もしかして:恋 ①
フェリクスは幼少の頃から頭がよく、学校での成績は常に一番だった。もちろん本人のたゆまぬ努力や厳しい執事の助けがあってこそだが、勉強でつまづいたという記憶がほとんどない。
歴史などの暗記物は数回読めば覚えたし、主要な外国語は日常会話レベルなら問題ない。数学にも強かった。読書は特別好きではないが、文学の授業で困ったこともないし、科学や物理もすぐに理解した。もちろん、音楽や美術やスポーツもそつなくこなしてきた。その頭の良さは学校でも社交界でも存分に発揮され、伯爵家の一人息子としてはわりとイージーモードだと本人は思っている。
そんなフェリクスだったが、二十年目にして挫折を味わいそうな問題に直面していた。
「ではフェリクスさま、ここで主人公のライバルはなぜこのような発言をしたと思いますか?」
「それは…再会した主人公が強くなっていたから、驚いて」
「なぜです?」
「なぜって、このセリフの前にライバルが主人公に久しぶりと言っている。さらにこのライバルは主人公のことを弱いと思っていたという記述があったから」
「…それで」
「…それで?」
「そのほかには?」
「…いや、ないだろう。ライバルは主人公が強くなっていたことに驚いた。それ以上でも、それ以下でもないと思うが」
「…フェリクスさま、違います。それではただの読書感想文です」
フェリクスと同い年の執事であるクロードは、表情を崩さず主人の間違いを指摘する。
「読書感想文」
「はい、それでは読書感想文レベルです」
よろしいですか、とクロードは本の一文を指で指し示す。
「そもそもなぜこのライバルは主人公の強さに一喜一憂するのでしょうか」
「……書いてないから分からない」
「もっと言うのであれば、なぜライバルはわざわざ会う必要もない主人公に会いに来たのでしょうか」
「……物語の都合上?」
クロードはしばらく沈黙し、本をぱたんと閉じる。
「きっとローズマリー様ならこうおっしゃるでしょう」
彼はフェリクスの目を見て、真顔で言った。
「このライバルは主人公と一度戦ったときのことが忘れられず、いつか再戦するときを心待ちにしていた。ライバルほどのレベルの戦士が、まだ弱い主人公の中にある、いずれ強くなるであろう片鱗を見逃すはずがない。きっと、お前を倒すのは俺だけだと思いながら主人公がここにやってくるのを己の剣を磨きながら待っていたに違いな―…」
「だから、それはいったいこの本のどこに書いてるんだ」
すらすらと抑揚のない声で、クロードは次々にフェリクスの読書感想文レベルの感想ではない何かを紡ぎ出す。そんな彼の言葉をフェリクスは頭を抱えながらさえぎる。
「書いていませんが、ここまで考えるのがオタクというものです」
そうなのだ。フェリクスはいろいろあってローズマリーがオタクだということを知り、ローズマリーに恥をかかせないよう「自分もオタクだ」と言ったのだ。
「オタクへの道は遠いですね、フェリクス様」
そしてこの家の執事長(クロードの父親)の「レディに恥をかかせるのは紳士失格」という判断のもと、フェリクスが実はオタクでないとバレないためこうしてオタクになろうとしているのだ。…この時点でなにかがおかしいが「嘘を本当にするのが紳士だ」と言われてしまえば、フェリクスにも貴族としてのプライドはある。
ローズマリーの前では立派にオタクとして振る舞ってみせよう。…と思い、クロードに手伝ってもらいつつ、日夜こうして紳士や淑女は読まないタイプの小説を読み漁りボロが出ないように訓練しているのだが…。
「こんなにも奥深い世界があったとは…」
フェリクスは前髪をかきあげて深くため息をついた。別にロマンス小説や冒険譚を読むことにも、それを好む人達にもまったく抵抗はない。そしてオタクというものが存在することも知っているが、フェリクスは別に偏見は持っていない。少し変わった趣味を持っているだけで、自分と同じ人間だ。…と、ローズマリーに出会うまでは思っていた。
