八.遺物


 礼服を纏った黒い集団が、列をなして進んでゆく。左胸には喪章が揺れて、手元の花に影を落とす。参列者は皆一輪の白百合を胸元に掲げ、厳かな賛美歌を口ずさむ。


 ヨルン様の葬儀は、僕を含めた参列者全員が初めて体験するものだった。存分にお別れができたこれまでとは違う、悲しみ一色で覆われた時間。冷たく硬く、二度と動かないご遺体は、皆に〝死〟の意識をありありと刻みつけた。お祖父様の棺にすがりついて泣くエーファ様とディートリヒ様をお見かけした際には、思わず涙腺が決壊しそうになったのを覚えている。あまりの悲痛さに、やり切れない思いでいっぱいだった。



 その時僕は、ぼんやりと何かを思い出しかけていた。黒に身を包んだ人々。何かを飲み込みむような暗い穴。顔をしかめるほどの臭気と、とめどなく頬を伝う涙……




***




 ヨルン様の葬儀から一月半ほど経ったこの日。僕はシシィ様と一緒にラオディキヤ家を訪れていた。


 相変わらず世間には暗く沈んだ空気が流れていたが、そんな空気を払拭せんと、ラオディキヤ家は予定どおり遺物展を開催すると方々に知らせた。旦那様から遺物展のお話があった時、シシィ様は断るものだと僕は思っていた。一緒に行くと約束したエーファ様やディートリヒ様はさすがに参加されないだろうし、シシィ様だって心の傷が癒えていないはず。しかしシシィ様の返答は、僕の予想を大きく裏切っていた。



「私、参加します。私はまだまだ勉強不足なので、遺物について詳しく知りたいのです。アランも一緒に来てくださいますか?」



 シシィ様は何というか、精神的に大人になられたと思う。元から大人びた方ではあったけれど、この未曾有の大事に際し無理やり大人にならざるを得なかった、と言うべきか。悲しくてどうしようもない気持ちを乗り越えるため、前を向いて今自分にできることを必死に探していらっしゃる。


 それは本来喜ばしいはずの変化だが、そのきっかけを思うと素直に喜べない僕がいる。

 


「今回は私も参加するよ。ご当主のハオラン殿が直々に講義されると伺ったし、たまにはシシィと一緒に気晴らしに出かけるのもいいと思ってね」



 旦那様は微笑みを浮かべておっしゃった。目尻の皺は、以前はそこまで深くはなかったはずだ。そのことに気づいて、どこか切ない気持ちになった。



「旦那様……よろしいのですか?」


「大丈夫さオスカー、公務はちゃんと片付けて行くよ。それに、もう決めたことだ」



 何やら意味ありげな旦那様とオスカーさんのやりとりだったが、耳に残った言葉を気にとめないでおくことにした。オスカーさんは僕よりもずっと前から旦那様にお仕えしている古株だ。だからきっと、僕ごときが介入していい内容ではないのだろう。



 そんな経緯で今日を迎えた。本当ならば旦那様もご一緒の予定だったけれど、どうしても外せない用事ができてしまって、後から遅れていらっしゃることになった。そしてラオディキヤ家の門をくぐった僕たちの前に、立ち塞がったふたつの影。ラオディキヤの双子のご子息、シユ様とシア様だ。



「よおシシィ」

「やあシシィ」



 ちなみに僕はシユ様とシア様の見分けがつかない。シシィ様曰く、穏やかな雰囲気で砕けた話し方をするのがシユ様、やんちゃな雰囲気で柔らかな話し方をするのがシア様なのだそう。そんなことを言われても、おふたりは何から何までそっくりなのだ。おふたりに名乗っていただかなくては、僕にはさっぱりわからない。



