第18話 清掃
聞いているだけで、こっちがみじめな心境になってしまうような会話内容だった。新聞に書かれているような日常的な漢字ならば問題なく読める私は、教養としてはマシな方なのかもしれない。エンターテインメント中心とはいえ、それなりに読書をしている成果といえそうだ。
「……よし、水位下がったから、もう槽内に入っても大丈夫だ。長靴に水が入るからまだしゃがんだらダメだけど。中に入ったらすぐ、バケツに水を汲んでおいてくれよ」
「はい」
「あ、そういえばナイロンタワシ、持ったか?」
「あ、忘れるところでした」
下で待っていた作業員は、タライの中から濃緑色の薄っぺらい物体を取り出す。台所で使うスポンジタワシの片面に貼り付けられている、ナイロン繊維製の固い部分のようだ。若手作業員はそのナイロンタワシを折り曲げて、合羽の胸ポケットに入れる。
スリッパから白いゴム長靴に履き替えた小柄な作業員は身軽にハシゴを昇り、円いマンホールから貯水槽の中に潜り込んだ。槽の上で見守るパンチパーマ作業員が、槽内に入った作業員へバケツを手渡しする。
その時、小田が一歩前に出た。
「すいません。貯水槽の清掃って、どうやってやるんですか? 特殊な洗剤か何か使うんですか?」
問いかけられたパンチパーマ中年作業員が、槽の上から小田を見下ろし、笑顔で答えた。
「いや、水以外何もつけずに壁をこすって赤水の水垢を落とすだけですよ。洗剤とか薬品とか使っちゃうと経費はかかるし、今度はすすぎが大変になりますから。そういうの使っている業者さんもいるみたいですけどね」
「へえー……そうですか。でもさっき、なんとか酸ナトリウムがどうのって言っていましたよね?」
「ああ、それはこの噴霧器に入っている薬剤です。最後に殺菌消毒するための塩素化合物です。次亜塩素酸ナトリウムっていって、原液そのままではなく、かなり薄めているものですけど。この噴霧器内にびっちり入ってはいますけど、実際に使うのはほんの少量だけです」
小田は気の利いたことも言えず、頷くだけだった。私もまた、説明が理解できるような、理解できないような、どっちともいえない微妙な感じだった。学校の勉強ならば、分からないことは分からないまま放置しておくと後々テストの時などに困るが、貯水槽清掃の細かい手順など、覚えていなくても困りはしないだろうから、分からないならそれでいいのだろう。
「一番最後の仕上げの時に、この塩素薬剤を散布しますけど、槽内の清掃自体は薬は使わずに手作業で洗います。家庭のお風呂なんかもそうだと思いますが、水面の部分に水垢のような物が溜まって線になって汚れるんですよね。他には、水道管の中から出てきた砂状のサビが槽の底に黒くたまったりするので」
「へえー……」
専門知識の無い高校生の小田としては、へえー、としか言いようがない。
私も小田と同じだ。パンチパーマ作業員の話を聞きながら、その場に佇んだまま黙って頷くだけ。
パンチパーマ作業員は片手でヘルメットのつばを抑えながらマンホール内を覗き込む。
「おい、底の赤サビを踏むなよ。足跡ついて、こすっても取れなくなるから」
中の若い作業員が上に向かって何かを言い返しているようだが、声が籠もっていて、具体的に何と言っているのやら、外にいる私には聞き取れなかった。
「おい、清掃中の写真撮るわ。うん、そこで止まってくれ」
パンチパーマ作業員が、ヘルメットの後ろ前を逆にしてかぶり直し、首にかけていた銀色のカメラを構えた。
「あ、このデジカメもう電池減ってきたわ。充電していなかったのかよ?」
また、中の作業員が何か言い返していたが、私には聞き取れない。この二人の作業員、会話の息が合っているようでいて、仕事の段取りはどこかチグハグに食い違っているようにも思えて、イマイチ掴み所がない。
「電池はまあいいわ。たぶんなんとか最後まで持つだろう。で、もう少しナイロンタワシを持った手を前に出してくれや。ヘルメットしかファインダーに入ってないんだわ。……はい、そうそう」
写真を撮ってからも、パンチパーマ作業員は槽内の作業員にあれこれ指示を出す。
「ハシゴも黒い汚れが残ってるから、ふいといて」
「ボールタップと電極棒も軽くでいいからこすっておいて」
「黒いゴムのところは触らない方がいいわ。際限なくボロボロとカスが出てきちゃうから」
清掃作業は着々と進んでいるらしい。終了すれば、当然蓋は閉められ、南京錠をかけられるのだろう。屋上の扉も、厳重に施錠されて、生徒は出入りできなくなる。
「あ、あの……」
私がおずおずと声をあげると、小田と貯水槽上のパンチパーマ作業員がこちらに視線を向けた。
「貯水槽の中って、どんな感じになっているんですか? 見ていいですか?」
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