第6話 屋上
学校の七不思議の定番だけど、この学校では音楽室の謎については聞いたことがない。ベートーヴェンの肖像の目玉がギョロリと動くとかモーツァルトの外向きにカールした髪が内巻きになる、という噂も聞かない。ついでに言えばトイレの花子さんの噂も聞かない。だから安心してトイレでタバコを吸えるといえばありがたいのだが、反面、勉強、勉強ばかりで面白みの少ない学校だと改めて思う。
防音の扉が閉め切られてはいても、中の音は完全にシャットアウトされることはないらしく、少し漏れ聞こえてくる。ピアノの音色ではなく、メロディーを形成せずに単に吹き鳴らされている管楽器の音。吹奏楽部が音出し練習をしているのだ。
他校に通っている友達も吹奏楽部に所属していて、夏休み中も毎日音楽室でフルートを吹く練習していると言っていたのを思い出した。モーツァルトやバッハのくるくるした髪の毛は地毛ではなくウィッグだと言ってフライドポテトを囓りながら朗らかに笑っていた。
部活にせよ勉強にせよ、何かに対して一生懸命に打ち込んで頑張るのが青春の姿なのだとしたら、部活には参加しておらず勉強も中途半端な私の場合は、かなりふやけた学生時代かもしれない。見た目を偽装する必要なしにタバコを買うことができる年齢を過ぎた後になってから、しみじみと顧みることになるのだろうか。
吹奏楽部の邪魔をしてはいけない。早々に立ち去ることにする。
音楽室の横には……
上へ向かう細い階段があった。
ここ四階が最上階だと思っていたら、更に上へ行く階段がある。生徒や先生が主に使う中央階段は、四人くらいが横に並ぶことができる幅があるけれども、この階段はせいぜい二人がすれ違うのがやっとくらいだ。
――屋上へ行く階段かな?
普段、通る人がいないからか、どこかしら寂れた感じの階段だ。この学校の他の部分と同じで、掃除はきちんと行き届いているようだしワックスもかけられていてテカテカとしている。目立った塵や綿ゴミが落ちているわけでもない。それでも、使う人がいないというだけでこうも空虚な埃っぽさが顕著になるものなのか。
ふと興味を持った私は、階段を上がってみた。踊り場を曲がると、その上は水色の鉄扉で終わっていた。この先が屋上のはずだ。だが……
生徒が転落したり飛び降り自殺を図ったりしたら社会的に大問題になるから、大抵どの学校でも屋上というのは立入禁止で厳重に施錠されているはずだ。だから……
――鍵がかかっていて出入りなんてできるはずないよね。
そう思ってノブを回してみる。ダメで元々だった。
と、途中で引っかかることなく、耳障りな摩擦音を立てることもなく、すんなりとノブは回転した。そのまま前に力を入れて押すと、重さはあったけど静かに扉は開いた。
なんと。手違いか何かで施錠を忘れていたのだろうか?
驚きつつも、屋上へ出られる滅多に無いチャンスを掴んだ私は、ちょっと小躍りするような心境で未知への扉を全開にする。
校庭の木で鳴いているのか。弾け過ぎた炭酸飲料のような蝉の声が、暴走したぜんまい仕掛けの時計みたいにやかましく氾濫する。
盛夏の光が溢れて、薄暗い階段の光量に慣れていた私の瞳を灼く。学校という最も身近な建物にあって、小学校中学校高校と今まで一度も足を踏み入れたことの無かった屋上という異界の領域。ありふれた小説なんかでは恋愛の告白の舞台として使われる機会が多いので、実際に行ったことは無くてもなんとなく身近にも感じる不思議な場所。夏休みの屋上が、彷徨える私を迎えてくれた。
† † †
屋上に出て後ろ手に重い扉を閉めると、扉の水色は空の青さに溶け込んだようにも感じられた。空が近い。学校でありながら、学校とは隔離された別世界。そこはある意味、まさにファンタスティックな異空間だった。暑さで半分溶けた時計が垂れたような有名な絵画の世界観を思わせるように、距離感が日常とは異なっていた。
私にとっての未知なる領域、屋上。
ここに来たのは偶然のたまものだ。何かを期待して来たわけではない。
でも。期待通り、見晴らしは抜群に良かった。
地面が遠い。家々の屋根が低い。地上より風が強い。
遮る物が何も無いので、爆弾が黄色く炸裂しているかのような夏の太陽が、燦々と輝いて夏服の白セーラーを灼く。ひび割れから雑草が数本生えているコンクリートは直射日光にあぶられ、熱が上履きの底を透過して足の裏にも伝わってくるような感覚すらある。
下の方からは、グラウンドで練習をしているサッカー部員たちの元気なかけ声が聞こえてくる。サッカー部のみなさま、強い日射しの中での熱心な練習、お疲れ様です。吹奏楽部もそうだけど、夏期講習と部活の練習時間が重なってしまっているのは、ラッキーなのかアンラッキーなのか。
青春の完全燃焼。素晴らしいなぁ、と率直に思う。他人事だけど。
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