第8話 すっぱいレモン

 私の身長くらいの高さがある四角い構造物の上から、小田が見下ろしながら突然尋ねてきた。どういう脈絡で小説の話題が出たのかは疑問だが。

「レモン? すっぱい果物の?」

「そう、檸檬。カタカナじゃなくて、難しい漢字で書くんだけどさ」

 檸檬。それはまた、きわめつけにスっっっぱそうな名前の小説だ。

 片手で蓋を持ち上げている姿勢の小田を見上げると、太陽の光がちょうど目に差し込み、六角形のキラキラした光模様が連凧のように幾つも見えた。

「檸檬。……知らない。作者は誰なの?」

 進学校に籍を置く高校生の嗜みとして、そこそこ本を読む私ではあるが、檸檬という作品は聞いたことが無かった。

 私が正直に知らないと答えたため、小田は丁寧に小説『檸檬』について解説してくれた。

「作者は梶井基次郎といって、大正末期から昭和初期にかけての作家だよ。主に私小説を書いていた人なんだ」

「う……いわゆる、文学作品っていうやつなの?」

 図らずも、すっぱい物を口に含んだような表情になった。大きな両目を細め、口をへの字にして顔の中央に皺を寄せる。私が好んで読むのは、推理小説、ホラー小説、冒険小説、恋愛小説など、大きく一括りにするならば読み易いエンターテインメント作品だ。純文学、と呼ばれるジャンルは、あまり楽しくない割には難解であり、好きではない。小説よりはマンガが好きで、よく読む。頭につけている赤いリボンも、好きなマンガに登場するキャラクターの影響だ。

 それでも、最近の若者は活字離れが進んでいると叫ばれて久しいらしいから、本を読むだけでもマトモな範疇に分類されるのではないだろうか。

 ただ、読書が嫌いではないとはいえ、受験勉強の過程で、国語の現代文の例題として小説の一部を読むのは、結構苦痛だったりする。一部を読んだだけでは小説の面白さも一部だけしか分からない。そもそも楽しむために読むのではなくテストで良い点数を稼ぐために読むので、とても楽しめるようなものではなく、楽しむ余裕なども無いからだ。

「まあ確かに梶井基次郎の作品は、昔の文豪の作品、っていうイメージで見られることもあるかもしれないね。俺にとっては短編だから読みやすくて好きなんだけどね」

 小田はゲジゲジのような太い眉を少し下げながら、穏やかな表情で微笑んだ。自分の好きな作家に対して渋い顔をされて、あまり良い気分ではなかったのかもしれない。

「梶井基次郎はね、当時不治の病だった結核で早死にしたんだ。たしか、三一歳か三二歳くらいだったはずだ。でも、その命の炎を燃やし尽くすような短い生涯の中で、『桜の木の下には』のような印象的な小品を幾つか書いたんだ」

 今度は話の腰を折らずに、私は無言で頷いて先を促す。

「聞いたことないかい? 『桜の木の下には死体が埋まっている……』というホラーっぽいネタ話」

「どっかで聞いたことあるよ」

 短く即答した。ホラー系の話は結構好きだ。どこで聞いたのだったろうか?

「それは『桜の木の下には』という梶井基次郎の散文詩的な短編小説が元なんだよ」

「そうなんだ……文学作品から来ていたなんて初めて知った」

 それにしても小田は、その梶井という作家について妙に詳しいようだ。よっぽど好きなのだろう。広々とした屋上を微風が優しく通り抜けた。私の癖毛を弄んで愛撫するように頬をなぞって行ったが、整髪料で固めているらしい小田の短髪は揺らぎもしなかった。

「梶井基次郎の作風は、当時随一の大文豪だった志賀直哉の影響をかなり受けていた。それを言ってしまえば、当時の小説家ってほとんどみんな例外なく、志賀直哉の影響を大なり小なり受けていたんだけどね。……志賀直哉の影響だから、作品は内向的な私小説みたいのが多かった。特に、結核という自分の病気をネタにした死にネタが」

 今では、結核はさほど恐れられていない。医学の進歩というのは凄いらしい。昔は、大いなる未来の可能性を持っていた人でも、衛生状態や医療技術の悪さのせいで不治の病に襲われて、はかなく若い命を散らしていたのだ。そう思うと、受験勉強の苦しさごときで思い悩んでいる私などは贅沢と言うべきか、なんとなく申し訳ないような気分ではある。

「若くして死んだせいもあって、梶井作品が世に評価されるようになったのは生前ではなく没後になってからだった。俺からあえて偉そうに言わせてもらえば、梶井作品の良さが分からなかったなんて、当時の人は案外見る目が無かったんだな」

 四角い構造物の上でしゃがんだまま、ふんぞり返る小田。本当に偉そうな言い種だ。

「……ねえ小田、作者の梶井なんとかという人の話は分かったけど……思いっきり話がズレちゃっているでしょ。その『檸檬』という作品が一体なんだって言いたいの?」

 そう。作者梶井の話は前置きでしかない。本題である『檸檬』という作品については、まだ触れられていない。この間、屋上という開放空間において無防備に直射日光の攻撃を受け続けていたわけである。後で肌にシミができたりしたらどうしよう。


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