第15話 夏休みのメンテナンス
「おう、西川、早かったな」
「い、急いだ、からね……」
「そんな、息切らすほどまで慌てなくても良かったのに……」
結果論で言われても困る。と、反論したかったが、息を、整える、方が、先決だった。短い命で盛夏を生き急ぐ蝉の気持ちが、なんとなくだけど今の私には分かる。
「買ってきたよ。みかんジュース!」
テレビの時代劇に登場する、これを見せたら悪人どもが平伏するスーパーアイテムのように、小田に向かって紙パックを掲げ見せびらかした。小田は平伏こそしなかったが、戦友を労う兵士のような笑顔を浮かべた。
「よし。じゃあ入れてみろよ。そっちのハシゴで貯水槽の上に来るといいぞ」
言われた通り、私はハシゴを使って貯水槽に上った。パネルを構成している黄色っぽいプラスチックのような材質は、薄いようでいて案外頑丈らしい。小田と私が上に載っても凹むような様子は全く無かった。小田が場所を譲ってくれたので、私は丸いマンホールの前にしゃがみ、細い縦長の紙パックに付属のストローを差し込んで穴を空けた。
いよいよ私も、晴れてテロリストの仲間入りだ。
† † †
紙パックを逆さにしてジュースを注ぎ入れ……ようとしたまさにその時。
校内と屋上とを隔てる空色の鉄扉が開いた。
すっかり油断していた。
ついに誰かが秘密の聖域である屋上に来てしまった。
反射的にジュースを持っていた手を引っ込めて、扉の方に顔を向ける。それしか咄嗟にできなかったのは、私だけではなかった。小田もまた、顔だけは扉の方に向けたが、それ以上は声を発することも何もできずにいた。
意外なことに、屋上への訪問者は生徒でも先生でもなかった。学校の用務員さんでもなさそうだった。
薄グレーの作業服を着て白いヘルメットを被っている男性二人だ。両者ともに、色々な荷物を両手いっぱいに抱えていた。水色のバケツ、タライ、ガーデニングで防虫剤散布に使うような白い噴霧器、ミルクホワイトのゴム長靴などだ。
謎の来訪者二人は、私と小田を見つけてちょっと驚いたような表情をしていた。私だって、屋上に来た時に先客として小田が居るとは思っていなかった。作業服姿の二人も、屋上に私と小田が居るとは予想していなかったのだろう。
「こんにちは。清掃業者の者なんですけど」
首からシルバーのデジタルカメラをぶら下げた中年の作業員が私たちに語りかける。背は高いけどちょっと小太り気味で、ヘルメットの下の髪はパンチパーマらしい。
私と小田も貯水槽の上からこんにちはと挨拶を返しつつ、ぺこりと頭を下げる。
「一年に一回の貯水槽清掃委託業務におうかがいしましたので。あのー……こちらのタンクですので、すみませんけど場所を空けていただいていいですか?」
バスの低い声でパンチパーマ作業員に用件を言われて、私と小田は思わず顔を見合わせた。
「ねえ小田……貯水槽って、清掃するものなの?」
「さあ。俺だって初めて聞いたよ。……あっステッカー……」
小田が気付くのとほぼ同時に、私も気付いていた。槽の横壁に、「貯水槽清掃済証」と書かれた水色のステッカーが貼ってあった。貯水槽というのは、一年に一回清掃を実施するようだ。
「あっ、昨日の話……」
隣にいる小田にも聞こえないくらいの小声で呟いた。目の前に清掃業者の作業員が登場してようやく、思い当たる節があったのに気付いたのだ。
……他校に通っている友達が、貯水槽清掃だか飲料水の水質検査だかで学校に業者が来ていた、と昨日言っていたはず。ファーストフード店での気楽な世間話なので、軽く聞き流していて今まですっかり忘れていた。
どうやら貯水槽清掃というのは、学校が夏休み中にやるケースが一般的に多いものらしい。それは確かにそうだろう。夏休み中なら、講習や部活で出てくる生徒や先生は存在するにせよ、通常授業が行われている時期よりは明らかに人数が少ない。だから貯水槽の清掃を実施するにあたって、影響が少ないはずだ。
でもまさか自分が、ピンポイントで貯水槽清掃の場面に遭遇しようとは……
今まで通っていた小学校や中学校にも、屋上にはきっと貯水槽があったはずだ。でも、一年に一回の清掃が夏休みに行われているなんて全く知らなかった。それ以前に貯水槽の存在自体を意識していたことすら無かった。
水道の蛇口を捻れば、何の疑問もなく水道水が出てくる。それが常識であり、これまで一七年の人生で疑ったことすら皆無だった。
物思いに耽っている場合ではなかった。どうするか、すぐに決断しなくてはならない。扉の鍵が開いていたことを幸いに、勝手に屋上に来て貯水槽を不法占拠していたテロリストである私と小田。さすがに、貯水槽に用があって来た清掃業者の人が作業をするのを邪魔するわけにはいかない。私も小田もこの学校の生徒であり、日頃から水道の恩恵を受けているからには、メンテナンスの邪魔をするのは自分たちにとっても不利益になる。
最初から他に選択肢は無く、答えは決まっていた。
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