だが、オタク趣味とは、彼が今まで出会った数々の学問と比べても格別に難解なものだった。
ともあれ、今日もこれからローズマリーと会う約束をしている。あちらはこっちをオタク友達と思ってくれているのだ。彼女を幻滅させないよう、しっかりとオタクとして振る舞わなければ。
「…ところで、前回は手土産として、レディの間で人気のお菓子を持っていたが…今回はどうしようか」
フェリクスは、若くても有能な執事に尋ねる。あくまで友人同士の付き合いとはいえ、女性を訪ねるのに手ぶらは紳士としてありえない。しかし毎回自分で考え、自分で用意するのは手間がかかるのでたいてい執事に任せている。
「すでに用意してありますので問題ございません」
クロードはそう問われることを見越していたのか、さっと今回の手土産をフェリクスに差し出す。それはごくごく普通のお菓子の詰め合わせだった。どこにも売っていそうな…。
「…こんな子供っぽいお菓子の詰め合わせでいいと思うのか?」
「はい、そちらのお嬢様には、高級なお菓子よりもきっと喜ばれると思います」
無表情で淡々と語る執事に、フェリクスは一抹の不安を覚えつつローズマリーに会いに行った。
「伯爵、こんにちは!」
ローズマリーを訪ねると、彼女は先日フェリクスが貸した本を抱えてフェリクスを出迎えた。
「どうも、今日もお菓子を持ってきましたよ」
フェリクスが手土産を差し出すと、ローズマリーは「ありがとうございます」と普通に受け取る。相手が相手なら、こんな子供っぽいものをよこすなんて気が利かない伯爵だと思われるだろうが、ローズマリーはそのお菓子の詰め合わせをしばらく見つめ、ぱっと表情を輝かせた。
「伯爵、このクッキーとチョコの組み合わせ…!」
空想の世界にしか興味のなさそうなローズマリーだが、お菓子でも喜ぶあたり、普通の女の子らしい一面もあるのだなと思った。そして、高級なお菓子や人気のお菓子でなくとも喜んでくれる素朴さが新鮮に映った…のもつかの間。
「この前伯爵と読んだあの物語に出てきたお店のクッキーとチョコ!」
「は?」と、紳士らしからぬ言葉が口から出てきそうになったが、なんとか言葉を飲み込んでフェリクスは曖昧に微笑む。よく分からないとき、想像していなかったことが起きたときなどは曖昧に笑って流すのが無難だ…ということを二十年の貴族スキルで彼は知っていた。
「そう!そうなんですよ伯爵!私これがずっと気になっていて…ファンの間では大通りにあるクッキーのお店が、物語のお店のモデルって言われてるんですよね!」
ですよね!とフェリクスのほうを見て、とても良い笑顔を浮かべたローズマリーは同意を求める。
いや、知らないけど、まぁ彼女が言うならそうなのだろう…と、フェリクスはまた曖昧に微笑んでごまかす。どうやらこの前読んだ物語に登場したお菓子のお店は、実在するお店をモデルとしていたようだ。
(なるほど、クロードはこの情報を知っていて、手土産にこれを選んだのか)
有能だ。我が執事ながら有能すぎて本来なら褒めなければならない…のだが「あいつはいったいオタクでもないのにどこまでオタクのことを知っているのだ」と軽く嫉妬すら覚えてしまう。
その後フェリクスは、ローズマリーから「あのシーンはどこそこの橋がモデルだ」とか「主人公の瞳の色にそっくりな石のペンダントがあって買ってしまった」とか「テディベアに登場人物の服を作って着せ替えるのだ」といった話を聞いて、物語に登場するものを現実世界で「モチーフ」として楽しむ方法があることを知ってしまった。
そしてけっこう、現実の世界をそんなふうに楽しむは悪くない―…と思ってしまった。
「さっそく食べましょう!伯爵、こちらに座ってくださいね」
「…ところでローズマリー嬢」
「伯爵、私のことは呼び捨てで呼んでくださいと言っているじゃないですか!」
