第9話 それでおしまい

「別に横道に逸れて忘れてしまったわけではないよ。『檸檬』なんだけど、これは梶井基次郎の最も有名な代表作なんだ」

「代表作は、さっき言っていた『桜の木の下には』じゃないの?」

「それも名作ではあるけど。でも梶井基次郎の代表作は、誰がどう考えても『檸檬』なんだ。作者の命日が『檸檬忌』と呼ばれているほどの有名作品なんだよ」

 得意げに鷹揚な態度で頷く小田。別に小田の手柄でもないのに。

「作者の分身と思われる、肺を病んだ人物が『檸檬』主人公なんだ。それで、その大変な境遇を負っている主人公が、たまたま買った一個の檸檬を、気詰まりな書店に置いてそのまま立ち去るんだ。そして……」

「そして……?」

 思わず、私は生唾を飲み込んだ。

「もしも、この檸檬が爆弾だったら、みんな、こっぱみじんになるだろうな」

「……それから?」

「いや、それだけだよ。『もしこの檸檬が本物の爆弾だったら、気詰まりな本屋もみんな、こっぱみじんだ!』……と主人公は思って、一人で勝手に面白がる。それでおしまい」

 まるで狐のお化けにつままれたように、私は大きく二回瞬きをした。

「本当に、それだけで終わりなの?」

「そうだよ。だから『檸檬』っていう題名なのさ。たったそれだけのストーリー内容なんだけど……ていねいな描写が読む人の心を洗い清めるように染み渡る、珠玉の逸品なんだよ――」

 小田は宙に視線を泳がせながら謳うように語った。

「……へえー。よく知っているね」

 話を聞いた限りでは、それしか感想が言えなかった。小田の豊富な知識に対して感心したのは偽り無い素直な感情だ。グロスを塗った薄い唇が自然に緩んだ。

 でも、あまりにも単純な『檸檬』のストーリーを、あらすじとして聞いただけでは、どこが素晴らしいのか理解はできなかった。小田が言うように、丁寧に描写された文章が秀逸だからこそ、「珠玉」という短編小説にとって名誉と言うべき称号を冠せられているものと思われる。短編小説だというから読むのが負担になるような分量でもないだろう。機会があったら図書室に行って探してみるのもいいかもしれない。

 それにしても。

 成績がそこそこ良いとはいえ、どっちかというとルックスとしてはスポーツマンタイプである小田が文学に詳しいとは。全く意外だった。読書家とか文学少年という外見上のイメージではなかった。

 人を見かけで判断しちゃいけない。分かってはいるけど、なかなか徹底し切れない戒めだ。

 上空高く、流れ行く雲のかけらとは反対に向かって、鳥が小さな影として横切った。

 時代が違う。そして境遇も環境も違う。それは前提として分かっている。その上で……

 私は現在に不満があり、将来に不安がある。紛れもない事実。

 でもその『檸檬』という小説の主人公は不安どころか、不治の病に体を蝕まれていて将来そのものが無い。実際に作者は三〇代の前半で早世したという。私は梶井という作家の名前は今日というこの時まで知らなかったが……もし梶井が長生きしていたら、そしてもっと多くの作品を書き残すことができていたならば。夏目漱石や森鴎外ほどまでは行かないにせよ、文学に疎い人でさえ名前くらいは知っている文豪として現在にいたるまで名を馳せていたのかもしれない。

 病気を恨む気持ちは、当然あっただろう。でも、恨んだり悲観したりしても結核が治るわけではない。自暴自棄になったって始まらない。できるのは、ただ事実を事実として心に受け入れ、その時が訪れるのを待つ。それは、どれほど透明で美しい境地だろうか。

 だから『檸檬』の主人公は現在に不満を持ちつつも、夏の太陽のようにその瞬間を輝いて生きていたのかな、と私は思った。

 小田も同じ心境で、主人公に共感したのかもしれない。

 何もかもが、嫌になり、何もかもを、こっぱみじんに壊したくなる。そんな衝動が起こる瞬間はたしかにある。私にもある。私だけに限ったことではないのだろう。病気の人だけではないかもしれない。健康な人だって、世の中が嫌になる機会もあるだろう。人間というのは、基本的にとても弱い生き物だから。実際に行動に移すか、自重するか。それだけの違いかもしれない。本当にやってしまえば、テレビのニュースを賑わして、世間から「最近の若者は……」などと後ろ指をさされることになる。

 私は今、大学進学を目指し勉強をしてはいるが、現時点では一流大学に行けるほど成績が良いわけではない。仮にものすごい努力をして奇跡的に一流大学に合格したとしても、社会に出たら今度は学歴よりも実力が大事だという。

 そこでいう実力って何だろう。

 私も小田も将来企業戦士になって、ヒールのある靴を履いたりネクタイを締めたりして、夏のビアガーデンで日頃の憂さを晴らすのだろうか。

 どこかを迷い泳いでいて焦点を結ばなかった私の視線の前。黄色い影が横切った。仲良く寄り添い合うようにして舞い飛んでいる二羽の蝶だった。……と、もしかしたら暑さのせいで思考が感傷に流されがちになったのかもしれない。蝶のおかげで現実に引き戻された私は肝心なことを思い出した。


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