二章 擬態する殺人 3—3

 *


 九重が席を立ってくれて、助かった。でなければ、あの場で、なぐっていたところだ。


(落ちつけ。落ちつけ。駿矢。ここで、あいつと争ったことが証言されれば、あとで不利になる。ここは円満に終わらせるんだ)


 それにしても、いったい、なんだというのだろう。話があると言ってきたのは蘭のほうだ。なのに、昨日と打ってかわって、挑戦的な、あの態度。わざと怒らせようとしてるとしか思えない。


 おれの魂胆に気づいたんだろうか?

 まさか。あのことに気づいてるのは、まだ、おれだけだ。


 どんなに神に祈ったって、沙姫は帰ってこない。

 いつも笑顔にあふれていた、あのころの家庭が戻るわけじゃない。

 むりに笑おうとしても、それは大切な者の喪失の上に切り貼りした、ツギハギでしかない。


 沙姫が死んだとき、自分たち家族の未来は終わったのだ。

 未来は過去の接合の上にしか成り立たないカサブタだ。

 どんなに、とりつくろっても、少しムリしただけで、ひきつれて痛む。そこに傷があることを主張する。そんなのは、ほんとの幸せではない。


 だから、道づれだ。

 こんなことをしても、誰も幸せになれないことは承知してる。

 でも、駿矢たち家族は、すでに不幸だ。何をしたって、何もしなくたって、現状は変わらない。

 ただ自分たち以外の不幸な人間が増えるだけ。


 それなら、仲間が増えたほうがいいじゃないか。

 だって、不幸のなかから、他人の幸福を見あげるのは、とても、つらい。


 九重蘭。君にも前なんて向かず、ただ、ずっと、沙姫のことだけ考えて生きてもらいたい。決して幸せになんてなってほしくない。

 おれたちは君を、沙姫を殺した罪には問えなかった。だが、それなら別の罪でいいから、罰されてほしい。昨日は惜しかった。あのまま第一容疑者になってしまえばよかったのに。


 駿矢が暗い思索に沈んでいると、蘭が、もどってきた。サングラスをかけているので表情は読めない。


「さっきは、すまなかった。つい感情的になって」

 こちらから謝る。

 蘭は、かるく会釈した。トイレで気待ちをしずめてきたのか、態度はやわらかくなっている。

 蘭のあとからトイレに入っていった男が、駿矢のよこを通り、カウンター席に行く。つれの男と二人で外に出ていった。


 本当は言いたいことは、まだまだある。しかし、感情的になっても、しかたない。ここらが潮時だ。


「まあ、そういうことだ。君が憎いかと言われれば、憎いよ。殺すほどの勇気はないがね。だからもう、会わないほうが、たがいのためやろう。さよなら。九重くん」

「あの——」


 駿矢が立ちあがろうとすると、妙に気弱な声で、蘭が呼びとめてきた。


「僕だって、もしも兄が誰かに殺されて死んだら、一生、犯人をゆるせません。だけど、じゃあ反対の立場だったら、どうなんでしょう? 殺されたのが僕なら……。

 少なくとも僕は、十年以上も、兄に他人を憎むだけで生きてほしくないなあ。僕のこと忘れろとは言わないけど、一日でも早く笑って、幸せになってもらいたい。たぶん、兄も、そう考えると思うんですよ。家族のことだから、性格くらい、わかります。

 あなたの沙姫さんは、どうなんですか? あなたが、いつまでも自分の時間をとめて、不幸せでいるのを望むような人でしたか?」


 おれたちの沙姫が、どんな子だったかって?

 それは、もちろん、裏表のない優しい子だったさ。

 復讐なんて、望むはずがない。


 言い返せなかった。

 君に沙姫の何がわかるんだという言葉は、のどの奥で消えた。

 駿矢が沈黙していると、とつぜん、目の前の男がサングラスをはずした。それは、九重蘭ではなかった。


「すみません。さっき、トイレのなかで入れかわって……蘭さんの友だちの東堂です」


 そう言う声が聞こえたのだろう。

 となりのテーブルから、あわてて女が立ちあがった。須永カンナだ。沙姫をいじめていたなかの一人。蘭の名を使って、駿矢が呼びだしておいたのだ。

 駿矢は店を出る須永を追おうとした。が、できなかった。

 目の前で、じっと駿矢を見あげる青年が、そのとき、沙姫とかさなったからだ。


「僕は沙姫さんのこと何も知らないけど、たぶん、そんな人じゃなかったと思う。だって、あなたや蘭さんが、そんなに慈しんだ人だから」


 駿矢は、にぎりしめる手から力がぬけていくのを感じた。

 ポケットのなかで、ナイフをかくし持つ手から……。

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