オタクになるのは難しい。
「伯爵、もうあの新刊を読んだんですか!?」
「えぇ、まぁ…よければ貸しましょうか?今日ここに持ってきているので」
「ぜひ!」
陽の光が温かい昼下がり。フェリクスはティーカップを片手に笑みを絶やさず心の中でつぶやく。よし、いまのところ話題にはついていけてるぞ、と。
ローズマリーの自宅に招かれ、山ほど積み上げられた本に埋もれながら、かれこれ3時間。フェリクスはローズマリーが意気揚々と語る本の感想やら彼女独自の行き過ぎた解釈に耳を傾けていた。
こうなったのは数日前、ローズマリーとたまたま出会い、たまたまローズマリーがオタクだということを知り、そしてフェリクスに必死にオタクであることを内緒にしてほしいと懇願するローズマリーに対してつい「自分もオタクだ」と告げたからだ。
彼のことをオタク仲間と認定したローズマリーに「友達になってほしい」と言われ、レディの頼みを断るという発想のなかったフェリクスは二つ返事で承諾した。ついでに「後日会いたい」という彼女の頼みにも応じた。レディからの申し出を断る紳士などいない。フェリクスはもちろん承諾した。
彼にしてみればたまたま出会った少女に恥をかかせないため、適当に話を合わせただけのこと。だが、家に帰ってから事態は思わぬ方向に動いてしまった。
フェリクスはそのときのことを、ローズマリーの「魔王は台所という場所に対して並々ならぬ執着があるのでは」という独自論を聞きながら思い出していた。
◇
「朝帰り、ご苦労さまですフェリクスさま」
あの日、夜明けに前にローズマリーに出会ったフェリクスは、夜明け前に家を出てあの場にいたわけではない。朝帰りの途中であの場を通ってローズマリーに出会った。だから家に帰ると執事から盛大な嫌味で出迎えられた。
「朝帰りじゃないよ、クロード。ちょっと帰るのが遅くなって朝になっただけだ」
フェリクスの冗談に、彼と同い年の執事は無表情で「そうですか」と一言。この無表情で口数の少ないクロードは、曽祖父の代からフェリクスの家に仕えている執事の家系だ。現在は彼の父親が執事長で、クロードとは赤ん坊の頃から一緒に育った。にもかかわらず、正直クロードが何を考えているかフェリクスにはあまり分からない。
「ところで今朝、珍しい女の子に出会ったよ」
「次の彼女候補ですか」
「違う。というか彼女はいたことがない」
「失礼しました。次の火遊び相手ですか」
「そんな遊びはしたことがない」
ときどき思う。クロードは自分のことが嫌いなのではないか、と。
「次の休みの日に会うことになってね」
「そうですか。どのようなご令嬢で?」
そう問われて、フェリクスはしばらく考える。ローズマリーは、自分がオタクであることは内緒にしたいようだった。なら、ここで執事に話すのはまずいだろう…と。
「まぁ、普通の女の子だよ」
フェリクスがそうやって言葉を曖昧にすれば、クロードはそれ以上は追求してこなかった。少なくとも、クロードは。
「どこで出会われたのですか?フェリクス様」
クロードとは違う、低くて大人びた声が背後からした。振り向くと、いつの間にいたのか、そこには別の執事が立っていた。
「やぁクロヴィス、おはよう」
「父上、おはようございます」
フェリクスとクロードは一緒になってその人物に挨拶をする。精悍な顔立ちで、黒い髪は一本も落ちてこないよう前髪から襟足までしっかりセットされ、衣服も乱れひとつなく整えられた40代ほどの男性。彼は二人に挨拶をされると、ちらりとクロードを見た。
「クロード、前髪が乱れている。出直してきなさい」
「はい、父上」
クロードが頭を下げてその場を離れる。彼の黒い髪は短く切られており、直すところなどあまりないように思った。が、フェリクスが帰ってくるのを寝ずに待っていたのだろう。確かにいつもより少々前髪が乱れていた。
そんな些細な変化も見逃さないクロヴィスがフェリクスに向き直り、厳しい目を向ける。彼はこの家の執事長で、クロードの父親だ。フェリクスにとっても父親と変わらない年齢で、昔からとても厳しく躾けられてきた。クロードと違い、冗談が通じない相手だ。
「で、伯爵。こんな朝早くに誰と、いつ、どこで、どのように出会われ、次の休日にどこでお会いになるのですか?」
