第13話 蛇口から出るもの
広い中央階段、ど真ん中をコース取りする。この時間はどうせ誰も通らないだろう。
踊り場で半回転。遠心力との戦いに、体は勝つけど癖毛は案の定負ける。あんまり足音を立てない方がいいかな、と一瞬、思い直す。
三階からは、急ぎつつも足音を潜めるように注意しながら階段を海鳥のカイツブリのように急降下する。ここまでは一段ずつステップを踏んでいたのだが、まどろっこしく感じて一段とばしにする。短いプリーツスカートが翻るので、もし下に人がいたらレモンイエローのパンツが丸見えだったかもしれない。息が弾む。心臓が弾む。これから行うテロ行為への期待感により心が大きく弾む。
幸運は私に味方している。見込み通り、途中、誰にも会うことは無かった。だからチェック柄ダークグリーンスカートがひらひらと捲れたとしても下着を覗かれる心配は無かった。
汗が額を伝う。南向きの窓から陽射しがスポットライトとなって降り注いでいる踊り場で、外側の壁に手をつきながら急旋回。真夏に全力疾走をするなんて、日頃の私が冷めた目で見ていたならば「クレイジー」という感想を残していただろう。
二階はあっという間に過ぎた。運動不足の私には、階段二段とばし駆け下りは、膝への衝撃が大きいらしい。関節の軟骨が摩耗してしまいそうに思えた頃、やっと一階に着いた。左手の甲で額の汗を拭おうとしたが、遅かった。汗は眉毛を突き抜けて伝い落ち、左目に入ってしまった。放っておくと痛いので、走りながら握り拳で左目をこする。
目的の自動販売機は、生徒玄関から入ってすぐの位置、購買部の脇にある。校内で自動販売機があるのは、この一カ所だけだ。自販機に商品を入れる業者の作業都合を考えて、一階に設置してあるのだろう。
昼休みになればジュースを買う人の行列ができている自動販売機も、現在は夏休み中で、しかもサッカー部と吹奏楽部は練習中で、勉強熱心な生徒向けの夏期講習は授業中なので、並んでいる人は当然ながら誰もいなかった。自動販売機の真横では、第五期だか第六期だかの卒業生一同が寄贈した飴色の大きな柱時計が、優雅に振り子を揺らしながら、無機質な音で時を刻んでいた。まるで時限爆弾のカウントダウンのように聞こえて、焦燥感を煽る。お尻が青い炎で炙られているかのような気分だ。
「早く買おう」
別に言わなくてもいい台詞がついつい独り言として口から漏れ出た。タバコが入っているのとは反対側のポケットから財布を取り出し、適当に小銭を抜き出す。モーターフル回転という感じで唸りながら商品冷却に勤しんでいる自動販売機に銀色っぽい硬貨を投入して、ボタンにランプがついたのを確認してから、指が止まった。
どのジュースを買おうか?
屋上、つまりは実質五階から一階まで一気に階段を走り降りて来たので、体が火照って喉が渇いた。汗として出て行った水分を、体は正直に欲している。単純な引き算。
売っているのは、全て二〇〇ミリリットル紙パック入りの、濃縮還元果汁一〇〇パーセントジュースだ。りんご、みかん、ぶどう、パイナップル、ピーチミックス、マンゴーミックス、バナナミックス……がある。普段はあまりこの自動販売機は使わないから気付かなかったが、結構ミックスジュースが多かった。どれにしようかな。神様のいうとおり、で決めようか……
と、考えてから、まとわりつく蚊を追い払うようにして本筋から脱線した雑念を振り払う。私は、自分が飲むためにわざわざ一階までジュースを買いに来たのではなかった。
貯水槽に毒の代わりに入れるために、ジュースが必要なのだ。
ジュースでありさえすれば、どの味でも構わないだろう。でも、梶井なんとかという結核で早死にした作家は、檸檬を爆弾に見立てていた。だから、レモンジュースは無いけど、柑橘系つながりでみかんジュースを買うことにした。
ボタンを押すと、オレンジ色の紙パック商品が出てきた。ジュースのパッケージデザインとしては定番ではあるが、果実を半分に切ったまん丸の断面を写したイメージ写真が描かれている。見ているだけで甘みと酸味のハーモニーで口の中で唾液が分泌されてきそうだ。
これと同じみかんジュースを小田も入れていたから、どうせなら同じ物を入れた方が良いだろう。濃度二倍でほんの少しでも「蛇口からオレンジジュース」に近づくことができるように。
慌ただしくお釣りレバーを動かすと、牛歩のように億劫そうに平等院鳳凰堂の銅貨が一枚ずつ落ちてきた。急いでいても貧乏性の血は争えないもので、お釣りをしっかりと回収してようやく買い物ミッション終了だ。
ニシカワハ、バクダンヲ、テニイレタ。
爆弾というよりは毒というべきかもしれないが。いずれにせよ凶器だ。
紙パック入り。内容量二〇〇ミリリットル。濃縮還元みかん果汁一〇〇パーセント。ストロー付き。
これが爆弾のスペックだ。
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