第17話 空中庭園ロスト
単なる素人の高校生である私と小田がここに居ても貯水槽清掃の役には立たないし、むしろ邪魔なだけだ。無論手伝う義理も無いのだが、敗残兵のごとく、真夏の楽園である空中庭園から去らなければならない。パラダイス・ロスト。あるいは天上界から追放されることになった堕天使の気分か。
私は屋上を去ろうと扉に向かって一歩踏み出した。いや踏み出そうとした。でも小田はコンクリートのひび割れに生えている強靱な雑草のように、その場に根を下ろしているかのごとく動こうとはしなかった。貯水槽清掃というのが珍しいのだろう。真剣そうな眼差しで興味深そうに作業員二名の動きを観察している。
なんとなく私一人だけでは立ち去りがたく、小田と一緒に貯水槽清掃の模様を見ていることにした。屋上自体が滅多に来る機会の無い場所であるし、それ以上に、貯水槽清掃の現場を見ることなど、普通に日常生活をおくっている中では無いはずだ。
そもそも、貯水槽というものを毎年清掃しているなんて、知っている人が世の中にどれくらいの割合で存在するものやら。
業者の人は、相変わらず作業を続けている。邪魔をするでもなくただ見ているだけの私たちのことは、ほとんど気にしていない様子だ。
カメラを持った作業員が貯水槽の上に載り、パネルを布で乾拭きする。屋外の吹き晒しだから、かなり土埃が溜まっているらしい。白い布はすぐに真っ黒になる。……使っている布は、白と紺のガラからすると、どこかの温泉ホテルあたりで使っていた浴衣の切れ端らしい。
「おい、バケツと、次亜塩素酸ナトリウム取ってくれ」
乾拭きが終わると、パンチパーマ作業員が横柄な言い方で新たな指示を出す。必要な道具あれこれを、作業員二人で協力して上の面に載せるようだ。下にいて合羽を着終えた小柄な作業員が持ち上げた器材を、タンク上のパンチパーマ作業員が受け取る。持ってきた道具を全て上に載せるのかと思ったら、バケツと噴霧器だけだった。タライは下に置いたままだ。
一通り準備が終わったのか、パンチパーマ作業員はそのままタンクの上でしゃがんで、もう一人の合羽を着た小柄な若い作業員は下で貯水槽に凭れて待機する。
しばしそのまま時が過ぎる。
一階にある大きな柱時計の音がここまで聞こえて来るかのような錯覚がする。大学受験を見据えて勉強勉強の繰り返しだけで生きている私にとっては、久々に過ごすゆったりした時間だ。学校の周りを広く取り囲んでいる濃い緑から湧き出る蝉の声がやけに慌ただしい。
二人の作業員は何やら雑談に花を咲かせていた。
「下の受水槽、もう水、貯まりましたかね?」
「まだじゃないかな。タンクの容量が大きい、という以上にこの学校は、ちょっと高台に建っているから、たぶん浄水場から来ている水道の圧が弱いんだよ」
「そういや、なんかちょろちょろで、水の出、弱かったですもんね。受水槽のボールタップ止まるまるまでかなり時間かかりそうですね」
「まあな。でも下の方は、ボイラー室の人が手順を分かってて様子を見てくれるから、全部貯まってボールタップ上がるまでウチらが待っていなくても大丈夫だけどな」
「毎年やってますからね」
他にやることが無い私は、空を仰いだ。二羽のカラスが鳴きながら、高い屋上よりも更に高い上空を渡って行く。黒い影は、天を追放された堕天使の姿になぞらえることができるだろうか。カラスにとっては、人間社会は住みやすいパラダイスかもしれない。
「最近スロット負け気味なんだよな。昨日も、最初は勝っていたけど、それで調子に乗って打っていたら段々負けていって、閉店間際まで粘って少しは盛り返したけど。最終的にはちょっと負けた」
「俺は、朝のテレビの星占いで、金運が最高の時しかパチンコやりませんからね。最近打ってないんですよ」
「なんだよ。雑誌見て熱心に研究しているかと思ったら、そんな縁起担ぎしていたのか。……あれ、でもこの前、大負けしたって言っていなかったか?」
「先週の日曜ですね。ボロ負けしました。それで資金切れだから自粛しているのもあるんですが……」
さっきまで仕事の話をしているかと思ったら、今度はパチンコの話。こうなると完全に雑談だ。
「日曜日か。日曜日っていったら俺は、子供を動物園へ連れて行ったんだけど、帰りの電車が暑さでパンタグラフが上がらなくなったとかいって、途中で立ち往生しちゃって、電車の中に三〇分くらいそのまま閉じこめられちゃったよ」
「暑さで電車が動けなくなるんですか?」
「たまたま運が悪かっただけだろうけど。電車の中にせっちん詰めなんて、みじめな心境だったよ」
「せっちんづめ、って何ですか?」
「ああ、狭い場所に閉じこめられて逃げられないことだよ。せっちんって、昔の言葉で便所って意味だ」
「難しい言葉、よく知ってますねえ」
「おまえが教養無いだけだよ。褐色って漢字をキャラメルいろって読む奴なんて他にいないぞ」
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