友達なのに、と彼女が残念そうに言うので、
「では僕のことも呼び捨てで」
「あ、それはちょっと難しいので遠慮します」
と、フェリクスも距離感を縮めようとしたら、手を横に振る否定のしぐさも添えて返される。ローズマリーはとても律儀で、伯爵相手に失礼なことはできないと思っているようだ。その律儀さは好ましくもあるが、少しばかり寂しい感じもした。
「で、なんでしょうか?伯爵」
「え?」
「さっき私に、ところで…と言ったので」
「あぁ…ところで、ローズマリーのこの趣味を知っている人は他にいないんです…よね?家族にも内緒で?」
クッキーから食べるかチョコから食べるかで悩むローズマリーは、フェリクスに問われてしばらく固まる。
「あー…いえ、二人います」
いるのか。と、フェリクスは思わずツッコミを入れたくなった。ローズマリーから、フェリクスは初めてオタクの話をできる友人だと聞いている。だから匿名の趣味の集まりで出会う人以外に、この趣味を知っている人間はいないのだろう…と勝手に思っていた。
「それは…ご家族とか…」
「いえ!親はぜんっぜん知りません。だいたい知ってたら私はもうこの家にいられない…知り合いには、オタク趣味が親にバレて勘当された子もいるんですよ!」
「それは…隠さないといけませんね」
「でしょう?もうオタクバレしたらこの家を追い出されて本を読むこともできないかもしれないと思うと…」
「…では、その二人は、僕のようにオタクなんですか?」
「あ、違います。オタクじゃないです。ただ私の趣味を知ってるだけで」
「へぇ…学校のお友達とか…ですか?」
「まさか!学校の友人にバレたらもう退学してこの街を…いえ、この国を出ていかないと…」
ローズマリーが身震いしながら言う。フェリクスが思っている以上に、ローズマリーは一般人にオタクバレすることをこの世の終わりと感じているようだ。これは、フェリクスも自分がオタクではないとバレないようにしなければ、彼女が死ぬかもしれないと危機感を覚えた。
「でもその二人にはバレても平気なんですね?」
「あ、えぇ、まぁ…すっっっごく変な人達なんで」
「へぇ…」
ローズマリーから見てもすごく変な人とは、いったい。
「小さい頃から一緒に遊んでて、私が本を好きなのも知ってて、その延長というか。でも向こうはオタクじゃないし小説に興味ないから、こういう話はできないんですよ…昔は絵本とか読んでたのになぁ…」
ローズマリーはがっかりしたように呟く。成長するにつれて、自分と周囲が徐々に離れていく感覚は、フェリクスも覚えがあった。
「それは残念ですね。僕のような男より、女の子同士でこういう話ができる友達がいるほうが楽しいでしょうし」
「そんなことないです!伯爵と話すのとっても楽しいですよ!まるで論文を読解しているような感覚で、すっごく新鮮なんです!」
座っているローズマリーがテーブルに手をついて身を乗り出し、そう力説する。論文を読解、と言われてフェリクスは、クロードから「読書感想文レベル」と言われたことがよみがえり冷や汗をかいた。ローズマリーはフェリクスのことを「なんか違う」くらいには感じているらしい。やはり、オタクの世界は侮れない。
「それに、その二人は女の子じゃなくて男ですから、性別は関係ないです!」
ローズマリーはさらに身を乗り出し、力説する。男でも女でも関係ない、フェリクスがお友達で嬉しい…ということを必死に伝えようとしているだけだが…。
(男。へぇ、男か…)
それも二人も。フェリクスの中に、なにか霧がかかったような、もやっとした感覚が生まれる。それがどういう感覚か、フェリクスにはよく分からなかったが。
「あ、よかったら会っていきます?このあと骨を取りにくる予定のはずだから…」
「骨?」
ローズマリーがものすごくあっさりと言うものだから、フェリクスは一瞬自分の耳を疑った。骨が、なんだって?…と。
「ローズ、なにしてんの?」
