オタク令嬢の婚約者 ②
「あっちもローズが婚約者だってこと忘れてると思うから大丈夫だよ」
「そ、そうよね。だいたい、だからどうしたって感じだろうしあっち的には…」
ローズマリーに婚約者がいた。なぜかフェリクスはその考えに思い至らずにいた。17歳なら婚約者がいてもいい年齢だ。というか、彼女は貴族ではないが上位の中流階級の家庭だから、親が幼少時に婚約者を決めていてもおかしくはない。
普段なら関わる人間の素性などは根掘り葉掘り執事に調べさせるが、ローズマリーに関しては「昔ちょっと学校で教わった先生のお嬢さん」程度の認識で、それ以上踏み込んで調べていなかった。
正直、オタクに関する情報を吸収することに必死でそれどころではなかったというのもある。あと、なんとなく空想世界以外に価値はない、みたいな彼女の性格的に恋人や婚約者がいる発想が出なかった。
「むしろ私の存在を忘れてる気がする…いまどこで何してるの?」
「知らん…俺んちの骨に聞く?」
「ちょっと買い物行く?みたいなノリで言わないで」
戸惑うフェリクスを放置して、二人はどんどん会話を進めていく。フェリクスは紅茶を飲んで動揺を隠しながら尋ねることにした。
「あの、ローズマリー…婚約者とは?」
こういうときは本当に、常に紳士として振る舞えるよう不自然に見えない取り繕い方を教育してくれた執事には感謝したい。
「え?あ…えーっと…前に、私のオタク趣味を知ってる人が二人いるって言ったの覚えてますか?ひとりはノヴァなんですけど…」
「あぁ…もうひとりが…?」
「そうです。婚約者です。といっても親同士が決めただけで正式なものじゃないし…知ってる人もほぼいない系の婚約ですけど」
正式なものじゃないとは言え、婚約者は婚約者。己の婚約者の家に男が出入りして、しかも「恋人かも?」みたいな噂が流れていたら、普通なら気を悪くするだろう。
「それは…ぜひご挨拶しないと…」
知らなかったとは言え婚約者を蔑ろにしたなんて噂が流れてはたまったものじゃない。絶対執事から半日説教コースだ。
「う、うーん…どこにいるか分からないんで…」
「名前を聞くから生きてるのは間違いないんだけどね…あいつ、すっっっっっごいおかしいから、伯爵がついていけるかなー…」
ノヴァにすらおかしいと言われる。
いったいどういう婚約者なんだと、いろいろな意味で気になってしまった。
と、そのとき。
「やぁローズマリー。今日も変わらず君の庭は美しいね」
いきなり部屋の窓が相手、一人の男が顔を出した。
「……あ!」
ローズマリーがその顔を見て声を上げると、その男は窓を軽々と飛び越えて部屋に入ってきたのだった。
それは、素直に美しいと感じる男だった。
男のフェリクスが見ても分かる。背が高く、整った優しげで大人っぽい顔立ち。前髪も襟足も長めの銀髪。サファイアブルーの瞳。その美貌は誰が見ても称賛するだろう。上品な黒の燕尾服と皺のないシャツ。ネクタイの色や靴の種類など、随所にセンスが見られて、フェリクスはその男になんとなく敵対心が湧いた。
「ちょっと、窓から入ってこないでよ」
ローズマリーに苦言を呈されるが男はそれに答えることなく、フェリクスを見て首を傾げた。
「おや?おやおやおや?珍しい客人がいるね?」
そして大股で歩きフェリクスに近づき、顔をぐっと寄せてきた。
「…ほう、これはまた…間近で見たことはなかったが…やはり君は美しいね、フェリクス伯爵」
「…どうも」
向こうはこちらを見知っていたようだが、フェリクスは彼を知らない。そういうことは慣れていたが、男から至近距離で「君は美しいね」などと言われたのは初めてでかなり引いた。