「久しぶりだな」

「元気にしてた?」


「今日はお招きいただいてありがとう。シユもシアも、大きくなったね」



 シシィ様が目を細めてふたりを見つめられる。おふたりはシシィ様の頭ひとつ分ほど下から抗議の声を上げられた。



「うるせえシシィ、すぐに追い越してやる」

「うるさいシシィ、すぐに大きくなるもん」



 そう言うとおふたりは僕の服の裾を左右から引っ張られた。これは確か、おふたりがシシィ様に聞かれたくないことを僕に相談される時の合図だったように思う。前回は身長を伸ばす方法を尋ねられたのだったか。シシィ様に淡い恋心を抱いたおふたりを微笑ましく思いながら、僕はおふたりの視線と同じ位置までしゃがんだ。途端、両側からひそひそ声でまくし立てられる。



「なあアラン。シシィに好きな人っているのか?」

「ねえアラン。シシィには手を出してないよね?」



 何だか恐ろしいことを言われた気がする。多少の動揺を隠しながらも、おふたりに安心してくださいと伝えた。するとおふたりは「ふーーん」と丸っきり信じていない目で僕を睨まれた。どうしてだろうか。


 その時だ。お屋敷の方から、誰かがこちらへやって来るのが見えた。ラオディキヤの奥様、チェンシー様と、よちよち歩きのご令嬢、リンファ様だ。リンファ様はたどたどしい足どりでシシィ様の前まで歩くと、えくぼの浮かんだ手でスカートの裾を持ち、可愛らしい挨拶をされた。



チチィ・・・ちゃん、いらっちゃいましぇ」


「きゃあああああ! リンファがひとりで歩いてる! お喋りしてる! 可愛い!! 大きくなったのね!!」



 確か前回リンファ様にお目にかかった時は、まだ座ることもできない赤ちゃんでしたか。リンファ様の目をみはる成長と可愛らしさにシシィ様は悶えられていた。その後ろでぼそりと文句を呟かれる、シユ様とシア様。



「僕らの時と態度が違う……」

「僕らの時より嬉しそう……」


「……シユ様、シア様。悔しいからといって、リンファ様をいじめてはいけませんよ」



 あまりに恨めしい目つきをされていたので、思わず口出ししてしまった。しかしそれは杞憂だったようだ。



「そんなことしねぇよ。リンファは世界一可愛い妹だから」

「そんなことしないもん。リンファは可愛い可愛い妹だし」



 おふたりはシシィ様と同じくらい、リンファ様のことを大切に思っていらっしゃる。否、溺愛している、と言った方が正しいかもしれない。心優しい少年に成長されたが、シシィ様はおふたりが寄せる好意にこれっぽっちも気づいていらっしゃらないのだろう。



「シシィちゃんいらっしゃい。こんなところで立ち話させてしまってごめんなさいね。シユとシアが迎えに行くって張り切って出て行ったのに、全然来ないからどうしたのかと思って……」


「うるせぇよ母様。今行こうとしてたんだから」

「うるさいよ母様。今行こうとしてたんだもん」



 反抗期丸出しの返事に、チェンシー様は穏やかな微笑みをかなぐり捨ててられた。



「うるさいじゃないでしょう。こんなに寒いのにいつまでも中に入れないシシィちゃんたちのことを少しは考えなさい!」



 チェンシー様の怒りを宥めるように、シシィ様は大丈夫ですよと微笑んだ。



「チェンシー様。今日はお忙しい中、お招きいただきありがとうございます。しっかりと勉強させていただきますね。父は後から参りますので」


「こちらこそ、来てくださって本当にありがたいわ。他の聖騎士家の方々は……やっぱり参加を見送られてしまって。ティアティラのブリジッタ様も直前まで悩んでいらっしゃったのだけど、来られないというお返事をいただいたの。シシィちゃんの知り合いはいないかもしれないけれど、たくさんの人が参加しているから、どうぞ楽しんでくださいね。さあ、中へ入りましょう」



 そうしてチェンシー様に促され、僕らはラオディキヤのお屋敷へと足を踏み入れた。


 よいところの家には、鏡が多い気がする。ラオディキヤ邸も例に違わず、廊下の壁が鏡張りになっていた。鏡が多い理由のひとつに侵入者を惑わせるというものもあった気がするが、大きな理由は鏡が退魔の力を持つ象徴であるからだ。


