第12話 官能的な果実

 急ぎ足で屋上を通り抜ける真夏の風が少し強く吹いて、テレビ画面より遠いどこかの国へと去って行く。現実にはこれから夏本番だけど、暦の上ではもうそろそろ立秋だったはず。

 笑いながら、頭の中だけで紡錘形の黄色い爆弾、レモンを想像してみた。つゅむっ、と唾液が口の中に湧いてきて、酸っぱさを予告する。それはまるで、低く飛ぶツバメが雨を予告するように。

 レモン。りんごやみかんのように、それそのものを直接食べる、という機会は滅多に無い果物ではあるが、でももし無くなったら、とても困るはずだ。

 横から見たレモンを真ん中で半分に切ると、なんとなく女の人のおっぱいの形に似ているようにも思う。ジューシーであるのみならず、官能的な果物なのだ。


   †   †   †


「あ、西川。俺さ、今スゴくいいこと思いついたよ」

 蛇口からオレンジジュース、の発想にひとしきり笑った後。

 発想テロリスト小田がその顔にイタズラっぽい仮面を貼り付けた。

「何、いいことって? もったいぶらないで早く言ってよ」

 風が強く吹くとどうしても頭上の赤いリボンが気になってしまい、右手と左手両方を使って位置を確認するのが癖になってしまっている。

「西川もやってみればいいんだよ」

「やってみればって、何を?」

 赤いリボンの位置はズレてはいないようだ。でも気になってしまうと安心できない。屋上はトイレと違って鏡が無いのがもどかしい。自分の鞄の中には手鏡が入ってはいるけれど、その鞄を置いてある場所は教室だ。現在、退屈な講習が行われているはずで、サボっている身の私は自由に出入りできない。

「西川も貯水槽に毒を投入してみればどうさ? 一階へ行ってみかんジュース買ってきてさ」

「……えあ?」

 目から鱗が落ちる瞬間というのは、こういう時のことを言うのだろう。私は裸眼で、メガネもコンタクトレンズも使用していないし、爬虫類でも魚類でもないから鱗は無いけど。小田に言われた瞬間まで自分の中にはこれっぽっちも持っていない発想だったので、驚きのあまり「あ」と「え」の混ざったような、アップルという英単語の「ア」の発音みたいな微妙に間抜けな声を出してしまった。

 私は真夏の学校の屋上で、無差別テロを目撃しただけであきたらず、そのテロリストに教唆されて、テロへの荷担を持ち掛けられたのだ。

 なんて、なんて、空は青いのだろう。柄にもなく三文詩人のような感傷に浸ってしまいたくなる程に、私の中では怪しく変なホルモンが分泌され始めたのが感じられた。

 小田の言う通りだ。私だって、ジュースを買って来ればテロリストになることができるのだ。喫煙などというケチケチして陰に隠れた自己満足の反抗ではなく、もっと、なんというか、根こそぎ全部持って行ってしまうような斬新で快感な反撃方法。どうしてすぐに気付かなかったのだろう。

「西川。やるんだったら、早くした方がいいかもよ。次の休み時間になったら、俺たち以外にも誰かが屋上に出られることに気付いてしまうかもしれないし」

 それもそうだ。もしそうなったら、貯水槽に異物を混入させるという行為は、やりにくくなってしまう。

「そうでなくても校務補の人あたりが、屋上の扉に鍵をかけ忘れたことに気付いて来てしまうかもしれないぞ。そうなったら俺たち、屋上から追い出されてしまうだけだからな」

 管理の行き届いた堅物学校らしからぬ、屋上の施錠不備。この恵まれた条件は、永遠に続く訳ではない。今、この瞬間を逃したら、卒業するまでに屋上に来るチャンスは二度と無いかもしれないのだ。

 そう思った瞬間には、もう居ても立ってもいられなくなり、勢いよく踵を返した。癖毛が地球の重力に逆らって大きく撥ねた。

「私、一階でジュース買ってくる!」

 言うのと駆け出すのは同時だった。私は足が速いわけではない。隠れ喫煙の影響も当然あるだろうが、走るのは苦手だ。それでも今は時計の針が回る一分一秒が惜しく感じられ、気持ちが前のめり気味に先走る。それ以上に足が前へ前へとベクトルに引っ張られる。白い色が安っぽい上に入学以来一年半履き続けているせいでなんとなく薄汚れている上履きが、自由に天を舞い飛ぶ純白の翼のようにも感じられた。

 ジェットコースターに乗っているかのごとき気分で階段を駆け下る。髪の上では、直したばかりのリボンが揺れているのが研ぎ澄まされた頭皮に感じられた。四階に下りてからは、中央階段に行くために廊下を突っ切って走る。音楽室の前を通った時には吹奏楽部の練習音が一瞬だけ聞こえたが、すぐに聞こえなくなった。上履きのゴム底がリノリウムの床との間に摩擦を起こし、悲鳴のような耳障りな音を立てる。悶えるかのように靴ひもが踊るのが視界の隅に辛うじて見えた。


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