈しんでくれた人。私を育んでくれた場所。温かなものが、私の手から零れ落ちてゆく。永遠に、遠ざかってゆく。

 私に残されたのは、両手にひとつずつ。決して離したくない。これ以上何も喪いたくない。そう願う思いすらしかし、じわりじわりと殺されてゆくのでした。

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