第10話 毒
どうして小田は、突然『檸檬』の話を切り出してきたのか? 未だ核心の謎は解けていない。
「……で、その『檸檬』という小説が一体何なの?」
いまだに話が見えないから、単刀直入に小田に尋ねる以外に選択肢が見あたらなかった。
「小田が講習サボって屋上に居ることと何か関係あるの?」
高い位置に陣取っている小田は、不敵にニヤリと唇を斜めに歪めた。一体全体、何を企んでいるのやら。
「西川、このタンクは貯水槽なんだ。こっち側の面を見てみろよ」
言いながら小田は、自分が乗っかっている薄黄色の構造物を平手で叩いて示した。
ちょすいそう?
何があるのだろう、と訝しく思いながら、直射日光に熱された足元のコンクリートを踏みしめた私は小田に指示された通りに四角いタンクの側面に回り込んだ。
「高置水槽 FRP製 3トン 1槽式」
と、クリームイエローっぽいプラスチック地に黒字で大きく書かれていた。その斜め下辺りには「貯水槽清掃済証」と書かれた掌くらいの大きさの水色ステッカーが、同じ場所に何枚も重ねて貼られている。風雨にじかにさらされているせいか、ステッカーはちょっと白っぽく色褪せているようだった。
「このマンホールから覗けば分かるけど、実際にこの中には水が貯められているんだ」
小田が、蓋を持ち上げて覗き込んでいた穴を指さして示す。私はタンク下方から突き出ている太い鉄のパイプの上に足を載せ、更に背伸びをして、顎を突き出すようにして穴を覗き込んでみた。
期待通りであると同時に、想定の範囲内にきっちり収まり過ぎていて拍子抜けもしてしまった。タンク内には、本当に水が入っていた。タンクにはマンホールだけしか光を採り入れる場所が無いため、ちょっと薄暗く感じるが、それでも中に貯められているのが透明できれいな水なので、底部のパネルまで見えた。クリームイエローではあるが、少し黒っぽく汚れているようにも見える。
「ふうん。貯水槽、かぁ。……高置水槽なのか知らないけど」
鉄パイプから降りて、日の光を白く照り返しているコンクリートの上に再び立つ。あまり底の厚くない上履きを透過して、コンクリの熱が足の裏まで突き刺さってくるような感じすら受ける。真夏のこの熱を蓄積しておいて、真冬の寒い時期に少しずつ消費することができたならば冷え症気味で足先が冷たくなってしまう私はとても助かるし、地球的にもエコになるはずなのだが。世の中、物事は能率的には回らなくてもどかしいものだ。
地球上を循環している水が、学校の屋上でタンクに入れられて貯留されている。
貯水槽なのか高置水槽なのかどちらが正式な名前かはハッキリとは分からないし、プラスチックっぽくは見えるけれどもFRPというのがどういう材質なのかは知らないけれども、このクリームイエローのタンクが、水を貯めるための槽であるのは間違いなさそうだ。
「……貯水槽だから、何なの?」
屋上に貯水タンクがある、という話はよく聞く気がする。
でもそんなことを知って何になるというのか。人生を生きて行く上ではほとんど役に立ちそうに無い無駄な知識が一つ増えたけど、詰め込み式受験勉強と同じ徒労に思えて、自分が虚しく感じてしまう。誰もが悩んできたことなのかもしれないが、きっちり私も同じ悩みにはまりこんでいる。
第一、さっきの『檸檬』という短編小説の話と貯水槽が、どう繋がるのか?
パネルの色がなんとなくクリームイエローっぽい、というくらいしか私には関連性を見いだせなかった。それにしても、果実のレモンの濃い黄色よりは、貯水槽の色の方が随分薄い。
「今言った梶井基次郎の『檸檬』っていう小説は、もしこの檸檬が本物の爆弾だったら、みんなこっぱみじんになるだろうな、という話なんだよ」
それはさっき聞いたばかりだから理解できる。だから私は無言で大きく一つ頷いた。
「檸檬を黄色い爆弾に見立てるのと同じ発想で、もしも、この貯水槽に毒を混入させたら、こっぱみじんとはちょっと違うけどさ、水を飲んだ人はみんな死んでしまうと思わないか?」
小田の発言の意味を理解するために、夏の暑さにやられてしまっている私の脳は一瞬の時間を費やす必要があった。
その次の瞬間、はっと息をのんで、私は瞠目した。
一度意味が分かってしまうと、気軽な口調で言っていた小田の発言の重さが激変する。
これは文字通り、爆弾発言だ。
小田は、左手で貯水槽の円い蓋を支え持っているが、右手には何か紙パックらしき物を握り締めているということに、今更ながら私は気付いた。
「もしかして、……貯水槽の中に、今小田が手に持っているモノを入れた、……ってこと?」
「そうだよ」
右手に持った何かを振って小田はほくそ笑む。なんだか、とんでもないイタズラを考えついた小学生のワルガキみたいな無邪気な、でもそれ故に天使のように残酷な笑い方に見えた。
「小田……もしかして、貯水槽に本当に毒を流したの?」
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