「挨拶しないと、伯爵はあんたが誰だかわかんないと思うよ、リュミエール」
「おや、ノヴァ。今日も君の骨たちは美しいかい?」
「骨に美しさとか求めてないし」
「そしてローズマリー。君の家は今日も美しいね」
「おかげさまで」
やたらローズマリーの家や庭を褒めるこの男を、フェリクスはもしかして…と思いながら尋ねる。
「もしかして彼が…」
「そうだよ。ローズの婚約者で俺たちの幼馴染のエリゼリヒト・リュミエール子爵」
「エリゼ…え?リュミエール子爵というと、あの?」
フェリクスは驚いて問いかける。二年前、社交界に一躍その名を轟かせた男がいた。その男の名はリュミエール子爵。ごくごく普通の農家に生まれた男だったが、男にしては珍しいほどの魔力を持っており、二年前に子爵の名を貰い貴族になったのだ。
農民から貴族になった男はもう九十余年近くおらず、かなり話題になった…のだが、社交界では彼の名前は聞いても姿を見たものはほとんどいない。かなりの美貌を持っていることだけは噂になったが、神出鬼没の子爵は生ける伝説のような扱いだった。
身なりや振る舞いに気品があるので、それなりの家のものとは思ったが、まさかこんな…………アレが、実力のみで貴族の座を勝ち取った例の子爵だったとは。
「君のような美しい人間に知ってもらえて光栄だね、フェリクス伯爵」
彼は右手で前髪をかきあげ、その右手をフェリクスの方に向ける。いちいち所作が大げさだが、なんとなくその動きからも美しさが滲み出ている。悔しいが、美しい。
「…個性的な婚約者ですね」
「彼は昔から、それはもう美しいものが大好きすぎる性格で」
ローズマリーは盛大にため息をついて言った。
「安心したまえローズマリー。君はごく平凡な人間だが、嘆く必要はない」
彼女のため息を、彼女自身が美しくないことへの嘆きと受け取ったらしいリュミエールがとんでもないことを言い出す。
「あの、子爵?女性にそういうことは…」
「いいんです、伯爵」
フェリクスがフォローしようとしたが、それを遮ったのはローズマリーだった。
「あぁ、そうそう。この部屋の窓枠。いつ見てもガラスと枠との継ぎ目が美しい…時々この家の窓枠が恋しくなって戻ってきてしまう」
深い溜め息をつきつつ、その男は窓に手を添える。意味不明な発言にドン引きするところだが、その構図は妙に様になっていてフェリクスはちょっとイラッとした。
「美しいの基準が窓枠の継ぎ目とかレンガの並び方とか岩の曲線とか、そういうのと一緒くたなんで、この人からはいっそ平凡と言われる方がマシっていうか…」
ローズマリーは何かを悟りきったかのように、遠い目をして言う。
確かに、自分の美醜と岩の曲線や継ぎ目やらの美しさが同列扱いなら、平凡という評価のほうが人間扱いされている感じはある。
「ところでエリゼリヒト、なにしにきたの?」
ローズマリーが問いかけると、リュミエールは振り返る。彼の、耳を覆い隠すサイドの髪は肩ほどまで長く、後ろ髪は肩より長いという珍しい髪型がふわりと揺れ、ついでに窓から降り注ぐ陽の光を浴びて輝く。くせ毛なのかセットした髪型なのか知らないが、毛先はバラついていて不規則に動いた。
それは非常に絵になる振り返りシーンで、フェリクスだけでなくノヴァもローズマリーもその美しさを認めたくないけど認めてしまう微妙な雰囲気になっていた。
「ローズマリー。私のことはリュミエールと呼んでくれたまえ」
「名前でいいでしょ」
「諦めなよローズ。より響きが美しいほうで呼ばれたい系の人だし」
「…で、リュミエールさん。なにしにきたの?」
「ん?窓枠を見に来たんだよ」
