第16話 行き場を無くした
まだ一滴もジュースを注いでいなかったので未練はあったが、仕方ないのでハシゴを伝って貯水槽から降りた。小田は一・五メートルほどの高さの貯水槽からコンクリ床に飛び降りた。その拍子に近くに落ちていた枯葉一枚がコンクリート上を滑りながら風に吹き流されてどこかへ消えて行った。
私たち二人は貯水槽から離れた位置に退いて、業者の人に場所を譲った。作業員たちが歩くと、履いている来客用茶色スリッパがコンクリにこすれて間抜けな音を立てる。
二人の作業員が段取りを始めたので、私と小田は立ち尽くしたままその様子を眺めていた。清掃作業の邪魔さえしなければ、邪険に追い払われることはなさそうな雰囲気だった。これがもし先生だったら「屋上は立入禁止だから、さっさと中に戻りなさい」と喧しく言われていたに違いない。
作業員二人はコンクリ上に厚手の透明ビニールシートを敷き、その上にそれぞれ抱えていた諸々の荷物をきれいに並べて置く。私たちに声をかけたカメラの作業員が「高置水槽」云々と書かれている面を写真に撮る。その間、もう一人の小柄な若い作業員が貯水槽の下の方に接続されている幾つかの配管に手を伸ばし、取り付けられているバルブを操作する。
「おーい。ゲートバルブは、いっぱいまで回したら、最後はちゃんと、少しだけ戻すんだぞ」
「はい。戻しましたんで」
シート上に並べた器材の写真を撮りながら、パンチパーマ中年作業員が指示を出す。
小柄な作業員の返事の声は、男にしては随分と甲高かった。身長は、私と同じくらいか、あるいは女の私よりも僅かに低いくらいかもしれない。肌が白くて顔立ちも整っている作業員なので、女装したら似合いそうだ、と、私はどうでもいいことを漠然と思った。
バルブ操作を行ったためだろう、貯水槽の下方から突き出ている鉄管から、勢いよく水が吐き出されている。さっき、貯水槽上のマンホールを覗き込むために私が足場にした太いパイプだ。その鈍い銀色の配管には大きな文字で「ドレン」と黒文字で書かれていたことを今更ながら発見した。
水が出るちょうど真下が、雨水が流れ込む排水口になっていた。細い針金が組まれて網目になっている上に焦茶色の枯葉が何枚か堆積しているが、完全に詰まってはいないようだ。うがいみたいな音を立てて、水は排水口に飲み込まれて行く。
貯水槽内の水を抜いて捨てているらしい。
……つまり、このまま水が全部出てしまうと、貯水槽の中身は空になってしまう、ということか。だとすると……
カメラを持ったパンチパーマ作業員がタンクに上がり、蓋を開けて貯水槽内部の写真を撮っている間、小柄な作業員は作業服の上に半透明ビニールの合羽を着用していた。長袖作業服の上に通気性の悪そうな合羽を着るのだから、真夏の炎天下ではかなり蒸し暑いと推測される。
半袖の白いセーラー服、短いプリーツスカートの下は素足、という服装であっても、私は暑さでウンザリしているというのに。ビニール合羽なんてただ着て立っているだけで汗で蒸れて暑そうだが、その格好で作業をするのだ。労働というのは大変なものだ。たっぷり汗をかいてダイエットにはなるかもしれないが、小柄な作業員は痩せる必要は無さそうだ。むしろパンチパーマ作業員の方が、少し絞った方が良いのではないか。
容赦無い苛烈な陽射しは、この学校の屋上に居る四人に等しく降り注ぐ。吹いているのか吹いていないのかほとんど分からない程に弱まってしまった風を受けて、私のスカートが蓮の花のように羞じらいながら揺れる。その下では、ふくらはぎ上半分が日光を浴びて痛いくらいだ。平凡な女子高校生である私にとっては、この暑さは殺人的な拷問だった。
そんな夏の暑さに負けず、グラウンドでのサッカー部の練習はまだ続いているようだ。ホイッスルの音と部員たちのかけ声が交互に聞こえる。乾いたグラウンドからは部員たちが駆けるたびに土煙が舞っていて、淡い黄茶色の靄になっていた。今は風がほとんど吹いていないから、埃がその場にわだかまっていて吹き飛ばされないのだ。
夏の太陽は更に強く燃え、このまま長時間ここに居たら、小田と同じくらい顔や腕や足が日焼けしてしまいそうだ。
行き場を無くしたみかんジュースを握り締めたまま、私はコンクリートの地平線である屋上に立ち尽くす。行き場を無くしたのは、みかんジュース以上に私自身だ。講習もサボってしまったし、屋上の貯水槽は業者の作業員が清掃作業中である。陸上部に所属している小田はともかく、部活に入っていない私は訪れる部室も無い。
――どうやら、屋上でのお楽しみの時間は終わり、かな。
どんなに華やかに盛り上がった夏祭りであっても、いつかは終わって喧騒もやみ、終息の倦怠感に取り憑かれる。それと同じように、屋上でのお楽しみの時間はこれで終了、ということになりそうだ。
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