三章 呪われるバースデー 3—4
*
蘭が気づいたときには、そこは蘭のマンションではなくなっていた。
見おぼえのない室内。
ベッドが二つ。造りから言って、ホテルのツインルームのようだ。
ベッドの一方に、蘭は寝かされていた。手足をロープでしばられ、さるぐつわをされている。
目の前に八波がいた。
もう一方のベッドにすわっている。ぼうしとコートは、まとっていない。本人のよこに置かれていた。
蘭を見おろしながら、八波は口をひらいた。
「ビックリしたよ。いきなり、なぐりかかってくるなんて。けっこう乱暴なんだね。もう一人の僕は」
言いながら、八波は前髪を耳にかける。そのしぐさを見て、蘭は不愉快になった。それは、蘭のクセだ。
「そんな目で、にらまないでよ。ねえ、蘭。ずっと、こんなふうに、君と話したかったのに」
八波の声は初めて聞くような気もするし、どこかで聞いたような気もする。
八波って、あんがい、蘭さんの知りあいなんじゃない?
薫は、そう言っていた。
(僕の知る人? でも、こんなふうに僕に似たやつなんて、まわりにいたっけ?)
この前から考えてみるのだが、思いうかばない。
遠目に見た印象が、兄と蘭は、よく似ていると、父が以前、話していたが。
(いくら僕が憎いからって、まさかね。兄さんが、そこまでするはずがない)
もちろん、蘭はパラレルスリップなんて信じてない。なので、だまって八波を観察した。
八波の左手の甲に小さなホクロがある。そういえば、蘭の手にも同じところに、似たようなホクロがある。
(兄さんには、なかったはずだよね? よくおぼえてないけど)
じつの兄のことなのに、何もわからない。それほど、兄との接点は少ない。蘭は、むなしくなった。
(とにかく、この状態をなんとかしなくちゃ)
蘭がさらわれるところは薫が見ている。薫が動けるようになれば、猛や警察に伝わる。
救助は、いずれ必ず来るということだ。
ただ、彼らが、まにあわないということも考えられる。
そこは、八波の気分しだいか。
せめて、さるぐつわは外させておきたい。いざというとき、話すことができれば、泣きおとしという手もある。
後ろ手にしばられているので、自分では外せない。
蘭は八波を見つめて、何度か首を上下に動かしてみた。それから、言葉にはならないが、声をだす。
「どうしたの? 蘭。どこか痛む?」
これには首をふる。
「そうか。僕と話したいんだね」
うなずくと、八波は喜んだ。
「いいよ。君が大声だしたり、かみついたりしないなら、それをはずしてあげる」
八波は蘭のさるぐつわをはずした。あまりにも簡単にいったので、ひょうしぬけだ。
そういえば、八波の相棒は、どこに行ったのだろうか。八波一人でなければ、こうはいかなかったろう。
「君の仲間は、どこにいるの?」
たずねると、
「ここにはいないよ。君と僕だけ。だから、ロープはほどいてあげられない。君はまた、なぐってくるかもしれない」
「なぐらないよ。さっきは身の危険を感じたからだ。だって、そうだろ? とつぜん侵入者が背後に立ってれば、誰だって、おどろく」
「まあ、そうだよね。僕はただ、君をここまで、つれてきたかっただけなんだけど」
「つれてきて、どうするつもり?」
「もう一度、ひとつになるんだよ」
「ひとつって?」
蘭は肉体的な意味を想像して、いやな気分になった。
みんな自分の見ためで勘違いするが、蘭は本当にノーマルなのだ。かーくんが女の子だったら可愛かったのに、とは思う。が、それはあくまで女の子だったらという前提のうえだ。
ところが、八波は、もっと異常な意味で、それを言っていた。
「蘭は綺麗だよね。なめらかな肌。西洋人みたいに大きな目。女も男も、みんな、君にあこがれる。今の僕とは大違いだ。昔は僕も、こうだったなんて、だれも信じない。猛さんたちも、だから、なかなか信じてくれないんだ。それでね。もう一度、僕らが一つになればいいんだと思う。そうすれば、僕は君に、君は僕になる」
「まさか、僕を殺して、君も死ぬとか言わないよね?」
「そんなことしないよ」
八波が断言したので、蘭は、ほっとしたのだが……。
立ちあがった八波は、自分のコートをめくった。その下には小型のボストンバッグがあった。
八波がとりだしたものを見て、蘭は絶句した。
まんざら知らないものではない。
いや、むしろ、記憶に焼きついている。いまわしい過去の記憶。
薬品の入ったビンだ。
ラベルには劇薬を示すドクロのマークが入っている。
「これ、わかるよね?」
もちろん、わかる。
一日たりと忘れたことがない。
三年前、ストーカーに浴びせられそうになってから。
「硫酸……だろう?」
「当たり」
蘭は全身の血が足元に下がり、そこから、ぬけおちていくような脱力感をあじわった。
「三年前、君は、これから逃れた。僕は逃れられなかった。僕らの運命は、そこでわかれた。それで、思うんだよ。これを君の顔にかけたら、僕らは、また一つになれる」
蘭は歯をくいしばった。
おびえたら負けだ。
恐怖にふるえ、悪夢にとびおきた日々。
あの三年前に逆戻り。
(落ちつけ。落ちつけ。蘭。考えるんだ。この場をしのぐ方法を)
けれど、現状は絶望的だ。手足をしばられ、身動きもとれない。
蘭の脳裏に、ふと、あきらめがよぎる……。
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