「もうこの窓枠持って帰っていいわよ…」
「でも、なんでこのタイミングで?」
呆れているローズマリーの隣で問いかけたのはノヴァだった。
「なんで、とは?」
「だってほら…最後にあったの二年以上前でずっと音信不通だったのに、ローズとフェリクス伯爵が恋人じゃ?的な噂が流れたらタイミングよく現れたから…」
「いや、ノヴァくん?そういう話は…」
フェリクスに恥をかかせよう…などとノヴァは思っていないだろうが、誤解を招く発言だ。慌てて止めに入ったが、リュミエールは「ほう?」と興味深げな様子で彼とローズマリーを交互に見た。
「そんな噂があるのかい?残念だが、噂とは醜いもの…私の耳に届くのはこの世の美しい言葉のみ…」
どうやら、まったく知らなかったらしい。彼は手を額に当て、悩ましげな表情で首を横に振る。
「子爵、ただの誤解なんです。僕とローズマリーは…友達でして」
「私と同じで、伯爵はオタクなの。だからオタク友達なのよ私たち」
ローズマリーが少し嬉しそうに、左手を自分の胸に当てて「そうですよね?」とフェリクスの方を向いて言うので、フェリクスも同意した。
「ほう…ローズマリーと同じ嗜好を持つ理解者が現れるとは…世の中は実に美しくできている」
リュミエールが大げさに目を見開き、そして頷く。実はオタクじゃないので、妙な罪悪感に包まれた。
「しかし配慮が足りませんでした、子爵。このような噂が流れてしまい…」
この男がどんな性格でどのような性癖や趣味を持っていて、どれだけ変わり者かしらないが、子爵なら自分と同じ貴族。反感を買っては今後に差し支えると感じ、フェリクスは殊勝に振る舞う。
そんなフェリクスに、彼は人差し指を立ててそれを左右に振る。
「構わないよ。ローズマリーの婚約者である私が伯爵を招いていることにしよう。それならすぐにそのような醜悪な噂は消えるだろうしね。この子の名誉も守られるだろう」
本来、レディに不都合な噂が立ったなら火消しをするのは原因を作ったフェリクスの役目だ。しかしその役目をあっさり奪われたことで、フェリクスは少しばかり悔しい気がした。
「良いのですか?」
「構わないよ。せっかくできた友達を、このような噂で失うのは気の毒だろう…あぁ、趣味を分かち合う友情か…美しい…」
伯爵と子爵。身分的にはフェリクスのほうが上だが、ノヴァといいリュミエールといい、けっこう上から目線でフェリクスにものを言う。通常の価値観であれば失礼だと感じるものだが、友情を美しがったあたりで「あ、もういいや普通の感覚で接するのはやめよう」とフェリクスは頭を切り替えた。
「そ、そうだ!お茶入れてくるわね!」
ローズマリーが思い出したように両手を合わせて言う。自分のことが話題で困ったのだろう。そそくさと部屋を出ていき、その後を「手伝うー」とノヴァが追いかける。
ここでリュミエールと二人きりにされても非常に気まずいが、客人であるフェリクスが彼女を追いかけることはできなかった。
そしてフェリクスは妙に緊張した。以前、ノヴァと二人きりになった際に「本当にオタクなのか」と疑われた。リュミエールにも疑われる可能性はある。
「まぁ座りたまえ。ローズマリーの入れるお茶は平凡だが、悪くはない」
リュミエールはここが我が家であるかのように、フェリクスに椅子を勧めて自分も勝手にそのへんの椅子に座る。
「…どうも、ご親切に」
「それから敬語は必要ないよ。あくまで私は子爵…堅苦しいことは抜きにしよう」
「……」
彼の言葉に沈黙で同意し、黙って椅子に腰掛けた。
「ところで伯爵。さっきの話だが…」
甘ったるい容貌に優しげな口調から威圧感は感じない。だが、彼の眼光には鋭さがあった。