有無を言わさないオーラで彼はフェリクスを尋問した。オタクであることを言ってもいいのだろうか…と、まだ迷ったが、まぁ彼なら秘密を漏らすことはないからいいかと、今朝あった出来事やローズマリーのことを話した。
「なるほど…物語の世界を愛でるのがご趣味なご令嬢なのですね」
一通り話を聞いたクロヴィスは、当然だがローズマリーの趣味を軽蔑するようなことは言わなかった。そしてしばらく考え込み、フェリクスに言い放ったのだ。
「でしたらフェリクス様。あなたも正真正銘のオタクにならなければなりませんね」
「…は?」
確かに、自分はローズマリーにオタクだと言った。あれはローズマリーに恥をかかせないためであって、自分自身はオタクでもないし、オタクになるつもりもない。ローズマリーと会う約束はしたが、適当に話をあわせて彼女とお友達になればよいと思っていた。
だが、この有能な執事は少々考えが違ったようだ。
「フェリクス様、ここへ」
そういって彼はフェリクスを、よく磨かれた大きなテーブルの前に座らせる。そしてフェリクスに、ローズマリーがどんな本を持っていたのかを聞くと立ち去る。きっかり15分後、クロードとともに大量の本を抱えて戻ってきた。
どさり、と重たい音をたててフェリクスの前に本が積まれる。
「そのご令嬢が手にした新刊、現在は5巻ほど出ているようです。まずはこれを読破なさいましょう、フェリクス伯爵」
「は、はぁ…?」
「次に、その界隈でいま人気の本を探してきました。こちらもご令嬢に会うまでに網羅しませんと」
「ど、どこからそんな情報を…?」
矢継ぎ早に本を差し出してくるクロヴィスに、フェリクスは慌てた。フェリクスはもちろん、クロヴィスもクロードもオタクではないのだ。何が流行っているかなどわかるはずもないのに。
「それならクロード経由で調べさせました」
「メイドに聞きました。彼女たちの情報網は優秀です」
メイド、怖い。フェリクスは顔をひきつらせた。
「ちょっと待ってくれ。僕はオタクじゃないし、別にオタクになるつもりはないんだが…」
「……フェリクス様」
有能な執事は、どこから取り出してきたのか定規を持ち、ソファの端をピシャリと叩いた。クロヴィスは怒るとき、よくこれをするのだ。
「そのご令嬢…ローズマリー嬢は、あなたのことをオタクだと思っていらっしゃる。間違いありませんね?」
「あぁ」
「あなたと、オタクとして話をできることを楽しみにしている。間違いありませんね?」
「あ、あぁ…」
「そしてオタクであることは是が非でも隠したいと思っていらっしゃる。…これも間違いありませんね?」
「…あぁ」
「もしもフェリクス様が、実はオタクではなかった…とバレたらどうするのです?」
「どう…と言われても」
「ご令嬢に、恥をかかせる気ですか?」
女性に恥をかかせるのは紳士失格。それが常識だった。
「いや、バレないようにすれば…」
フェリクスは「なにもそこまで」と思って言ったが、横からクロードがすばやく口を挟んできた。
「バレます。絶対。フェリクス様が思っていらっしゃるほど、オタクという方々は甘い人たちではありません」
いったいクロードはオタクの何を知ったんだろう、とフェリクスは思った。
「そもそもなぜ、ご令嬢に自分はオタクだなどと嘘を言ったのです」
「それは…」
「まさか適当に話を合わせてお近づきになりあわよくば…というお考えではないですよね?」
「当然だろ!」
クロードといい、自分を子供の頃から親と一緒に育ててくれたこのクロヴィスといい、なぜかフェリクスを女遊びする人間のように扱ってくる。まぁ、女の子と仲良くするのは嫌いではないし、誘われて断ったこともあまりないが。こっちも一応、家柄が家柄だ。変な遊びはしたことがない。
「それは結構です。もしそのような下心をお持ちなら、私は伯爵家の恥を背負って首をくくらなければなりません」
「そこまで言うか」
執事は片手で持った定規をもう片方の自分の手にペシペシと数回当てて、よく通る厳しい声で言った。
「レディについた嘘は本物にする。それが紳士というものです」
非紳士的な行動を取ることに人一倍厳しい執事に言われ、フェリクスはしぶしぶローズマリーが欲しがった本を1巻から読むことにした。
「クロード、お前も手伝いなさい」
「はい、父上」
