第11話 無差別テロ
私の声は少し震えていたかもしれない。
一介の高校二年生が、どうやって毒を手に入れたのか。……いや、普通に市販されている物であっても、洗剤とかガソリンとか、食用でない物だったら充分に人体にとっては毒だろう。経口薬などにしても、一度に大量に服用するとかえって危険な毒だ。推理小説などでは、犯人がどういう入手経路を持っているのか分からないが、複雑な六角形を組み合わせたような化学式を持つ難解な名前の猛毒が登場することもある。そういう日常離れした化学物質の毒は、フィクションならではの登場アイテムだが、現実であっても、世界は毒に満ちているのかもしれない。
推理小説に登場する犯人のような巧みな言い逃れはせず、小田はあっさり真相を白状した。
「俺が貯水槽に入れたのは……果汁一〇〇パーセントみかんジュースだよ」
「……えっ?」
またしても。前と後の思考が繋がるのに、一瞬の時間を要した。
「ほら、これ。一階の自動販売機で売っている紙パックのやつ。このことを思いついてから、わざわざ下まで降りて買いに行ったんだよ。暑い中を走って階段を上り下りして、いかに陸上部とはいえちょっと疲れたよ」
まさにイタズラっ子のような表情で、小田は逆さにしたオレンジ色の紙パックを振った。縦長の二〇〇ミリリットルパックのストローを差し込む小さい穴から、陽光を浴びて金色に輝くしずくが幾つか飛んだ。
毒ではない。実験室の試験管内だけで扱われる化学物質ではなく、普通に食用の物だった。
「そうだったんだ。みかんジュース、だったんだ……」
貯水槽に毒物を投入、ならぬ、貯水槽に果汁一〇〇パーセントジュース。
人畜無害。だけど無差別テロ。
戦争やテロとは無縁の平和な日本。
高台にある夏休みの高校。
白い四階建ての校舎。
コバルトブルーの空の下。
私は今、本物の無差別テロ事件と遭遇している。
テレビの向こう側で毎日のように懲りずに起こっている、悲惨ではあるけど自分とは無関係なので実感の薄いテロ事件とは違う。身近な場所に、私と共に机を並べて学んでいる同級生が、ごくごく善良な一般市民の仮面を被ったテロリストとして存在していたのだ。
こんな意外なことを思いつくなんて。
とんだ発想力のテロリストだ、小田は。
一階の自動販売機ではみかん以外にもブドウやリンゴのジュースなども売っているが、レモンジュースというのは無かったはず。レモンもみかんも柑橘類という意味で同じだから、みかんジュースを流すことにしたのだろうか。
「……じゃあ、もし今、水飲み場で蛇口を回したら、小田が混入させたみかんジュース入りの水が出てくるんだ」
ふと、愛媛県では蛇口をひねったらアルファベット三文字の有名オレンジジュースが出てくる、という荒唐無稽な噂を思い出した。
――この水を飲んだ人、どういう感想を抱くかな?
今は夏休み中で、学校に来ている人の数は少ないし、水飲み場で水道の水を飲もうとする人がいるだろうか。と私は考えた。
それでも、私や小田のように夏期講習を受けに来ている人もかなり多くいるし、サッカー部や吹奏楽部の人は暑い中で一生懸命練習しているから、喉も渇くだろう。
なら、水を飲む人も結構いるかもしれない。もしも入れていたのが正真正銘の毒だったら大惨事になっていたところだ。
実際には、三トンくらいの中に小さい紙パック一個分なので、稀釈し過ぎていて、誰かがみかん味に気付くことはないと思われるけれども。
ええと、計算してみると、三トンということは……三〇〇〇リットルになるはずだ。その中に二〇〇ミリリットルだから、〇・二リットル。ということは、概算で一五〇〇〇分の一ぐらいに稀釈していることになるのかな?
本当に危険な猛毒ならば、この濃度でも充分に致死量かもしれないが、普通の高校生でも入手できるような物質ならば、人体に影響が出ないほどに薄まってしまっているはずだ。
「もしも俺に充分な財力と労力があれば、この貯水槽の水を全部ジュースに交換してみたいな。そうすれば、校内の蛇口をひねればジュースがジャージャー流れ出てくるんだぜ。夢があっていいと思わないか?」
「あ、蛇口からジュースって、小田も私と同じようなこと考えるんだね」
それを聞いて小田は豪快に笑った。大きく開けた口の中で歯だけが白く、日射しを照り返した。
私と小田は、クラスは同じだけど特に接点も無いので仲が良いわけではなかった。今までほとんど話をしたことも無かったので、まさかこうして一緒に楽しく笑い合えるとは思っていなかった。初めて足を踏み入れた屋上には、意外な邂逅が待ち受けていたものだ。
受験を睨んだ勉強で鬱屈する気詰まりな毎日だが、硬直した常識をこっぱみじんにする小田の『毒』の発想のおかげで、こんな爽快な気分になったのは久々だ。小説の中でレモン爆弾を置き去った早死に作家の人も、似たような感覚を味わっていたのだろうか? 心にもやもやと積もっている憤懣をこっぱみじんにして大空に解き放つような快感。
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