「さっきの話、とは?」
「ああ、そうだよ伯爵。もしも君が、この噂が不都合ではない…というなら、私も考えよう」
この噂、というのはフェリクスとローズマリーが恋人同士では?というものだ。そして不都合ではないというのは…。
「いや、子爵。どういう意味かな?」
「婚約はいつでも解消できる…。伯爵がその気なら、いつでもローズマリーの婚約者の立場は譲って差し上げよう」
人を馬鹿にしているのか。フェリクスは笑顔が引きつる。
「彼女と僕はオタク趣味という共通点があるだけの友達だ」
「なるほど、共通点…」
本当に共通点があるのか?と、銀色の前髪から覗く深い青色の瞳が訴えているような気がした。
「ローズマリーもノヴァも心根が非常に美しい、私の自慢の友人でね…」
「はぁ…まぁ…」
「彼女たちは自分の心に正直で、謀略とは無縁の人生を送ってきた。そういうことには耐性がないのさ」
彼は足を組んで、椅子の肘掛けに肘をついた。思わせぶりな口調に、フェリクスは段々と苛立ちを募らせる。
「で?子爵。言いたいことがあるならはっきりどうぞ」
強めの口調で促すと、リュミエールの笑みに少しだけ冷たさが帯びた。
「伯爵、君は美しい。その美しさを信じて、今のところは見守るとしよう」
見守るといいつつ、彼はフェリクスの人間性を見抜いて牽制している。同じ幼馴染でも、疑いや懸念をストレートにフェリクスにぶつけてきたノヴァとは全く違う。さすが農民から貴族の称号を勝ち取った男だ。人間の裏表には敏感に違いない。
「…覚えておこう」
そんな子爵をフェリクスは「侮れない男だ」と要注意人物のリストに加えた。と同時に、妙な親近感を持った…のだが。
「ところで伯爵、君の靴。ヒールからアウトソールにかけてのしなり具合が絶妙だが、いったいどこで仕立てたんだい?」
彼は瞳をとても輝かせて人の靴に興味津々になった。さらには自分の靴のヒールカーブにどれだけ拘ったか、この靴を手に入れるために国外を三ヶ月放浪した…と、嬉々として話し出す。
そんなリュミエールの姿を見てフェリクスは投げ出していた足を即座に引っ込めた。親近感は一瞬で消え、別の意味で要注意人物に指定した。
◇
「なんか悪いわね、私のせいで余計なことをさせて」
「日頃美しい家と庭を提供してくれる婚約者が困っているなら助けるのは当然のことさ」
ノヴァと一緒にティーセットを持ってきたローズマリーが言うと、リュミエールはお茶を一口飲み「ふむ、平凡だ」と呟いた。彼女にお盆で叩かれそうになったが、無駄に華麗な動きでそれを止めていた。
「リュミエールもローズのこと、ちゃんと婚約者だって認識して気遣いとかできるようになってたんだねー」
「……………もちろんだとも」
「さっき俺が婚約者だって紹介したから適当に話を合わせてんのかと思った」
「………ふぅ、ノヴァ。君は相変わらず不躾で、そういうところは非常に美しくないね」
リュミエールがため息をつくと、気のせいか…絶対気のせいだろうが、わずかに後光が差し込み彼の周囲の空気がきらきらと光って見えた。そんなリュミエールを尻目に、ノヴァは少し小さい声でローズマリーとフェリクスに言う。
「絶対言われるまで忘れてたよなこの人」
「ノヴァ、この人はそういう人よ。たぶん窓枠が恋しくならなかったら私とノヴァの存在なんて頭から抜け落ちてたと思うから」
「だよねー。俺も子供の頃からこいつは骨の見えない男だと思ってる」
「……伯爵、どうだい?この二人の言い様は…昔からこの二人は非常に変わり者で、私も手を焼いていたんだよ」