 そんなどうでもよいことを考えながら歩いていると、横を歩くシシィ様がふと足を止められた。後ろのシユ様、シア様がここぞとばかりに声をかけられる。



「シシィ、どうかした?」

「シシィ、どうしたの?」


「……ううん、何でもないよ」



 シシィ様はすぐに歩き始めたが、何でもないことはない気がする。あとで機会を見計らってシシィ様に訊いてみるとしよう。


 案内された部屋には、たくさんの長机と椅子が並べられていた。部屋の前面には黒板が取りつけられ、町の学校によく似た造りになっている。

座席は既に半分ほど埋まっており、大人から小さな子供まで、幅の広い参加者で賑わっていた。初めての遺物の公開に、


 ぱらぱらと席が埋まってゆき、そのうちに旦那様とハオラン様……ラオディキヤ家ご当主が一緒に入室された。ぎりぎりだが間に合われてよかった。旦那様がシシィ様の隣に座られると同時に、ハオラン様が講義の始まりを告げられた。



 病を封じる家らしく、ラオディキヤ家が保管する遺物は〝病原ヴァイラス〟。先史人類を苦しめた病のひとつなのだという。



「我がラオディキヤに保管されているのは、天然痘と呼ばれた病の原因となるものです。小瓶に入ったそれをさらにクリスタルで覆い、厳重に保管しています。天然痘は蔓延しやすく、人を死に至らしめる恐ろしい病でした。先史人類のたゆまぬ努力の末、天然痘は初めて人類の手により世界から根絶された病となったのです。〝千年王国〟以降は〝神のご加護〟により、人々は病の恐怖から解放されました……現在はなくなってしまいましたがね」



 ちらりと横に座るシシィ様を見る。シシィ様はぴんと背筋を伸ばし、顔を上げてハオラン様の講義に聞き入っていらっしゃった。以前までのシシィ様なら、すっかり寝入ってしまう頃だっただろう。文字どおり、目の覚めるほどに劇的な変化だ。


 そして講義が終わり、遺物を展示している部屋へと移動することになった。廊下へと出て、参加者は列をなしてぞろぞろと歩いてゆく。遺物は少し離れた部屋に保管されているという。



「え……」



 シシィ様が突然、小さく声を上げられた。



「どうしたんです?」


「いえ……少し列を抜けます。アランも来てください」



 ただごとではないご様子だ。目には怯えとも焦りともつかぬ色が浮かんでいる。もちろん、シシィ様おひとりで行かせるわけがない。



「お父様、少しお手洗いに行ってきます」


「僕がついておりますので、旦那様はどうぞお先に」



 少し不自然だったかもしれない。だが、考えている余裕はなかった。僕はシシィ様と共に列を離れ、小走りで遠ざかる。



「何があったんですか?」



 人々の姿が小さくなったところで、僕はようやくシシィ様に切りだした。



「……ルシファーの姿を見かけた気がするのです。さっきは鏡の中に。そして今は、鏡から抜け出して。何だか胸騒ぎがします。ただの見間違いだとよいのですが」



 ルシファー。その名前が出てくるとは思いもよらなかった。確かにこの話は、誰かに聞かれるわけにはいかない。


 僕だけが知る、シシィ様の秘密。シシィ様が抱えるものには及ばないものの、僕はこれまでにない感情を覚えた。金属か何かを飲み込んだような感覚。それはゆっくりと這うように、身体の内部を冷やしてゆく。気持ちが悪い。ああ、わかった。怖いんだ。とても、怖い……



 シシィ様が指さす方へと向かう。あの角を曲がって姿を消したのだとシシィ様はおっしゃった。鏡に封じられたはずのルシファーが、何故鏡を抜け出したのか。ラオディキヤ家で何をしているのか。もうすぐだ。あの角を曲がれば、彼女を――