本くらいフェリクスひとりで読めるが、情報を頭に入れるためクロードもロマンス小説を読むことになった。二十歳の男二人が顔を突き合わせてロマンス小説を黙々と読む…というなんとも奇妙な光景が伯爵家の一室に描かれることとなった。
「…そのローズマリー嬢は、可愛いのですか?」
「は?」
魔王が伝説の料理を作るためレシピを知っている姫をさらい、勇者が姫を助けるため魔王に占拠された台所に乗り込むあたりまで読んだところで、クロードが唐突に話しかけてきた。
「………。失礼しました。フェリクス様は、美醜で人を判断するかたではありませんね」
しばらく無言でいたクロードは、嫌味なのか何なのかよくわからないことを言って本に目を戻す。
「そういう、気になる言い方はやめてくれ」
「……いえ、ただ珍しいと思いましたので」
だから、何が珍しいのだ。いつもより口数が多いクロードの言葉は気になったが、ちょうど今読んでいるこの本の勇者のセリフがいちいちかっこよくて、フェリクスはクロードの発言をそれ以上追求することなく読書に集中した。
気がついたら、ローズマリーが夜明け前から並んで手に入れたこの「魔王と勇者の食卓」を新刊まで読破していた。正直、とてもおもしろかった。
◇
そんな数日前のやり取りを思い浮かべつつ、フェリクスはローズマリーと同じ本の話題で盛り上がっていたのだが…。
『フェリクス様が思っていらっしゃるほど、オタクという方々は甘い人たちではありません』
若い執事の助言は、その通りだった。
「3巻目の、勇者が親友と手を組んで新たなレシピを開発するシーン、素敵ですよね!」
ローズマリーは3巻を片手に意気込む。
「ええ、レシピを再現するシーンなど、実際の調理法に基づいてよく作り込まれていると思います」
「そうなんです!きっと勇者と親友はこのレシピを開発するための1週間、なんども意見をぶつけていたに違いないです!」
(そんな描写は一文たりともなかった気がするが…)
そこのシーンは「勇者とその親友はレシピを開発するために修行に励み、ついに新たなレシピを作るに至った。」というたったの一行。勇者やその親友が何を思ったかなどは書いていない。
とりあえずフェリクスは紅茶を飲みながら笑顔で頷いてごまかす。
ローズマリーはしばしばこのような発言をする。描写されていない場面をあたかも存在したかのごとく話すのだ。
「というのもですね、この勇者と親友は1巻のころから、こうやって一緒に何かをしようとするたび、意見が食い違って喧嘩するんです…なので今回もきっと―」
しかも、現在のシーンと何の関連もなさそうな描写から「ここはこうに違いない」と推察までしてくる。
(クロード…確かに、オタクは甘くはなかった…)
ここ数日で、結構な量のロマンス小説や冒険譚やよくわからない本も読んだ。わりとオタク的な何かになれたと思っていた。
しかしローズマリーとこうして話していて、ひしひしと感じる。
―…自分がオタクになるのは難しいのではないか。
だが、今更実は自分はオタクではありませんでした、などとは言えない。そんなことを言ったら「女性を騙した男」というレッテルを貼られてしまう。
ローズマリーは、自分がオタクであることをバラされるとびくびくしていたようだが、実際にそんなことをしたら…ローズマリーの名誉は失われるだろうが…それよりフェリクスのほうが痛手を被るのだ。身分の低い女子に手を出し秘密をあばく最低最悪な伯爵…みたいな感じで。
「あら、もうこんな時間」
ローズマリーが時計を見て驚きの声をあげた。もう5時間は経っている。フェリクスも時間が経っていることを忘れていた。
「ではそろそろ失礼しますね」
「はい!あの、フェリクス様…」
ローズマリーは組んだ両手をせわしなく動かし、うつむいて恥ずかしそうにフェリクスに話しかける。
「なんでしょうか?」
フェリクスは正直なところ、かなりモテる。身分が良ければ見た目もよく、頭もいいとなれば、好意を向けられることは数え切れないほどあるのだ。それはフェリクス自身も自覚している。女性のこういった反応は珍しくなく、慣れていた。
そう、慣れすぎていたので「ローズマリーも自分に対して照れている」と勝手に思い込んだのだが…。
「…し」
「し?」
「し、新刊を貸してくださるという約束は…」