三人揃って変わり者すぎる。フェリクスは喉まで出かけた言葉を飲み込み曖昧に微笑んでおいたが、うまく笑顔を作れている自信がなかった。
「ところで伯爵、次の祭日に開かれるベール公爵夫妻のパーティーの招待状をもらったのだけど…伯爵は当然招待されているよね?」
「あぁ…貰ったけど、それがなにか?」
まだ行くかどうか決めていないやつだ。公爵夫妻はどうやら、この物珍しい子爵も招待していたらしい。
「あの湖は美しいと評判でね…私は出席しようと思うのだけど、伯爵も出席するならぜひ頼みたいことがあるのだよ」
「…頼みたいこととは」
「湖をバックに立つ伯爵の姿をぜひ一枚の絵に収めた―…」
「断る」
なんだその悪趣味な頼みは。と、フェリクスは寒気がした。ローズマリーとノヴァをちらりと横目で見ると、二人は「また始まったよ」「キレイなものを一ヶ所に集めるの好きよね」とヒソヒソしている。どうやら常習犯らしい。
「そもそも出席するとまだ決めてないし…」
フェリクスが呆れたように言うと、彼は首を傾げた。
「おや、なにか用事でも?」
「別に。……いや、特にないですよ」
さきほど牽制を受けた名残で少々きつく答えてしまったが、ローズマリーがいることをすぐに思い出し、フェリクスは柔らかい口調に切り替えた。危ない。意地の悪い人間だと思われてはたまらない。ただでさえフェリクスは「気に入らない人間には容赦ない」という噂が流れているのだ。…事実なのだが。
「伯爵!パーティーに行かないのなら、その日は聖地巡礼に行きませんか!」
しかしローズマリーはフェリクスの変化などまったく気にもとめず二人の会話に割り込んで、拳を握りしめながら言った。
聖地巡礼。
「…聖地…巡礼?」
巡礼とは宗教的な行為のひとつで、聖域や聖地を訪れることだ。この国で巡礼の対象と言えば王宮の南にある神殿。そして、かつてこの国を建国した騎士と魔法使いが魔王を封じたとされる「はじまりの地」だ。聖地といえば、まずこの2つのどちらかだが…。
彼女は熱心な宗教信仰者ではなかったはずだ。そして彼女のこの瞳の輝きから察するに…オタク的な何かなのだろう。
フェリクスはボロが出ないよう、必死で頭を回転させ「聖地巡礼」が何かを解き明かそうとした。が、オタク情報を次々と仕入れてくる優秀な執事もまだこの言葉は知らなかったので、予備知識がまるでない。
「仲間に聞いたんですが、物語の魔王と勇者が作った食事と同じものが体験できる市場があるんだそうです!」
なんとなく聖地巡礼が意味することを理解したが、不用意な発言を避け「そうですねぇ…」と言葉を濁す。
「本当は『アルメニア王の伝説』っていう物語に出てくる、花びらが水面に浮かぶあのお城の湖に行きたいなーって仲間同士で言ってたんですけど、あそこって私有地だから普通に入れなくて…」
「あぁ、その本は読みましたよ。白い壁と湖に反射する光が美しいあれですね」
彼女の会話に自然とついていけている自分を少々恐ろしく思いながら、フェリクスは聖地巡礼から話題を逸らそうと試みるのだが。
「そうなんです!オタク仲間の間では今一番行ってみたい聖地ランキング5位で!やっぱり伯爵も一度は行ってみたいですよね!?」
余計に食いつかれた。だが、ローズマリーはひとしきり話した後、ハッと何かに気づいたのか恐る恐るフェリクスに尋ねる。
「というか、伯爵は聖地巡礼とかって興味あります…?」
ある、と答えるとボロが出そうだ。だが興味はないと答えてもいいのだろうか。
ローズマリーは「オタクにもお互いに超えてはならない領域がある」ということを心得ている。興味がなくてもオタクでないことはバレやしない。しかしフェリクスはオタクのそんな実情は知らないため、最適解をひたすら探っていた。