突然、フェリクスたちがいた部屋の窓があいて、一人の男が顔を出した。フェリクスが誰だろうと尋ねる前に、その男はそのまま窓から入ってきた。
「入るならせめてドアからにしてって散々言ってるのに…」
「玄関まで回るのめんどい…」
ローズマリーの発言から、不審者でないことはわかる。その男は、少し眺めの茶髪は寝癖で跳ねていて、寝起きのように皺の寄ったシャツは裾がズボンからはみ出していて、顔も眠そうで…なんだか見ているこっちが睡魔に襲われそうな男だった。
「ごめんなさい伯爵、彼は…」
ローズマリーがその男を紹介しようとしたが、それより先にその男はフェリクスのことを頭の先から爪先までじろじろ見て、言った。
「随分と"そこそこな骨"をつれてきたね、ローズ」
意味不明すぎて、それがフェリクスを褒めたのかバカにしたのかさえ分からなかった。ものすごく意味がわからない…という感想しか浮かばないくらい、フェリクスには彼の言葉が理解できなかった。
「ノヴァ!伯爵は私の大切なお友達よ!そうやって骨で判断するのはやめて!」
「あの、ローズマリー…?そちらの…ノヴァ…さん?は?」
フェリクスは骨という言葉に動揺したが、とりあえず挨拶をしようと椅子から立ち上がり上着の襟を正し、嫌味のない笑みを浮かべて紳士的に振る舞った。
「ノヴァは私の一つ上の幼馴染で……私の父と彼の父が親友で…それで、えーっと…」
ローズマリーは言葉を探っていたが、ノヴァが「別に言ってもいいよ」と言うと、ため息混じりに言った。
「骨が好きなんです。子供のころからずっと」
どう返事をしていいか分からずフェリクスが黙ってしまい、数秒間、部屋に沈黙が訪れた。そしてそんな気まずい空気をやぶったのは、その骨が好きなノヴァだった。
「俺的にはたぶん、前世から好きだった気がする。っていうか前世は骨が希望」
「……そうなんですね、はじめまして。私は…」
「知ってる。フェリクス伯爵でしょ。有名人じゃん」
眠そうな顔の男はフェリクスを一瞥して、眠そうな声で言った。
「で、いつの間に家に連れ込むような彼氏ができたのさ、ローズ」
「違うわよ!言ったでしょ!お友達!伯爵は私と同じでオタクなの!」
「へー……良かったじゃん、念願のオタク友達」
「まったく…あ、そうだ。頼まれていた骨の標本、いま持ってくるから」
ローズマリーはそう言って、フェリクスとノヴァを残して部屋を出ていく。彼氏と間違われたことや、オタクだと紹介されたことなど、色々と言いたいことがあったが、それより骨の標本ってなんだという気持ちが強かった。
「ローズのお祖父さんが研究者でさー。いろんな標本持ってるんだよね~」
けだるい声で、フェリクスの心の中の疑問に答えるかのようにノヴァが呟く。とりあえずフェリクスは彼との会話を試みることにした。さすがローズマリーが変と言うだけあって、確かに変だ。しかしローズマリーの幼馴染なら、仲良くしておかねばと考えた。
「…骨がお好きとは、珍しいご趣味ですね」
「なんかさ、落ち着くんだよね骨を見てると…あの飾らない感じがいいっていうか。わかる?」
分からないし、あまり分かりたくないので「そういう方もいらっしゃるでしょうね」と適当に返して微笑んでおいた。するとノヴァは眠そうな目をまっすぐフェリクスに向ける。
「…あんた、オタク?」
「…まぁ」
「ローズと一緒で、隠れオタク?」
「……まぁ」
隠れオタク、という言葉が存在することは知っていたが、改めて言われるとかなり破壊力があるな…とフェリクスは思う。
「…本当はオタクじゃないんじゃない?」
ゆるくてだるくて眠そうな声で話していたノヴァが、その一言だけはやけに強めの声で言った。だからフェリクスは咄嗟になんと返していいのか分からず、言葉につまってしまった。
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