第14話 柑橘系の反骨

 いずれにせよ、無差別テロを実行するための重要アイテムだ。自動販売機で単なるジュースを買うのに、ここまで昂揚した気分になったのは、もしかしたら初めてかもしれない。

 そして……自分が飲む分のジュースも買うべきか、一瞬迷った。

 しかし決断は早かった。断念だ。

 財布の中の小銭の残高が心許ない。今出てきた一〇円玉のお釣りを含めても、もしかしたらちょっと足りないかもしれない。

 辛抱すればいい。急いで屋上へ戻り、今買ったばかりのみかんジュースを貯水槽に投入して、それから蛇口をひねれば、稀釈されているとはいえ愛媛県のようにみかんジュースが出て来るのだ。思う存分、その水を飲めばいい。

 自販機が唸りながらも頑張って冷やしていた紙パックジュースを握り締め、私は来た道を駆け戻る。真鍮の振り子が金ピカに輝いている柱時計は、マラソンランナーに対して沿道から手を振って応援している観衆みたいだ。

 一段とばしで中央階段を駆け上がる。両足の腿を大きく上げる。あっという間に筋肉が張り、今まで以上の疲労が蓄積する。上りと下りでは、やはり使うエネルギーの量が根本的に違うらしい。

 暑い。朝から暑かったけど、時計の針が登頂へ向かうに従って更に気温は上昇している。汗を吸ったせいか、白いセーラー服が肌に貼り付くような感触で重くなって、私の動きを阻害する。もはや、足音を立てないようにと注意を払っている余裕も無くなった。そもそも、この時間帯に校舎内をブラブラ歩いている人なんて夏期講習をサボっているテロリストの小田か私ぐらいのものだ。

 二階はすぐに通過した。体は辛いけど、もうすぐテロリストになれるというハイな気分が乳酸まみれの筋肉にゲキを飛ばして喝を入れる。

 みんな、みんな、こっぱみじんだ。

 昨日、親に浴びせられた小言が脳裡をよぎる。

「あんた、どこに遊びに行っていたのよ。暑いからってダラけてばかりいないで、ちゃんと勉強しなさいよ」

 エアコンの効いたファーストフード店で友達とまったりダベってから帰宅した後に、開口一番に言われた台詞だ。

「せっかくお金払って毎日受けているんだから、今日の講習も居眠りしたりしないでちゃんと聞いていなさいよ」

 こちらは今日の朝食時、テレビの星占いをBGMにしてマーマレードを塗った食パンをかじっていた時に言われた言葉。

 戦争やテロとは無縁の平和な日本ではあるが、五里霧中どころか一寸先も見えない程の濃い霧に覆われた時代だからこそ、とりあえず大学へ行けるなら行っておいた方が良いことも充分に理解している。そのためには厳しい受験戦争に勝ち抜かなければならない。勉強が大事なことは、今更改めて言われないでも分かっている。

 だけど張り詰めすぎて勉強勉強勉強ばかりだと肉体的にも精神的にも苦痛であるだけだから、時々は糸を緩める。でも親は、ダラけている時の私だけを見て、気詰まりな小言を連ねる。オリンピックの柔道の試合みたいに、一秒たりとも気を抜いてはいけない、と言うつもりなのだろうか。

 愚痴は、言い始めたら止まらない。でももうすぐ、そんな憂鬱などこっぱみじんに粉砕することができるのだ。柑橘系の反骨テロリズム。

 炎天下の屋上が、満々と水を湛えた貯水槽が、階段と格闘している私の到着を待っている。

 三階も、通過した。息が切れ切れになって、足が動かなくなってきた。やっぱり自分が飲む分のジュースも買っておけば良かった、と今更ながら後悔した。水飲み場へ行こうかとも思ったが、さすがに寄り道をするのは時間が惜しいので、そのまま屋上へ直行することにする。

 四階。音楽室の前を通ると、相変わらず音出し練習が続いている様子だった。音楽室だって暑いだろうに、吹奏楽部員のみなさんは運動部に匹敵するくらいの根性と持久力を誇っているらしい。楽器については素人である私の感覚からすると、いかに基礎練習が大事だからといってもメロディーになっていない単なる音をずっと出し続けるなんて、夏期講習の勉強よりも退屈でつまらなそうだ。

 四階から屋上への最後の道程は、色々な意味で天国へ続く階段に思えた。酸素を貪り吸って肺の中に無理矢理詰め込んでは、二酸化炭素とかタールとかニコチンとか雑多な物が混入しまくっている息を荒く吐き出し、上を目指す。何故辛いのをこらえて階段を昇るのかと問われれば、そこに屋上があるから、と登山家のような答えを返すだろう。たぶん今の私は鏡を見れば、リボンに負けないくらいに顔を真っ赤にして少し白目をむいているかもしれない。

 頑張っても成績はなかなか上昇してくれないものだが、階段ならばいずれは目的の階に辿り着く。

 水色の鉄扉は、鍵は開いたままだった。ラッキーなことにどうやら間に合ったらしい。

 薄暗い階段から屋上に出てみると、先刻よりもまばゆい太陽光線が容赦なく目を灼く。ストローのように目を細めて貯水槽の方を見やる。よほどその場所が気に入ったのだろう、小田は相変わらず貯水槽の上にいて、胡座をかいて尊大な表情で下界を見渡していた。閻魔大王にでもなった気分なのか。


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