あぁ、そういえば言った。伯爵家のツテで手に入れた昨日発売されたばかりの新刊を、ローズマリーはまだ手にしていなかった。頭の中で、自分に好意を向ける女性に対する別れの挨拶を自然と考えていたフェリクスは、一瞬にしてそんな自分を隅に追いやり、オタク的な自分を引っ張り出す。
「失礼、つい忘れるところでした。とてもおもしろいシーンがあるので、きっと満足できますよ」
フェリクスが新刊を渡すと、ローズマリーは目を輝かせる。
本日、一番の輝きを放っていた…ように見えた。
「あ、これはいつお返しすれば…?」
「次に会うときでいいですよ」
「次も会ってもらえるんですか?」
ローズマリーがものすごくびっくりした顔でフェリクスに言う。そしてフェリクスも自分の発言に驚いていた。自分は彼女に会うつもりだったのか、次も…と。
「…当然じゃないですか。僕たちは友達なんですから」
そう、友達になったのだ。一回だけ会ってそれきりは少々まずい。縁を切るにしても徐々にフェードアウトしなければ、彼女にも失礼だ。
ローズマリーは「次はいつにしましょう!」と興奮気味にカレンダーを持ってきた。その姿を見て、子犬か何かみたいだなとフェリクスは思った。
そしてフェリクスは家に帰り、次は三日後に会うことになったとクロードに告げた。
すると若い執事は無表情で言う。
「新記録ですね、フェリクス様」
「…なにが新記録なのか聞いてもいいか?」
「フェリクス様は、たらしこんだご令嬢とはいつも一度しか遊びに行かれませんので」
「別にたらしこんでいないよ。いつも向こうのほうから寄ってくるから紳士的に対応しているだけで、遊んでいるわけでもない」
「そうですか。先月お会いになった伯爵令嬢から、お手紙が届いていますが」
「……そんな手紙は届かなかった。いいね?クロード」
執事は主人の命には絶対に従う。フェリクスが言うと、クロードは頭を下げて去っていった。
夕食までに何をしようかと部屋を見渡し、ふとテーブルに積み上げられた本を見ると、ローズマリーの嬉しそうな顔が思い浮かぶ。まぁ、三日後までに少しでもオタクらしくなっておこうかと、本に手を伸ばした。
一方その頃、ローズマリーは部屋で新刊を読みながらベッドの上でのたうち回っていた。
「ああああ素敵!素敵!素敵以外の言葉が思いつかない!このシーンのヒロインとヒーローの再会のシーンが素敵すぎる!」
初めてできたオタク友達と会話し、そして新刊まで貸してもらった。
(オタク友達…なんて素敵な友達なのかしら!)
新刊も素敵だが、フェリクス伯爵という名のオタク友達と過ごした数時間は夢のような時間だった。
だが、ローズマリーは彼に少しばかり違和感も感じていた。
(秘密結社の子たちと話すときと、フェリクス様と話すときは、なんか違うのよね…)
オタクが匿名で集まる秘密の会。そこで物語について語らう時は「そうそれ!」「あるある!」「深い!闇が深い!」みたいな感想が飛び交うことが多い。
しかしフェリクスと話す時は、まるで学校の先生から与えられた論文について意見を交わしているような…そんな感じなのだ。
フェリクスからは、物語に対する熱をあまり感じないと言うか…。
(…もしかして)
ローズマリーはハッとして飛び起きた。
「フェリクス様は、物語を人と共有するより、うちに秘めるタイプかもしれないわ」
ローズマリーも、読む作品によっては「ちょっとそれは人と話したいのではなく、自分の中でしっかり熟考して噛みくだき妄想に浸りたいのだ」ということがある。
また、フェリクスは伯爵というだけあって対応は紳士的で、あからさまにこちらを否定してくるようなことはないが、当然ながら解釈違いも存在するだろう。
「オタクだからといって、距離感をあやまるのはよくないわね…」
腕を組んで考える。せっかくできたオタク友達。突っ走ってはいけない。次に会う時は、物語の話ばかりではなく、普通の会話もするようにしよう。
意気込んだローズマリーは、ふと思った。一般的に、女子が伯爵とする普通の会話って、どんなのだ?
考えたが思いつかず、とりあえずこの新刊のヒロインとヒーローの距離感を妄想しようと心に決めた。
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