四章 偽装する殺人 2—3
*
井上さんのために、僕は何もしてあげられなかった。
城崎くんだりまで来て、できたのは身元の確認だけだ。
胸をナイフで、ひとつき。
でも、なぜか、井上さんの死に顔は、やすらかだった。
ほんのり笑みをふくんで、幸せな夢を見ながら眠っているように見える。
それが、少しだけ救いだ。
ああ、彼女は許されたのだなと、僕は思った。
ようやく、自分をゆるしてあげることができたのだなと。
「まちがいありません。井上さんです……」
僕は気落ちしてしまって、事情聴取でも、ちゃんと受け答えできたのか定かでない。
でも、この日の悲劇は、これだけじゃなかった。
神様は井上さんをつれていってしまうだけでは、僕のなげきが足りないとでも思ったのか。
そのあと、猛から連絡があった。
「蘭が見つかった」
「えっ、ほんと?」
よかった。蘭さんは、ぶじだった——
そう思ったのも、つかのま、猛の言葉に、僕は打ちのめされることになる。
「たったいま、キョウダイフゾクに送られた」
「きょうだいふ……って、京大付属病院のこと?」
「そうだよ。くそッ。なんで、もっと早く見つけることが——」
兄の尋常でない、うろたえぶりが、ただごとでないと告げている。
「蘭さん、怪我したの? だいぶ、ひどいの?」
猛は数瞬、だまりこんだ。そして、
「薫。落ちついて聞けよ」と、不吉な前ぶれをする。
「蘭は、頭から硫酸をあびせられて……」
硫酸……? 頭から……?
「うそ……だよね?」
「残念だけど、あれじゃ治っても、もとの顔には……」
ウソだ。そんなの。あの蘭さんが。
あの端麗な蘭さんが、そんな……。
ぼうぜんとして、僕は言葉にならない。
猛の声が耳元で続ける。
「おれも今から病院に行く。おまえも早く帰ってこい」
切れた電話をにぎりしめていると、栗林さんが近づいてきた。僕の肩を、そっとたたく。
「いっしょに帰ろう」
ふたたび警察車両に乗せられて、京都市内に帰った。
鴨川ぞいの京都大学付属病院に到着したのは、七時半ごろ。
集中治療室の前には、猛、三村くん、蘭さんのお父さんがいる。
「猛——蘭さんは?」
「命に別状はない。顔にヤケドを負ってるが……」
それを聞いた九重さんが、両手で髪をかきむしった。
「いつか、こうなるんちゃうかと思うとった。蘭、とうとう……」
この年の人が人前で泣くのを見るのは、つらい。
(僕の……せいだ)
どうして、僕は、こうなんだろう。なにをやってもダメだ。
井上さんも助けられず、蘭さんも……。
うなだれていると、集中治療室のドアがあいた。術衣をきた医者が出てくる。
「先生。蘭は——息子は、どないですか?」
九重さんの問いに、医者はポーカーフェイスで答える。
「さきほども言いましたが、命に別状はありません。ただし、感染症にかかると危険です。数日は予断をゆるしません」
「ケガは……だいぶ、ひどいんですか?」
「顔面の修復は、かなり困難をともなうでしょう。数年に渡り、手術をくりかえさなければなりません」
そんなに、ひどいのか……。
なんだか、気が遠くなりそうだ。
「そのことで、お父さんと話があります。こちらへ来てもらっていいですか?」
医者が九重さんをつれて歩きだす。
すると、猛が立ちあがった。
「おれも同席させてもらっていいですか?」
九重さんが承諾したので、三人で歩いていく。
集中治療室の前には、僕と三村くんだけになった。
「信じられへん。あの蘭が……」
そう。あの蘭さんが。
誰もが『あの』と冠したくなる美貌の持ちぬしの蘭さんが、こんなことになるなんて。
重い沈黙。
夜の病院は暗く、ぽつぽつと白や緑の明かりがあるばかり。
まるで現実を逸脱してしまったようだ。もしそうなら、どんなにいいだろう。今日一日のできごとは、すべて悪い夢であってほしい。どこか遠い非現実の世界で起こったことだったなら……。
どれくらいか経って、三村くんのケータイが鳴った。
集中治療室の前で電話……いくらなんでも、マズイんじゃ。
「あかん。切りわすれとった」
三村くんは、あわてて電源を切ろうとして、絶句した。ディスプレイを見つめている。
「三村くん?」
僕が声をかけると、無言のまま走っていった。
変な三村くん。
でも、もう疲れた。なにも考えられない。
僕は一人、集中治療室の緑のランプをながめた。
*
ろうかのつきあたりまで、三村は走った。そこで、もう一度、ディスプレイをながめる。
やっぱり、間違いじゃない。
蘭からだ。
そんなバカな、蘭は今、集中治療室のなかだと考えて、やっと少し冷静になった。
そうだった。蘭のケータイは八波に持ち去られている。ということは、今、これをかけてきているのは、八波だ。
(今ごろ、なんやねん。蘭をあんなんしくさって——)
三村は赤城のように、特別な感情で蘭を見ているわけではない。
たぶん、最初に知りあったのが特殊な状況だったからだろう。
蘭や猛、薫、馬淵や赤城。
あの事件で知りあった人たちには、親兄弟にも近い親近感がある。つらい戦況をいっしょに乗りきった戦友のような。
それに、三村だって芸術家の端くれだ。蘭の美貌は二人として同じものがなかった。比類ないというのは、あのことだ。あれを傷つけることなんて、芸術家には、とても考えられない。モナリザの顔から絵の具をはぎおとす愚か者が、どこにいるというのか。
「八波、きさま!」
ふんがいして、怒鳴りつけた。
しかし——
「三村さんですね」
その瞬間、三村の思考は停止した。
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