「あらシシィちゃん。こんなところでどうしたの? 展示室はあっちよ。この先は立ち入り禁止。何人たりとも……この意味、わかるわよね?」



 間の悪いことに、角の先から現れたのはチェンシー様だった。少し厳しい口調と、意味深な言葉からシシィ様も僕も察した。ルシファーが向かったのは、ラオディキヤ家の〝鏡の間〟だと。



「すみません。お手洗いに行っていて、皆さんとはぐれてしまって……」


「そうだったの。じゃあ、お部屋まで私が案内するわね」



 シシィ様の演技で、チェンシー様には怪しまれずに済んだ。しかし最悪の情報を得てしまった。もしもシシィ様が見たとおり、本当にルシファーがあの角を曲がっていたら。鏡に封じられたはずの彼女が、ラオディキヤの鏡に何をしようとしているのか……どうか見間違いであって欲しい。


 フィラデルフィアとラオディキヤの封印が、解けてしまったのではないかと。そんな、悪い考えばかりが浮かんでしまうから。


 

 展示室はすぐ近くの部屋だった。チェンシー様に促され、僕らは展示室の扉を開けた。

 そんなシシィ様と僕が目にしたのは、恐ろしい事態の始まりだった。


 仕切りの向こう側に、黒い円柱が立っている。上にはきらめく小さな塊が載せられていて、あれがきっと、遺物なのだろう。

 人垣でよく見えなかったのか、幼い子が前に立つ子の背を押した。はずみで押された子が倒れ、そのまた前の子もよろめいて……仕切りを越えて、遺物の台座にぶつかった。


 台座は倒れなかった。しかし展示用であるためか、強度は充分でなかったようだ。振動が伝わり、クリスタルがぐらりと揺れる。



 クリスタルが床に落ちた。がしゃん、と無機質な音が響きわたる。

 クリスタルは砕けてしまった。中の小瓶もろともに。



 ――蔓延しやすく、人を死に至らしめる恐ろしい病



 先程の講義がうるさいくらいに反響する。

 〝神のご加護〟は消えてしまった。ということは……その先を考えようとするのを、何かが全力で阻んでくる。


 考えることをやめた僕の身体は勝手に動いていた。同時にシシィ様が叫ぶ。



「みんな離れて!」



 何が起きたのかわからず呆然とする子供たちを、割れてしまった遺物から引き離す。ただならぬ雰囲気に泣き始める子供たち。呆然と立ち尽くす人。事の重大さに気づいた人の悲鳴……



「退きなさい」



 よく響く低い声が、膨れ上がる緊迫感を貫いた。振り返ると、声の主は旦那様だった。ハンカチと何かを手に、険しい顔でこちらへ歩いてこられる。



「……」



 旦那様は無言のまま、手にしたハンカチに火をつけられた。どうやらマッチを持っていらっしゃったようだ。そのまま燃えるハンカチを床に落とす。ハンカチはふわりと開き、破片を覆い隠してしまった。


 燃える。ぱちぱちと、小気味好い音を立ててハンカチが燃える。

 誰も彼もが押し黙り、静寂の中で火は燃える。怯えきった目が、縋るような目が、ゆらめく火を見守っていた。


 そうして火が消えた。同時に安堵したのか、ざわざわと人々の声が蘇った。ハオラン様が急いで皆の退出を促す声が聞こえる。我が子をあやす声が聞こえる。旦那様がシシィ様と僕の手を引き、足早に部屋の外へと向かわれる。



 無言のままで廊下を歩いてゆく。僕は夢の中のような心地だった。ぼんやりとした意識の中で、ふと鏡が目に入る。火が消えて欲しくなかった。そんな考えが突然脳裏を過ぎった。心臓が早鐘を打つ。冷たい汗が流れ出る。喉の奥がきゅっと締めつけられる。


 火が消えて欲しくなかった。だってあれは、皆の希望の火だったのに。

 火が消えて欲しくなかった。けれども火は、消えてしまった……



 まだ終わらない。そんな予感に、僕はぎゅっと目を閉じた。

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