第5話 施錠

 頭上を飾っている赤いリボンがちょっと曲がっているように見えて、真っ直ぐになるように修正した。毛先がどうしても跳ねてしまう癖毛なので、それを誤魔化す意味で愛用している。スペインの闘牛士が持つ布のような情熱的な深紅色のリボンをアクセントとして、他人の視線がなるべく毛先に向かないようにしているのだ。好きな漫画のキャラクターが赤いリボンを付けているのをマネしている一面もある。赤いリボンは私のアイデンティティを主張するこだわりだ。

 鏡の中の私に別れを告げて、トイレを出る。

 廊下には私以外の人影は無かった。

 個室に閉じこもって人の気配の錯覚に怯えていた間に、予鈴を聞き逃したようだ。もう休み時間は終わり、講習は始まっているみたいだ。

 真面目な受講生のみなさんも、先生も、暑い中お疲れ様です。頑張ってください。

 心の中だけでそっと呟いてから、私は時間つぶしのために、学校内を適当に散歩することにした。

 廊下の窓から外をちらっと見やってみると、二匹の黄色い蝶が戯れ合うように飛んでいた。どこかで蝶が飛ぶと、それが伏線となって、別のどこかで嵐が起きるという。バタフライ効果というらしい。今頃、どこかで重大事件が起きているのだろうか。

 蝶はどこかへ飛び去り、私は無人の廊下へ目を戻す。堅苦しく気詰まりな公立進学校。管理は行き届いているようで、丁寧にワックスがかけられているリノリウムの床は、病院のようにきれいに保たれている。スケートリンクのようにつるつるでありながら、一歩一歩進むごとに上履きの底が貼り付くようである。

 ……この時点では、まだ単なる日常のヒトコマ、だと思っていた。暑い日。いつもはまがりなりにも真面目なフリをして参加していた夏期講習。ちょっと気まぐれでサボっただけ。

 ほんのちょっとした変化。蝶が飛んだくらいの小さな動き。

 でもこれが、テロとの遭遇の大きな伏線になっていたのだ。この時点の私には、全く知る由も無かったが。


   †   †   †


 風通しが悪いからか、廊下には幾重にも薄皮を被ったような重い蒸し暑さがある。

 タバコの煙などで色をつけない限りは空気は目に見えない。同時に、日頃は空気というものの重さを感じることは無い。でも蒸し暑く風通しの悪い中に居ると、問答無用で空気の重さを実感しなければならない。

 汗で湿った白い半袖セーラー服の袖口が、二の腕の皮膚に貼り付く。プリーツスカートも太腿の動きを阻害する。制服は夏服ではあっても、空気の重量感を助長しているようだ。

 二年生の教室群がある三階のフロアを一通り歩くと、中央階段の所へ来た。上へ行けば一年生の教室がある四階。三年生の教室は二階にある。なんとかと煙は高い所へ行きたがる、という言葉があるようだが、私はなんとなく気分で上へ行くことにした。

 でもすぐに、ちょっとだけ後悔した。昇り階段。一段一段ステップを踏むために太腿を上げるのが重い。帰宅部だから日頃の運動不足が祟っているのか。もしくはエクストラライトであってもニコチンパワーが炸裂しているのか。

 段数を数えてみると一二段であり、学校の怪談によく出てくる一三段ではなかった。札幌に行った時に見た時計台のように期待外れでしょんぼりだった。夏休みだからお化けの季節のはずなのに。夜になったら一二が一三になると期待してもいいのだろうか。自分はこの気詰まりな学校に何を期待しているのだろう?

 四階の、廊下の曲がり角に位置する視聴覚教室を戸の窓から覗いて見た。誰もいないせいで、日頃よりも座席数が多いように感じる。

 散策してただ単に歩き回るだけでは暇なので、ちょっと出来心を抱いて戸に手をかけてみた。

 開かなかった。鍵がかかっている。

 無人の視聴覚教室に入って何かをしたいという目的があったわけではなかったが、使わない特別教室はしっかりと施錠されているらしい。校内の清掃が行き届いているように、管理体制はしっかりしているようだ。トイレや廊下などが清潔であるなど、管理が万端であることの恩恵を受けているのは事実だが、個性を持った人間であるはずなのに「生徒」という括りで十把一絡げに管理されるのは、他の人がどう思うかはともかくとして私としてはあまり面白い気分ではない。

 鍵がかかっていて中に入れないのなら、どうでもいいや。という気分で、私はすぐに視聴覚教室に対する興味を失った。

 更に歩いて行くと、音楽室という看板が目に入った。

 芸術科目として、美術、書道、音楽の内の一つが選択必修となっているが、私が選択しているのは美術であり、音楽室には全く無縁だった。だから音楽室が四階の一番隅に存在しているという事実を今この瞬間に初めて知った。音の影響が出ないようにするために最上階の端に配置されているのかもしれない。

「この場所じゃあ、もし仮に夜中にピアノの音が鳴っても、音楽室の真ん前にいなきゃ聞こえないような……」


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