「私有地って…実在すんの?その湖」
そんなフェリクスの助け舟になったのが、ノヴァの一言だった。
「ここから馬車で1時間くらいのところに、大きな橋があるでしょ?」
「あー…どんぐりの木が2本立ってる?」
「そう。その先にね、白い大きなお屋敷があるんだけど…屋根が赤くて、キレイなピンク色の花が咲く木が植えてある…」
ローズマリーが「あっち」と指差す。家の中で示されても、その先はただの壁だったが。
「おや?その家なら、伯爵と私が招かれた公爵夫妻の別荘じゃないか」
部屋のカーテンを勝手に広げて縫い目を確認していたリュミエールが唐突に会話に入ってきた。その言葉を聞いてローズマリーが口をぽかんと開けて固まった。
「ず、ずるい!貴族ってだけで聖地巡礼ができるなんて!」
そしてその場に膝をついて崩れ落ち、盛大に嘆き叫んだ。
「ふむ…その聖地巡礼とはどういうものかな?」
リュミエールはフェリクスをを見て問いかける。同じオタクだから分かるだろう、と目が語っていたが、フェリクスは人に説明できるほどそれが何なのかを知らない。
どうする?どう誤魔化す?
と、表面上は笑顔を保ちながら彼の脳内はこの場を乗り切ることに終始した。
「聖地巡礼っていうのはね!」
だがローズマリーがリュミエールを睨みつけ、勝手に解説しはじめた。
「例えば物語の舞台になった場所とか!物語の中に出てきた場所とか!それに由来する場所とか!主人公が食べたお菓子が売っているお店のある場所とか!作者の出身地とか!そういう場所に行くことよ!」
なるほど、オタクたちはそういった場所を「聖地」と呼ぶのか。あとでクロードに調べさせておかねば。
「俺がやってる骨巡りみたいなやつだよねー」
ノヴァが便乗して骨を片手に何かを語りたそうにしたが、墓所でも巡ってそうな雰囲気が見え隠れしたので全員それをスルーした。
ローズマリーは「私も見たかった…騎士が王に忠誠を誓うあのシーンを湖を見ながら妄想したかった…」と床に手をついて嘆いている。そんな彼女の隣にしゃがみ込んだノヴァは、慰めるように彼女の肩にぽんと手を置いた。
「まぁまぁ。伯爵に見てきてレポートしてもらえばいいじゃん。伯爵も、物語のモデルになったその湖が好きなんでしょ?」
ねぇ、とノヴァがフェリクスを見上げる。
「ま、まぁ…好きといえば好きだけど」
まずい。なんだか聖地巡礼する流れになってしまったが、フェリクスは宗教絡みの巡礼はもちろん、オタク的な巡礼などしたことがない。一体何をどうレポートしたらいいのか皆目見当もつかない。
だが、ローズマリーがすがるような目でフェリクスを見てくる。一言ダメだと言えば泣かんばかりの悲壮感だ。泣かせるような言葉は口が裂けても言えるわけがない。
かといってパーティー自体に行かないことにするのも「あの物語が好きなオタクなのに見たくないんだ?」みたいな空気になり、非オタクバレに繋がるかもしれない。しかし安易に承諾して間違った聖地巡礼などした日には、それはそれで非オタクバレの温床になる可能性も……。
なお、別に聖地巡礼の方法に特別な決まりなどはない。しかし一般人のフェリクスには、何かとんでもない儀式のように思えている。
そんなフェリクスの助け舟となったのは、今度はノヴァではなく顎に手を当てて何かを考えていたリュミエールだった。
「ならローズマリー。君もパーティーに出席するかい?」
「はぁ?」
彼女は変な声をあげて、自分の婚約者を見上げたのだった。
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